第11話② 追い詰められる王太子
夕刻、グランデュール家を出た馬車は夜会の会場となる侯爵邸へ向かう。そこでは厳かな音楽が流れ、貴族や令嬢たちが集いながらも、どこか浮き足立った空気が漂っている。なぜなら、王太子を取り巻いていた令嬢たちの大半が離反し、今や場に集う人々の誰もが「一体どうなるのかしら」と興味半分・不安半分で過ごしているからだ。
そこへ王太子レオナルドが姿を現すと、一瞬だけどよめきが起こった。普段であれば堂々と歩むレオナルドに拍手や称賛が集まるところだが、今日は誰一人として声を上げない。周囲の視線は冷ややかで、取り巻きが少人数しかいないレオナルドの後ろ姿を目で追うだけだ。フィオナ・ラビエールがその横に控えているが、彼女もまた顔色がさえない。
「殿下、きょうは気を強く持ってくださいませ。わたくしが何とかコーデリア様を……」
「いいから黙れ。見ろ、あれだけの人間がいるというのに、わたしを称える声ひとつないのだ。まったく、どういう風の吹き回しだ」
レオナルドが苛立ちをかみ殺すように言葉を吐き捨てる。今までは彼が現れるだけで歓声に似たさざめきが起こり、令嬢たちが競って声をかけてきた。だが、今は通路を進む彼の周囲に人垣ができることもなく、皆が一歩距離を置いて見守っている。その異様な空気に、フィオナも怯んだように身を縮める。
「大丈夫……。きっと殿下のお力を示せば、皆さまは再び崇めてくださるはず。わたくしがその布石として、コーデリア様を……」
そう言いかけたフィオナが、突然言葉を失った。視線の先には、サロンの出入口近くで来賓に挨拶をかわしているコーデリア・フォン・グランデュールの姿がある。淡い紫色のドレスをまとったコーデリアは、優雅な笑みを浮かべながら、周囲の貴族や令嬢と和やかに言葉を交わしていた。しかも、その傍らにはアシュレイの姿まである。
「……しまった。まさか、あのふたりが揃って出席するとは」
フィオナは心臓が軋むような息苦しさを感じながら、レオナルドに視線で合図する。王太子も同じことを考えたのか、コーデリアの姿を捉えるや目を剣のように鋭く細める。しかし、ここで直接コーデリアに声をかけるなどという行動は彼のプライドが許さず、結局は遠巻きに様子をうかがうしかない。
「さあ、フィオナ。行くんだ。コーデリアの正体を暴いてみせろ。おまえが被害者を演じてでも、あの娘が陰でわたしの評判を落としているのだと訴えるのだ」
「は、はい……。が、がんばります」
言葉とは裏腹に、フィオナの足取りは震えている。コーデリアのほうを窺えば、彼女のまわりにはすでに何人もの令嬢や貴族が集い、まるで新しい中心人物を囲んでいるかのようだ。かつては王太子にへつらっていたであろう面々も、今はコーデリアへの礼儀を失していない様子。フィオナはその光景を前に、吐きそうなほどの緊張に襲われた。
「ええと……み、皆さま! 聞いていただけますか! わたくし、どうしても言いたいことが……」
フィオナは決死の思いで声を張り上げ、周囲の注目を集めようとする。コーデリアの話に耳を傾けていた令嬢たちの一部が振り返り、「フィオナ? まだ王太子派にいたのね」とでも言いたげな軽蔑の眼差しを向けているのを感じる。だが、フィオナはそれを見てかえって意地になる。ここで退いたら殿下を救えない――その一念だけが、彼女を突き動かしていた。
「コーデリア様が、わたくしたち令嬢を苦しめているという話を、皆さまはご存じありませんか! 彼女こそが王太子殿下に不当な噂を流しておられるのでは、とわたくしは疑っているのです!」
大きく息を吸い、フィオナは一気に言葉をまくし立てる。すると、サロン内の人々の視線が彼女に集中した。コーデリアも「何かしら?」という顔で振り向き、アシュレイが興味深そうに首を傾げる。その圧力だけでも、フィオナの心は折れそうになったが、ここまで来た以上引き返せない。
