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第1話 婚約破棄とヤケ酒の夜……

 豪奢(ごうしゃ)なシャンデリアが下がる広間には、名だたる貴族たちが集まっていた。絢爛(けんらん)たる装飾が施された壁面や、磨き上げられた床には、国の威信を示すかのように惜しみなく費用がつぎ込まれている。この夜会は、王太子レオナルドの主催によるもので、宮廷の花形とも言える貴婦人や令嬢、そしてその家族らが勢揃いしていた。華やかに着飾った人々の視線が、ある一点を鋭く射抜いている。それは濃紺のドレスをまとったコーデリア・フォン・グランデュールの姿だった。


 グランデュール家は古くからの公爵家で、その繁栄は誰もが認めるところだ。しかし、コーデリアという娘については、宮廷内であまり好ましく思われていない者が多い。誰もが口を揃えて言うのは「気が強い」「高飛車すぎる」という評判。さらに社交界の噂好きたちの間では、彼女のちょっとした態度や言動が何倍にも誇張されて広められている。もっとも、コーデリア本人はそれらを意に介さないどころか、むしろ好んで挑発を返すタイプだった。


 その夜も、宮廷の楽師たちが優雅な調べを奏でるなか、取り巻きの令嬢たちはこそこそと噂話に花を咲かせていた。コーデリアが王太子の婚約者であると発表されてしばらく経つが、どうやら最近はレオナルドが別の美しい令嬢と親しげにしているとの噂が絶えない。そしてその噂は、この夜会の空気をどこかギスギスしたものに変えていた。


「ねえ、聞いた? 王太子殿下、またあの子と踊るんですって」

「ええ、見たわよ。ほら、あそこにいる薄ピンクのドレスの子。笑顔がやけに甘ったるいの」


 ひそひそと交わされる声が、コーデリアの耳にも届くような届かないような距離で行われている。あからさまに彼女を刺激しようとする人々の視線を、コーデリアは冷ややかな笑みで受け流していた。背筋を伸ばし、周囲に臆する気配はまるでない。その場にいるだけで人を圧倒するような、自信と気高さが彼女からは漂っている。


 しかし、内心では落ち着かない思いがあった。王太子レオナルドが他の令嬢と親しげにしているという話は、ただの噂にとどまらず、最近は彼自身の口からも「コーデリアよりもあの子の方が優しくてかわいい」などと漏れていると聞く。いつもならば、そんな軽率な発言こそ笑い飛ばしてしまうのが彼女のやり方だったが、さすがに自分の婚約者が堂々とほかの娘を褒めそやしているとなると、気分が良いはずもない。


 ふと、コーデリアの前に一人の男性が進み出る。その人こそ王太子レオナルド本人であった。金の髪を後ろへ軽く結い、口元には余裕の笑みが浮かんでいる。黒と深紅を基調とした正装は、王家のシンボルをあしらったもので、周囲は自然とその存在を注視する。取り巻きの貴族たちは「さすが殿下」「何と気品あふれるお姿」と口先ばかりの賛美を(ささや)いた。


 レオナルドはコーデリアの前まで来ると、あえて人目を引くように声を張った。


「コーデリア、少し話がある」

「……殿下、どのようなご用件かしら」


 コーデリアはできるだけ冷静に答える。周囲の視線がますます集中するなか、レオナルドはまるで芝居のワンシーンかのように、手を大きく広げて言った。


「これ以上おまえと婚約を続けるわけにはいかない。ここにいる皆にも聞いてもらおう。コーデリア・フォン・グランデュール、私はおまえとの婚約を破棄する!」


 一瞬、広間がしんと静まり返った。楽師たちの演奏までもが止まったように感じられる。もちろん、実際にはまだ音は鳴っているのだが、その場にいる人々の意識がすべてこのやり取りに向かったのだ。取り巻きの令嬢たちの目は、好奇と興味にぎらぎらと輝いている。


「やはり来たわね、あの展開」

「コーデリアったら、高慢な態度ばかり取るから当然よ」


 耳障りな(ささや)きがあちこちから飛び込んでくる。けれど、コーデリアは視線をレオナルドから外さなかった。胸の奥が熱くなるような、いや、むしろ冷たくなるような奇妙な感覚が体を走る。王太子の口からはっきりと告げられた「破棄」という言葉は、頭の中でぐるぐると回っていた。


