第7話② 噂戦激化!揺れる貴族社会
そんな折、一人の令嬢がこちらを見つけて近づいてくるのに気づいた。以前はコーデリアを陰で「性格に難あり」などと侮辱していたと聞く相手だが、今や神妙な面持ちで寄ってくる。当のコーデリアは心の中で「また擦り寄りかしら?」と不敵に思うが、顔には出さずに相手を迎える。
「コーデリア様、お久しぶりですわ。……あの、実は少しご相談したいことがありまして……」
「なあに、また噂の話? わたしには何もわからないわよ、ってさっきも言ったところなのだけれど」
「そ、それだけじゃなくて、その……わたくし、殿下の取り巻きの方たちとの関係に疲れてしまって。コーデリア様は最近は穏やかな暮らしをしておられると聞きましたが、もしよろしければ少しお茶を……」
要するに、今さら方向転換してコーデリア側に付くことで、安泰を得ようという意図が見え隠れしている。あまりにも露骨な寝返りだが、こうした輩が出てくるのは想定の範囲内だ。コーデリアは軽く微笑を浮かべ、あえて拒絶するでもなく、すぐに受け入れるでもなく、その申し出を曖昧にかわした。
「お茶? そうね……また今度、機会があれば考えるわ。わたしもまだ先の予定が詰まっているから、すぐにはお約束できないの」
「あ……そう、ですよね……。では、改めてお時間をいただければ嬉しいです」
打算的な令嬢はやや落胆した様子だったが、それでも満足そうに微笑み返して去っていった。ここでコーデリアが「いいわよ」と即答していれば、彼女は「仲直りに成功した」と勝手に喜んだだろうが、そうはしない。多少の焦りを与えておくことで、その令嬢がさらに積極的に動くかもしれないし、様子を探る余地も残る。
「ずいぶんあからさまな態度ね。まあ、わたしに近づきたいというのなら勝手にすればいいけど」
コーデリアはそうつぶやいて、ふとホール中央のほうへ目をやる。そこには、真っ白なドレスをまとったフィオナ・ラビエールが、取り巻きと連れ立って姿を見せていた。だが、その表情は冴えない。以前は「わたくしが殿下を支えてあげなくちゃ」という勢いで笑顔を振りまいていたのに、今は少し元気がないように見える。
「フィオナ、どうしたの? さっきもぼんやりしていたじゃない」
「え……あ、ううん、何でもないの。ただ少し考えごとをしていて」
取り巻きに腕を掴まれ、慌てて取り繕う彼女の姿を横目に、周囲の令嬢たちはさらに好奇の目を向ける。噂によれば、フィオナは王太子との距離を少しずつ置き始めているらしい。もしそれが本当なら、彼女もまた一枚上手だったということになるが、それを隠している時点でまだ迷いがあるのかもしれない。
「フィオナ様、殿下とのこと、大丈夫なんですよね?」
「そ、そうよね。だってフィオナ様は、殿下に絶大な信頼を得ているんでしょう?」
問いかけられても、フィオナは曖昧な笑顔しか浮かべない。その胸中は察するに、噂を否定しきれない恐怖と、もし噂が真実だった場合に巻き添えを食らう危険性との間で揺れているのだろう。コーデリアは遠目にそれを確認して、心の奥で優越感に似た感情が湧き上がるのを感じる。
「まったく、兄さまの仕掛けた噂は大した威力だわ。こうしてじわじわと、レオナルド陣営を崩し始めるとは」
噂が広まっていく経路は、何もコーデリアたちの直接の働きかけだけではない。アシュレイが用意した複数の商人や文官が「王太子はどうやら好き勝手しているらしい」という話を根回ししているのだ。貴族たちは「もしかして本当かもしれない」と想像を膨らませ、噂をかき立てる。それがまた広まっていくうちに、いつの間にか確定的な話のように語られてしまうのだから恐ろしい。
実際には、彼らはまだ断片的な情報しか知らない。だが、それだけでも十分に不審に思わせる威力があるし、証拠が固まった段階で「やっぱり本当だったのね」となる展開に持ち込める。コーデリアはそこまで想定して動いているのだから、どう転んでも痛快な流れになりそうだ。
「これで、あの王太子がどう対応するかが見ものね。下手に騒げば噂を気にしていると見られて、余計に不信を招くでしょうし」
コーデリアがグラスを持ち替えて一口飲むと、ほのかな甘さが口の中に広がる。こうした昼下がりの優雅な時間も、彼女にとっては策略の場に他ならない。周囲の令嬢たちの動揺を眺めながら、彼女は狙い通りに事態が進んでいることを確信していた。
会場を見回せば、一部の令嬢はもうコーデリアに視線を寄越しつつあるし、フィオナを含めた王太子派だった者たちはあからさまに浮き足立っている。おそらく帰宅後には、さらに噂を精査しようとして走り回ることになるだろう。そこに巧妙な“リーク”を重ねれば、より説得力を持って広まっていくはずだ。
「このまま少しずつ、あの人たちを追いつめていけばいい。王太子に妙な反撃をされる前に、じっくりと足元を崩す」
そう考えていると、コーデリアの胸にわずかながら高揚感が湧いてくる。この場で派手に動いてしまうのは得策ではないが、そこまでする必要もない。いずれ王太子陣営が耐えきれずにバタバタする瞬間が来る。そのとき、コーデリアやアシュレイがさらなる一手を打てば、王太子の威光はもろくも崩れ去るだろう。