「もしコーデリア様が殿下の評判を陥れようとしているなら、それは国全体への裏切り行為にあたるはず。それなのに、皆さまはあの方の言動を鵜呑みにして……」
だが、フィオナがそこまで言いかけた瞬間、近くにいた令嬢が低い声で「証拠はあるの?」と問いかけた。かつては王太子派として知られていたはずの令嬢だが、今はコーデリアと親しくしているらしい。その令嬢の周囲の仲間たちも、じろりとフィオナを睨むような視線を向けている。
「し、証拠……?」
「そうよ。フィオナさんがそれほど強く言うなら、何か確かな事実をお持ちなのでしょう? 『あの方こそ悪者だ』と決めつけるだけでは、説得力に欠けると思うわ」
令嬢たちが口々に「証拠を出して」「まさか口先だけじゃないでしょうね」と詰め寄る姿は、フィオナが想定していた展開から大きく外れていた。いつもなら「殿下を持ち上げる発言」に賛同してくれるはずが、今は一人も味方してくれない。一方、コーデリアはどこか苦笑いめいた表情を浮かべ、あえて沈黙している。
「そ、それは……た、たとえば、コーデリア様が……その、わたくしにひどい仕打ちをしようと画策していたとか……」
「画策? それこそ根拠がないんじゃないの。コーデリア様があなたに酷いことをした記憶なんて、わたしたちは聞いたことがないのだけれど?」
「そ……そんな! 本当ですよ! わたくし、殿下に近づいたばかりに、コーデリア様に目をつけられているんです!」
必死の訴えに、令嬢たちが呆れたように顔を見合わせる。いつまでも証拠を出せないフィオナが言うことといえば、「あの方が怖い」「実は恨まれている」など、曖昧な内容ばかり。むしろ「恨まれても仕方ないようなことをしたのではないか」と逆に勘繰られてしまう始末だ。結果として、フィオナの言葉は「人の悪口を根拠なく叫ぶ滑稽な行為」として受け取られつつあった。
「もしかして、あなたは王太子殿下に気に入られたいばかりに、話をでっち上げているんじゃないの?」
「それとも、ただの勘違い? いずれにせよ、あまり見苦しいわよね」
そんな言葉が令嬢たちの間から漏れ始めると、フィオナは顔面を蒼白にし、思わず後ずさった。ここで自分が負けを認めたら王太子に見放されるとわかっていても、もはや何を言えばいいのかさっぱり思いつかない。一方、コーデリアはしばらく微動だにしていなかったが、やがてゆっくりとフィオナのもとへ歩み寄ると、軽く微笑んだ。
「フィオナさん……そんなにわたしを怖がっているの? 正直言って、あなたに何かする気なんてないわ。もしわたしが本当に裏で悪さをしているなら、どうしてこうして皆さんの前に堂々と立っていられると思う?」
「そ……それは……」
「もしあなたの言葉が正しいのなら、今ごろわたしは身を隠して王太子殿下から逃げているはずよ。そうじゃないかしら?」
まったくと言っていいほど反論できないフィオナの姿に、周囲の視線はますます冷ややかになった。確かに、コーデリアが本当に悪事を働いているなら、こんな公の場で悠々と令嬢たちと談笑するなど常識的に考えづらい。しかも彼女には、公爵家という強大なバックもある。あえて危険を冒す必要などないのだ。
フィオナが絶句している様子に、アシュレイはわざと声を張って笑ってみせた。
「ははは! なるほど、フィオナ・ラビエール殿は、妹がそんな陰謀をめぐらせる存在だと思っているのか。ならば、どうぞ証拠を示してくれ。――ないだろう?」
「う……うう……」
フィオナは視界が霞むような絶望感に襲われた。殿下のために必死で訴えたつもりが、結果は誰一人として信じてくれないどころか、自分が場違いな存在だと露呈してしまったのだ。周囲の令嬢たちは嘲るような囁きを交わし、コーデリアは微笑を湛えたまま「もうこれ以上は言わなくてもいいのよ」とでも言いたげな表情を浮かべている。
