第2話② 兄の“とんでも密約”発覚
部屋に戻り、侍女の助けを借りて簡単に身なりを整えると、コーデリアはベッドに腰を下ろした。まだ昼過ぎだというのに、今にも寝てしまいそうなほど体が重い。二日酔いが抜け切らないせいもあるが、精神的な疲労も相当溜まっているのだろう。
昨日の夜会であれほど派手に婚約を破棄された以上、今頃は社交界じゅうが噂で持ちきりに違いない。取り巻きたちが大喜びでコーデリアを笑いものにしている光景が目に浮かぶ。そんなことを想像すると、また苛立ちが込み上げてくるが、それより今は兄のとんでもない行動に頭を抱えざるをえない。
「でも……もし兄さまの動きが、レオナルドにとって致命傷になるのだとしたら……私の気分は少しは晴れるのかしら」
思わず口からこぼれたつぶやきに、コーデリアは自分でもはっとする。そういう考えをしてしまうあたり、自分もまた負の感情に飲まれかけているのかもしれない。頭を振って気を取り直す。今は、これ以上妙な方向に思考を進めないよう、意識して冷静さを保つしかない。
「とはいえ、兄さまの行動力はいつもながら驚異的だわ。まさか一晩で隣国の王子と話をつけるなんて……。普通じゃできないことよ」
リエストリアのルシアン王子、妹を溺愛する人物――どんな人なのだろうか。そもそも、なぜアシュレイはそこまで簡単に打ち解け合えたのか。妹という共通点だけで、ここまで規模の大きな密約を交わすものなのか。疑問は尽きないが、アシュレイのやることに常識を期待しても仕方がないと思う。
「やっぱり、少し休もう。頭が割れそう」
コーデリアは枕に身を預け、ゆっくりと目を閉じる。喉元までこみ上げていた怒りや混乱が、まどろみのなかに薄れていくのを感じる。浅い眠りの合間に、レオナルドの嘲笑がちらつき、そのあと兄アシュレイの険しい顔が見えた気がした。けれど、それも徐々に深い闇へと溶けていく。
うとうとと眠りに落ちかけたころ、扉をノックする控えめな音がした。侍女が小声で「失礼いたします」と告げると、コーデリアは面倒くさそうに半分だけ目を開ける。
「なに?」
「申し訳ありません、お嬢様。少しだけお時間を頂戴したく……ご体調が優れないようなら後ほどにいたしますが」
「どうせ大事な用なのよね。いいわ、手短にお願い」
再び身を起こしたコーデリアのもとへ、侍女が一通の手紙を差し出す。それは王宮から届いたものらしかった。金色の封蝋には王家の紋章が刻まれている。
「嫌な予感しかしないけれど……」
王太子からのメッセージとも思えるが、このタイミングで届くなんてどういうことだろう。コーデリアが封を切ると、中には定型的な挨拶文とともに、「先夜の一件について報告がある。近日中に会いたい」という旨が書かれていた。それはレオナルド本人が書いたものではないようだが、おそらく側近あたりが出したのだろう。
「ふん……。向こうは向こうで、何か思惑があるのかもしれないわね」
コーデリアは手紙を放り投げるように机の上へ置く。正直なところ、まだレオナルドの顔など見たくもないが、事態がこうも急激に動き始めるとあれば、逃げているわけにもいかない。兄の密約も含めて、どうにか上手に立ち回らねば後悔する結果になるかもしれない。
部屋の中はシーンと静まり返っているが、外ではアシュレイが家中を巻き込んで計画を進めているのだろう。そんな兄の声が遠く響くように、耳の奥でこだまする。
「妹を守るためなら何だってする――か。やれやれ、どうして私はこんなにも振り回される運命なのかしら」
コーデリアは小さく笑いながら、再びベッドに倒れ込んだ。まだ頭が重い。それでも、瞼を閉じればほんの少しだけ眠りに落ちられそうな気がした。ともかく、しばしの休息を取ってから、改めて兄の暴走を止めるか、それとも利用するかを考えなければならない。
そう、結局はあのレオナルドを叩きのめしたいという気持ちは、自分のなかにも確かにあるのだ。無神経な王太子をけちょんけちょんにしたいとまでは思わないが、少なくとも彼が痛い目を見るところを見たいという感情は否定できない。ならば、アシュレイの計画に乗るのも一つの手なのかもしれない。
「だけど、国レベルの騒動は勘弁してほしい……」
最後にそんな弱音をこぼすと、コーデリアはほんの数秒で意識の淵へと沈んでいった。自分でも知らぬうちに背負った重圧と二日酔いの疲れが相まって、体は限界を迎えていたのだろう。今はとにかく眠るしかない。
このとき、コーデリアが知らないところで、屋敷の来客用サロンには高級な茶器が並べられ、隣国の王子へ送る手土産のリストが作成されつつあった。書簡を運ぶ使者は馬車を引き連れ、各方面へと疾走している。アシュレイの声が響く書庫では、大量の書類がめくられ、印が押され、封が施されていく。まるで軍備を整えるような異様な光景に、家臣たちの口元は引きつりっぱなしだった。
「アシュレイ様、ここまでの動員をかけるのは……さすがにやりすぎでは?」
「どこがやりすぎだ。コーデリアは昨日、大勢の前で恥をかかされたんだぞ? むしろ足りないくらいだ」
そう言って涼しい顔で書簡に署名するアシュレイ。家臣たちは内心、こんな上司に付き合う羽目になるとはと思いつつ、命じられた仕事を淡々と片付けていく。誰もが思う「妹を守る」という一点にかける執念は、アシュレイにとって常軌を逸したものなのだろうと。
こうして、コーデリアが二日酔いから回復するよりも早く、隣国との密約に基づく根回しが着々と進められていた。だが、彼女がもう少し深く寝入った頃、今度は宮廷側が新たに動き出そうとしている気配を見せる。レオナルド王太子の陣営もまた、このまま黙って引き下がるわけがないのだ。
しかし、その膨れ上がる嵐の予感にも気づかぬまま、コーデリアは浅い眠りの中で小さく息を整えていた。頭痛の残響とともに見る夢の中で、兄の顔がどこか得意げに笑っている気がする。それは悪夢というよりは、どこか頼もしささえ感じさせるものだったが、目が覚めて冷静になれば「冗談じゃない」と思うに違いない。
こうして、静かに昼下がりの時間が過ぎていく。外の陽射しはすでに真上から傾き始め、昼と夕方の境目が近づいていた。コーデリアが再び目を覚ますころには、状況がさらに動いていることなど、まだ誰も知る由もない。だが、一晩で隣国と組む兄の凄まじい行動力を思えば、何が起きたとしても不思議ではなかった。
こうして、妹を傷つけた者に対して一歩も引かないとばかりに息巻くアシュレイと、その渦中の当事者であるコーデリアの波乱は、まだまだ始まったばかりなのだ。彼女は知らずに、この嵐の中心へと巻き込まれようとしていた。まどろみに沈む部屋の静けさとは裏腹に、現実は慌ただしくその歯車を回し続けているのである。