「……今ここで、私にそのような宣言をなさるとは。驚きですわ」


 かろうじて言葉をつなぐと、レオナルドはさらなる侮辱とばかりに続ける。


「驚くのは当然だろう。だが私は、もっと心優しくて心根の清らかな令嬢とともにありたいのだ。おまえのように、気位ばかり高く、人を顎で使うような者など、王妃には相応しくない!」


 コーデリアの顔から血の気が引いていく。それを隠そうと、彼女はわざと唇の端を吊り上げて笑った。


「まあ、私が王妃に相応しくないとは、ずいぶんとはっきり仰るのですね。殿下はきっと、よほど純情可憐な令嬢をお求めなのでしょう。私には理解できませんけれど」


 嫌味めいた口調を押し通しながらも、胸の奥でチクリと痛むものがある。見渡すと、取り巻きの令嬢たちが頬を染めて笑いを噛み殺しているのが目に映った。まるで待ちに待った獲物がようやく仕留められたとでも言わんばかりだ。


「どうやら私の言葉を受け入れる気はなさそうだな。だが、もう決まったことだ。おまえがどのように反論しようと、私は王太子として堂々と新たな婚約者を迎える」

「ご随意に。私のような者など、殿下からしてみれば塵ほどの存在でしょう?」


 そう言い放つと、レオナルドは鼻で笑い、踵を返して去っていった。取り巻きたちもそのあとを追うように散っていき、コーデリアは急に広間の中央に取り残されたような気持ちになる。視線の端にはまだ数名の好事家たちがコーデリアを見つめていたが、彼女は涼やかな顔を保ち続けた。


 しんとした雰囲気のなか、しかしコーデリアは目を細めながら高笑いに似た声を漏らす。


「ふふ……私が捨てられた、ですって? 面白いわね。王太子ともあろうお方が、宴席で堂々とそんな宣言をなさるなんて」


 誰にともなく告げるその言葉には、自嘲と怒りがないまぜになった奇妙な調子が混じっていた。彼女はドレスの裾を(ひるがえ)し、その場を後にする。まるで何事もなかったかのような足取りだったが、胸中の動揺は押し殺せるものではなかった。


 夜会を途中で抜け出したコーデリアは、自らの部屋へと直行した。グランデュール家の馬車に乗って移動した先の屋敷は広大だが、彼女は使用人たちに声をかけることもなく、早足で自室へ籠もる。扉を閉めた途端、張り詰めていた気持ちが急に崩れ落ちたように感じた。


「……なんてこと」


 小さくつぶやいた声が部屋に吸い込まれていく。壁には高価な絵画や飾り皿が並び、床にはふかふかの絨毯(じゅうたん)が敷かれている。豪華なシャンデリアは明かりを灯していたが、その光がどこか冷ややかに思えた。コーデリアはドレスの帯をほどき、タンスの奥から葡萄(ぶどう)酒のボトルを取り出す。


「私がいくら人から嫌われていたって構わないけれど……あそこまで言われる筋合いはないわ」


 グラスに注いだ深い赤の液体を一息に(あお)る。結婚は家同士の政治的思惑も絡み、大きな権力闘争の道具になることは重々承知していた。だからこそ、彼女は表向き、どんな非難を浴びようとも毅然と構えてきたのだ。自分に突き刺さる悪意や中傷は、跳ね除ければいいと割り切っていた。


 しかし、想像以上に王太子が軽率だったことが、コーデリアの心を苛立たせる。王家の人間でありながら、一夜会という公の場でここまで無神経な言動を取るとは。これまでの我慢が報われないばかりか、今後は「公爵令嬢が婚約を破棄された」という醜聞がさらに広がるに違いない。


 彼女はグラスの中身を飲み干すと、舌打ちのような溜息を吐いた。


「そうまでして私を退けたいのね、あの王太子は。私は都合のいい駒ではなかったのかしら」


 再び葡萄(ぶどう)酒を注ぎ、ガラスの表面を指でなぞりながら、コーデリアは自分自身を(あざけ)るように鼻で笑う。今頃、あの取り巻きの令嬢たちは大はしゃぎだろう。誰もが「見たことか」と騒ぎ立て、彼女を笑いものにするだろう。