「これで、あなたの計画は失敗に終わりそうね。……わたしは別に、あなたが悪いなんて言いたいわけじゃないの。きっと、あなたも苦しかったのよね」
まるで勝利を確信した者の優雅な態度を見せつけるように、コーデリアはフィオナの肩を軽く叩き、そのまま身を翻した。彼女の周囲に集まっていた令嬢たちが、どこかホッとした顔でコーデリアに笑みを返す。そこにはフィオナが入り込む隙など微塵もなかった。
しばらくして、フィオナは何も言えないまま俯き、よろよろと後退した。視界の端にレオナルドの姿を捉えたが、殿下は怒りとも哀れみともつかない複雑な表情をしている。結局、彼はこの形だけの反撃にあまり期待をしていなかったのかもしれない。惨めな姿を見せただけで終わったフィオナに、近寄って声をかける取り巻きもほとんどいない。
「やはり……わたしには無理だったのね……」
フィオナは泣きそうな声を漏らしながら、自分を鼓舞してくれた王太子のところへ戻ることさえ躊躇していた。もし殿下に「役に立たない」と責められれば、今度こそ居場所がなくなる。周囲の令嬢たちも、ちらちらと彼女を見ながら耳打ちしている。いま彼女の背中に突き刺さる視線は、かつてコーデリアが浴びていた視線のようにも思えたが、その違いは同情する者の有無だ。コーデリアには兄や一部の友人がいたが、フィオナにはもはや誰も寄り添っていない。
こうして、形だけの反撃は見事に空回りし、王太子陣営はさらに評判を落とす結果となった。殿下を批判する大勢の前で無根拠な攻撃を仕掛けたのだから当然だ。レオナルドはその晩、夜会を早々に辞して邸に引きこもったと伝えられる。一方、コーデリアはアシュレイや一部の協力者たちとともに夜会の場を存分に楽しみ、周囲から拍手をもって迎えられた。誰もが「やはり真の余裕はあちらにある」と感じ取ったのだろう。
夜会を後にした馬車のなかで、コーデリアは窓の外を見やりながら穏やかに息をつく。王太子が振り絞った策は失敗に終わり、自分の評判はむしろ上がり続けている。この流れを止めるには、もはやよほどの奇跡でも起こらなければ無理だろう。少しの悲哀を混ぜて言うなら、レオナルドは自らの存在を支える権威以外、何も頼れる手段を持たないということだ。
「かわいそうに、フィオナ・ラビエール。あの子は本気で殿下を慕っているからこそ、こんな無茶な真似に出たんでしょうけれど……結果は散々ね」
アシュレイが「同情するのか?」とからかうように声をかけると、コーデリアは軽く首を振る。
「同情なんてないわ。ただ、あの子が失敗したのは予想どおりすぎて、少し気の毒に思っただけ。でも、わたしが手を貸す理由もないでしょう?」
「まあ、向こうがやり方を誤っただけの話だ。これで一層、王太子の周囲は空虚な殻になるだろう。あの娘が最後に抜けるかもしれんが、それでも状況は変わらんさ」
夜の闇に溶け込むように馬車は走り、石畳を踏む車輪の音が微かに響く。レオナルドの陣営では絶望感が漂い、王太子の形ばかりの反撃策は空振りに終わった。その一方で、コーデリアたちはさらなる優位を確信している。わずかな悲哀が混じるのは、もとより彼らが望んだものではない戦いだからだが、もはや後戻りはできない。
「いずれにせよ、あちらはあとがないのでしょうね。何をしようが、もう皆が王太子を見限りつつある。それは殿下自身が撒いた種よ」
「確かにな。妹に婚約破棄を突きつけて恥をかかせたあの日から、王太子の運命は変わっていたのかもしれない」
アシュレイの言葉に、コーデリアは窓の外に漂う月明かりを見つめながら小さく笑う。レオナルドが自分を捨てたという事実は、あのときは心底悔しかったが、今となっては逆に自分を強くした根源になっている。彼を追い詰める行動に移すきっかけとなったのだから皮肉なものだ。
