第2話① 兄の“とんでも密約”発覚
翌日の朝――というにはあまりにも遅い時刻に、コーデリア・フォン・グランデュールは重いまぶたを開けた。頭をずきずきと刺すような痛みと、喉の渇き。枕元には外したコルセットや、半分以上も空になった酒瓶が見える。前夜の出来事を思い出そうとすると、いやでも王太子レオナルドの冷笑まじりの声が頭をかすめた。
「……うう、最悪」
そう嘆きながら手を伸ばすと、小さなテーブルには水差しが置かれている。これはおそらく使用人が気を利かせたのだろう。グラスに注がれた水を一気に飲み干すと、多少は楽になった気がした。しかし、足元がおぼつかなくて、次に立ち上がった瞬間、視界がくるりと回りかける。やけ酒にしては、いささか度が過ぎたと後悔するばかりだ。
このまま一日中、ベッドのなかでふさぎ込んでいたい。そんな弱音を吐きそうになったが、そのとき扉の向こうで、慌ただしく行き交う人々の気配がした。廊下を急ぎ足で通る足音や、緊迫した声――普段のグランデュール家にはあまりない空気が漂っている。
「なんだか騒がしいわね」
コーデリアは微かな吐き気をこらえつつ、寝間着代わりに着ていた薄手のローブを一枚羽織る。昨日のドレスはしわくちゃのままで床に投げ出されていたが、今さらそれを見てため息をつく余裕もない。とにかく廊下へ出て、この騒ぎが何なのかを確かめる必要があった。
部屋の扉を開けるやいなや、侍女の一人が息を切らして駆け寄ってきた。
「お嬢様、大丈夫ですか? 随分と遅いご起床ですので……」
「頭が痛いだけよ。それより、この家の中で何が起こっているの? 朝からずいぶん慌ただしいじゃない」
侍女は言葉を選ぶように少し唇を引き結んでから、小声で答える。
「じ、実は……アシュレイ様が、昨夜から何やら書簡を飛ばしたり、近しい家臣たちを集めたりしておられまして。それもとても急いでおられるご様子で……」
「兄さまが? 珍しいわね、あの人がこんなに慌てるなんて」
コーデリアにとって兄アシュレイは、家の長男としての責任感と厳格さを備えつつも、どこか自由奔放なところがある人間だという認識だった。もっとも、妹である自分への愛情は常軌を逸しているとすら感じることもあるが、それでも朝から家臣を呼びつけて騒ぐような人間ではない。よほどの緊急事態なのかと胸騒ぎがした。
「ひとまず、兄さまのところへ行くわ。……ああ、頭痛がひどい」
額を押さえながら廊下を進むと、普段は開かれているはずの執務室の扉が固く閉ざされ、外には護衛や家臣が数名立ち並んでいる。コーデリアの姿を認めると、彼らは一礼して道をあけてくれた。
「お嬢様、どうぞ中へ。アシュレイ様がお待ちです」
促されるまま扉を開けると、そこには机に山のような書類を積み上げ、家臣たちと鋭い口調でやり取りをしているアシュレイがいた。いつになく険しい表情でありながら、彼の目は何か強い決意をたたえているように見える。
「兄さま、一体何を……」
コーデリアが問いかけると、アシュレイは書簡の山の一部を家臣に渡し、ひとまずそれを退室させてから、妹へと向き直った。視線がぶつかった瞬間、その瞳に宿る炎のようなものに、コーデリアはほんの少し圧倒される。
「コーデリア、起きたか。すまないな、もう少し早くおまえを呼びに行くつもりだったが、昨夜は相当飲んだのだろう?」
「まぁ……否定はしないわ。でも、それより教えてちょうだい。何が起こっているの?」
アシュレイは椅子から立ち上がると、机の端に置かれていた手紙の束を手に取った。封蝋が割られた形跡のあるそれらは、どれも見慣れぬ紋章が押されているものばかりだ。
「実は昨夜、おまえが夜会から戻ってきたあとに、ある人間がここを訪ねてきた。すでにおまえはベッドに直行していたがね。……いや、正確には訪ねてきたというより、我々が呼びつけたというのが正しい。リエストリア王国の王子殿下の使者だ」
「リエストリアの王子……? 一体なぜ?」