「最後に泣きを見るのは、あのレオナルド。もしかするとフィオナも一緒に沈むかもしれないけど、どちらにせよ構わないわ。わたしを蔑ろにした分、思い知ればいいの」
心中でつぶやきながら、コーデリアはグラスを置く。そろそろこの場を離れようと踵を返しかけたとき、耳に入るのは「コーデリアはどうして平然としているのだろう」「あの姿を見ると、実は今回の噂は本当なのかも……」という令嬢たちの声だ。
あえて自分からは何も積極的に語らず、余裕を漂わせる姿勢を取ることで、周りは勝手に「コーデリアは何か知っているのでは」と推測する。これこそ狙い通りで、彼女を軽視してきた者たちが次々と心変わりを起こしているのが見て取れる。この場で露骨に取り込もうとはしないが、いざというときに優位に立てるような布石は十分だ。
「まだまだこの混乱は続くわね。取り巻きの皆さんには悪いけど、ここから先はもっと右往左往することになるでしょう。まあ、自業自得だと思ってもらうしかないわ」
そっと笑みを浮かべて、コーデリアは会場を後にする。扉を出て廊下に出れば、そこで待機していた侍女が馬車の手配を済ませていることを告げた。どうやら今日の予定はこれで終わりで、あとはゆっくりと帰宅して状況を整理すればいい。
外へ出ると、まぶしい陽光の下で数台の馬車が並んで待っている。その中の一台に乗り込んだコーデリアは、静かに扉を閉めると窓から外を見やった。ちらりと見える他の貴族たちの姿は、どこか落ち着きのない仕草ばかりだ。いつもなら高笑いをしてそうな令嬢たちも、今日は笑顔がぎこちない。
「なるほど、これが噂戦の威力というわけ。兄さま、やっぱりあなどれないわね」
ほんのわずかな時間でここまでの混乱を引き起こし、取り巻きたちの意識を王太子から遠ざけつつあるアシュレイの情報操作には、改めて舌を巻く。隣国王子ルシアンが用意してくれた裏付け情報を巧みに使って、まだ半分も開示していないのに、これほどの動揺を生むとは思わなかった。
馬車が軽く揺れながら走り出すと、コーデリアはふと視線を下げて手袋を外す。車窓から吹き込む風は心地よく、どこか新鮮な気配を伴っていた。これから先、王太子がどうやってこの噂を鎮めようとするか、想像するだけでも愉快だ。恐らく取り巻き令嬢たちが大慌てで弁明に走るだろうが、それこそが火に油を注ぐことになりかねない。
「さあ、次の舞台はどんな様相になるかしら。兄さまが仕掛けを続行する以上、噂はさらに加速するでしょうし……」
コーデリアは胸に密かな期待を抱きながら、そっと目を閉じる。もうすぐ屋敷に着いたら、アシュレイに今日の状況を報告し、次なる一手の打ち合わせをする必要がある。レオナルド王太子が堕ちていくその瞬間を思えば、この微妙に浮ついた気持ちも悪くない。
何があっても、これまで受けた恥辱をそっくりそのまま返す。そのために、コーデリアは今の立場を最大限活用するつもりだ。取り巻きたちの一部がこぞって彼女に接近してくるのも見越して、巧妙に操れば面白い展開になるだろう。この噂戦は始まったばかり。アシュレイと隣国王子が用意した真の逆転劇が、どれほど衝撃的な結果を生むのかは、まだ誰にも想像できない。
「ふふ……このままいけば、殿下の華やかな地位が崩れる日も遠くない」
小さくつぶやいて、コーデリアは馬車の揺れに身を任せた。窓の外には、明るい日差しの下で忙しなく往来する人々の姿がある。噂は伝播し、取り巻き令嬢たちは混乱し、王太子の評判は静かに下落の道をたどり始める――そんな影がこの陽光の下に少しずつ伸びているように思えた。
この先、コーデリアはどのタイミングでさらなる仕掛けを放つべきか。その決断はもうすぐ迫っている。屋敷に戻れば、兄アシュレイが笑顔で出迎え、さらなる報告や裏工作の進行具合を教えてくれるに違いない。すべては一夜で結ばれた奇妙な同盟と、兄妹の強い意志の結晶だ。
そう思うと、不思議なほど心が軽くなる。どれだけ多くの令嬢や貴族が混乱に陥ろうと、コーデリアにとっては痛快な出来事でしかない。王太子の周囲が崩れるほど、自分が受けた屈辱が晴れていくのだ。取り巻き令嬢たちが右往左往するさまを眺めるのは、少しばかり気分が良いとすら感じてしまう。
「さて、次はどんな動きがあるかしら。わたしはわたしで、きっちり楽しませてもらうわよ」
馬車はゆるやかに速度を上げ、王都の喧騒を抜けていく。まだ噂戦は序章にすぎず、これからが本番だ。取り巻きたちが決断を迫られ、フィオナが窮地に立たされるのもそう遠くない。コーデリアは小さく微笑を浮かべたまま、窓の外を流れる景色を見やった。空はどこまでも晴れ渡り、穏やかな風が頬を撫でる。けれど、その穏やかさは表層だけで、この国の貴族社会は水面下で大きく揺れている。レオナルド王太子がどんな手を打つのか、そしてそれをコーデリアたちがどう飲み込むのか――緊張感をはらんだ静けさと、胸の底に湧き立つ期待が、入り混じるように彼女の思考を包んでいた。