そして今回のフィオナの失敗が示すように、王太子はもう権威と虚勢を頼りにするしか道がない。ヒロインめいた美しさも、熱意も、今の社交界では通用しなくなっているのだ。冷徹なコーデリアに加え、行動力に溢れるアシュレイと隣国王子が後ろ盾となっている以上、いかに王太子が叫ぼうと、周囲を納得させられるだけの力はない。
「結果として、殿下の孤立はますます深まるわね。わたしにはそれで十分」
「俺も同じ気持ちだ。そろそろ最後の仕上げが近いかもしれん。奴の焦りがさらに高まれば、いよいよ決定的な一手を仕掛けるタイミングになるだろう」
馬車が屋敷へ向かう道を進むなか、コーデリアはドレスの裾を整えながら、心に去来する思いに身を任せる。フィオナ・ラビエールという少女は、少しの悲哀を伴って散っていくのかもしれない。王太子を信じて全力で尽くすが、それが裏目に出れば、王太子から見捨てられるのは時間の問題だ。まさに形だけの反撃が空回りして、苦しむのは自陣の者――そんな悲惨な図式が浮かび上がっている。
「もう誰も彼を支えられない……これが結末なのね。悔しければ、証拠の一つでも示せばよかったのに」
そう小さくつぶやくコーデリアの表情には、わずかながら憐憫の色があった。もともと、自分を笑い者にした王太子を許すつもりはないが、一度も反省することなく権威に縋る姿を見ると、虚しさすら覚えるというものだ。形だけの反撃策など、アシュレイの情報網にあっさり事前に察知されて終わり。その繰り返しを続ける限り、レオナルドとフィオナに勝ち目はない。
外の風が夜の冷たさを帯び始めるころ、馬車はグランデュール家の門をくぐった。屋敷の灯火が穏やかに出迎え、使用人たちが深々と頭を下げる。今日は成果の多い一日だったと実感しながら、コーデリアはアシュレイとともに馬車を降り、静かに邸内へと足を踏み入れる。レオナルドの迷走とヒロイン気取りの令嬢の苦戦を目の当たりにして、ますます自信を深めたのだ。
「さあ……これでまた一歩、わたしたちは先へ進んだわ。兄さま、今夜はぐっすり眠れるんじゃない?」
「おまえこそ心配事が減っただろう。フィオナの無謀な行動で、向こうの無力さがますます露呈した。やつらの限界は近い」
互いに笑みを交わし、屋敷の中へと消えていく。扉の奥で侍女が出迎え、水差しと温かい飲み物を用意している。長い夜の静寂が降り始めた頃、王太子陣営の焦りと迷走はますます深まり、フィオナの苦労は誰にも報われぬまま終わっているのだろう。
実際、その後の王宮では「フィオナがコーデリアにやり込められた」という話が瞬く間に広まり、王太子の威厳はさらに下がるばかり。空回りの計画は新たな信用を得るどころか、形だけの失敗として大衆の笑いの種になってしまったらしい。しかし、それを案じる者は少なく、その場にいなかった貴族たちさえもう「やはりコーデリア側が正しいのだろう」と受け取っているのが現状だ。
夜が深まるなか、グランデュール家の窓にも静かに明かりが落とされていく。あすの朝日が昇る頃には、さらに多くの者が王太子から離れ、コーデリアに接近しようと試みるに違いない。レオナルドはどんな手を打とうとするのか、もはや誰にもわからない。だが、彼が事態を好転させるだけの力を持っていないのは周知の事実になりつつあった。
こうして形だけの反撃策は失敗し、王太子レオナルドは焦燥を深め、ヒロインを名乗る令嬢は苦戦の末に消耗しきってしまった。残されるのは、さらに追い詰められる王太子陣営と、着実に勝利へ歩むグランデュール家の光景。それはまるで、勝敗が既に決している一方的な舞台のようでもあった。そんな冷徹な現実を前に、コーデリアはため息まじりの微笑を浮かべながら、静かに自室のドアを閉じたのだった。