コーデリアの頭はまだ二日酔いのせいでぼんやりしていたが、それでも理解できない事態に直面していることはわかる。敵対の火種がくすぶる中、緊張感が途絶えない隣国リエストリアの使者が、なぜグランデュール家に訪れたのか。
「もともとリエストリアの王子とは水面下で少し連絡を取り合っていたんだ。隣国だからこそ王太子の動きには注目していたらしい。向こうも好機は今しかないと踏んだようだ。だから急ぎ話を通して、昨夜のうちにある密約を結んだ」
「密約って、まさか……」
「言うまでもないさ。あのレオナルド王太子への制裁を念頭に置いた内容だ。妹を侮辱した罪を、今こそ思い知らせてやる。俺としても、夜会の件が広まる前に動きたかったから、深夜に使者を呼び出して徹夜で話をまとめたんだよ」
あまりにもさらりと物騒なことを言うアシュレイに、コーデリアは目を見開く。昨夜の婚約破棄が大きな波紋を呼ぶだろうという予感はしていたが、まさか兄が密約を結ぶなどという大それた行動に出るとは。
「待って、ちょっと待って。私、そんな大げさなこと頼んだ覚えはないわよ! 確かに頭にくる出来事ではあったけれど、だからといって隣国の王子を巻き込むなんて……」
「気にするな。おまえが頼んでいなくても、俺はやる。だっておまえの名誉を傷つけたんだ、レオナルドは。妹を泣かせた罪は重い。俺には放っておけるはずがない」
「泣いてないわよ、私は。悔しかったけど、そこまで大騒ぎする必要は……」
コーデリアは必死にフォローを入れようとするが、アシュレイは取り合わない様子で首を横に振るばかりだ。もともと妹の不利益になりそうなことには全力で対処してきたのがアシュレイだが、今回の動きはあまりにも大きすぎる。
「王太子があんな場でおまえを辱めるようなまねをした。それだけでも十分に許せないが、奴が今後どのようにおまえを貶めようと画策するか、こちらとしても万全の策を用意しておく必要がある。隣国の王子殿下……これがまた、妹思いの方でな」
「妹思い……?」
コーデリアは耳を疑った。隣国の王子が妹を溺愛しているという話は聞いたことがなかったが、どうやらアシュレイによれば、その王子もやはり「妹を何より大事にする」タイプだという。そこから話が妙な方向に盛り上がり、一晩で密約まで交わしたのだという。
「まさかとは思うけど、そんな馬鹿な理由で戦争を起こすとかじゃないわよね?」
「その点は安心しろ。実際に国同士がぶつかるのは互いに得策じゃないと、彼もよくわかっている。だが、今の王太子があまりにもおまえを愚弄するようなら、いっそ敵国と手を組んででも排除すると、俺は宣言しておいた」
「軽々しく口にすることじゃないわよ、それ……」
コーデリアは兄のあまりにも危険な言い分に、頭が痛むのが加速するような気がした。そもそも兄であるアシュレイは、家柄や財力だけでなく、頭脳と行動力も兼ね備えた人物だ。しかし、そのあまりの手際の良さが、今回のように「やりすぎだ」と感じられることがしばしばある。
「ところで、さっきから大量の書簡をやり取りしているみたいだけれど、これはいったい何に使うの?」
「うむ。リエストリアの王子殿下が協力を約束してくれた以上、まずは向こうの意志をこちらの貴族たちに示す必要がある。表向きは交易の拡大を目指すための書簡としつつ、裏ではレオナルドを牽制する内容を含んでいる。あとはおまえの立場が揺らがないよう、社交界の一部にも根回ししておかなければな」
「やたら手際がいいわね……兄さま。それにしたって、早すぎるわ。私は何も知らなかったわよ」
自分が呑んだくれている間に、どうやら兄はせっせと動き回っていたらしい。確かにレオナルドに婚約破棄を言い渡されたことは腹立たしいが、それを理由に隣国と結託するというのは常軌を逸しているというか……いや、アシュレイらしいと言えばそれまでだが。コーデリアは頭痛をこらえながら、何とか冷静さを保とうとする。
「兄さま、一つ聞かせて。あなたは本当にレオナルド王太子を……どうにかしようとしているの?」
「当然だ。妹を傷つけるような輩は、王家であろうと容赦しない」
「……まあ、その気概はありがたいけれど、あまり大事にしないでほしいの。私だって、あの人に制裁を加えたい気持ちが皆無なわけじゃないけど、国を揺るがすようなことは避けたいわ」
ほんの少し語気を強めて伝えると、アシュレイは短く息をついた。
「わかっている。俺だって、国を混乱させるのが目的じゃない。ただ、おまえがこれ以上侮辱されるような事態を放置できないんだ。今はまだ計画の初期段階だから、そこまで大騒ぎにはならないはずだ」
「初期段階……」
コーデリアはうんざりしたように目を伏せる。これが初期段階だというのなら、今後どれほどの規模に発展するのか想像もつかない。そもそも隣国の王子を巻き込むことで、レオナルドの立場を脅かす動きに発展していくのは火を見るより明らかだ。
「まぁ、計画の詳細は改めて説明する。今はおまえの体調を整えるのが先決だろう。顔色が悪いし……昨夜はずいぶん荒れたようだからな」
「うるさいわね。別に飲みすぎた自覚はあるけど、そんなに説教される筋合いは……」
そう言い返した瞬間、アシュレイが急に柔和な表情を浮かべてコーデリアを覗き込んだ。
「コーデリア、大丈夫か? 無理をするなよ。昨夜はさぞ悔しかったろう。おまえの気持ちを思うと、俺は……その……怒りで寝つけなかった」
「だからこそ、こういう過激な行動に出たってわけね。まあ、わからなくはないけど」
兄の心情を無下に否定できないコーデリアは、胸のなかで複雑な思いを噛みしめる。確かに自分もレオナルドの一方的な仕打ちには腹が立つし、名誉を踏みにじられた感覚がある。でもだからといって、国同士の密約にまで進むとは予想外だ。
「それと、もう一つ大事な話がある。隣国の王子殿下は、遠からず我が家へ直接訪問をすると言っている。妹の件で意気投合したい、とね」
「意気投合……また妹……? どういうこと?」
「彼にも妹君がいるのさ。大切に大切に育てているそうだ。おまえの話をすると、非常に興味を持たれた。『どのように守り抜くのか、ぜひ話を聞きたい』とね」
コーデリアは頭の痛みがさらに増すのを感じた。国の王子がプライベートな理由で訪問してくるなど、そうそうあることではないし、その動機が「妹を守るため」という共通項で盛り上がっているなど想像の斜め上を行っている。
「なんだか変な縁ができちゃいそうね。とにかく私は、これ以上面倒ごとが増えないように祈るばかりだけど」
「面倒ごとなんかじゃない。おまえのためなら、どんな手だって使う。そういう兄がいるってことを思い出しておけ」
「……はいはい」
これ以上反論しても、アシュレイが考えを曲げるとは思えない。彼は普段こそ冷静沈着に見えるが、妹に関することとなると盲目になることがある。コーデリアとしてはありがたいやら恐ろしいやら、とにかく扱いづらい兄だ。
「それじゃ、ひとまず私は部屋に戻るわ。頭もまだ痛いし、まずは体を休めないと」
「ああ。ゆっくり休め。ただし、また何か動きがあればすぐに知らせるから、そのつもりでいてくれ。頼むぞ、コーデリア」
アシュレイから投げられた言葉に、コーデリアは曖昧にうなずく。執務室を出て扉を閉めると、廊下には先ほどより少し減った家臣たちの姿があった。皆、何やら難しげな顔をしているところを見ると、この密約の一件がどれほど大胆かつ秘密裏であるかを思い知らされる。
廊下を歩きながら、コーデリアは苦い表情のまま心中で叫ぶ。「こんなこと……私が望んだわけじゃないのに……」。ただ、レオナルドへの怒りを捨てきれない自分がいるのも事実だ。どこかで「いい気味だわ」と思う気持ちがまったくないわけではない。けれど、そこに国際的な交渉まで絡んでくるとなると、さすがに話が大きくなりすぎている気がしてならない。