「ふん、覚えていなさい」


 小声でつぶやいた言葉には、彼女の意地と反骨心がひそんでいた。普段なら「高笑い」で済ませられたかもしれないが、今夜の屈辱感は、彼女にとって予想外の痛手となった。ふと、窓の外を見ると遠くに月が浮かんでいて、その淡い光が部屋の一角を照らしていた。


「どうせあの人たちは、明日にも私を笑い者にするでしょうね。けれど、このまま大人しく引き下がるなんてまっぴらよ」


 コーデリアはワイングラスを置き、新たに取り出した小さな酒瓶を手にする。濃い琥珀色をした強い蒸留酒のようだった。普段は口にしないが、今夜ばかりは眠るためにも、思考を鈍らせてしまいたい気持ちが強い。そうでもしなければ、悔しさで眠れそうにない。


 グラスに注がれる液体はわずかで、そこから立ち上る香りに少しむせそうになる。飲み慣れぬアルコールが喉を焼くように通り過ぎた。だが、苦いというよりは、どこか刺激が彼女の頭をぼんやりとさせるのに役立っているように思える。


「誰が何を言おうと、私の生き方は変わらない。私には……私のやり方がある。こんな屈辱、いずれ必ず返してやるわ」


 思わずこぼれ落ちそうになった弱音をぐっと噛み殺し、彼女は片手でグラスを握りしめた。薄暗い室内で、表情がよく見えないほど暗い顔をしていたが、それでも瞳だけは不気味なほどに力を宿している。彼女の心には、恨みとも意地ともつかぬ熱が渦巻いていた。


 そして、酒瓶の中身をもう一度注ぎ足すと、コーデリアは荒っぽくグラスを傾けた。ほとんど一気飲みに近い形で喉を通した途端、視界がふらつき、足元が危うくなる。もともと酒に強い方ではなかったが、今夜はその限界を振り切る勢いだ。


「もうどうにでもなれって感じね。明日の朝には噂が宮廷中を駆け巡るでしょうけど……ああ、嫌になるわ」


 思考が鈍重になるのを感じながら、ベッドの縁に腰を下ろす。手にしていたグラスを床に置くと、心の中で再び「王太子め……」と毒づいた。これまで散々無礼な振る舞いをされても、お飾りの婚約者として耐えてきたというのに、最後の最後であの仕打ち。彼のプライドの高さと見栄っ張りな態度を知っていても、ここまであからさまに恥をかかされるとは想像していなかった。


「けれど……だからこそ」


 コーデリアはうっすらと微笑んだ。酔いが回っているせいか、怒りというよりも妙な達観にも似た感情が湧いている。彼女が今後、どのように自分の名誉を守り、あるいは逆襲を果たすかは、まさに自分の才覚にかかっているというわけだ。


 そんな考えをめぐらせるうちに、瞼が重くなってきた。酔いが急激に回ったせいで、体が鉛のように動かなくなる。明日以降のことを考えると気が滅入るが、今はとにかく眠りたい。その衝動に任せて、コーデリアはドレスのままベッドに倒れ込んだ。


「……みんな、覚えていなさいよ。私を(ないがし)ろにした報いが、どんなものか……いつか思い知ることになるんだから」


 最後の言葉は、ほとんど夢の中でのつぶやきだった。しばらくすると、ふっとコーデリアの呼吸は静かになり、寝息が聞こえ始める。部屋の明かりは消されぬまま、深夜の空気がひんやりと窓から入り込んできた。ワインと蒸留酒の香りが混じり合った甘くも苦い匂いが、ベッド周りを満たしている。


 この婚約破棄の話が、彼女の運命を大きく変えていくとは、まだ誰一人として気づいていない。ましてやコーデリア本人さえ、こんな形で人生が動き出すとは思っていなかった。明日の朝を迎えれば、宮廷中でさらなる嘲笑が待ち受けているのは間違いない。だが、その先にどんな波乱が待っているのかは、まだ誰の想像をも超えている。


 かくして、レオナルド王太子による婚約破棄は、夜会の場を大いに沸かせる見世物となった。令嬢たちは嘲り顔で、貴族たちは陰で舌を巻き、コーデリアの評判はますます降下する――あるいはさらに際立った色を帯びるのかもしれない。いずれにせよ、この出来事が彼女のこれからの行動に火をつけたことだけは確かだった。


 夜は深い闇に包まれ、静けさを取り戻しつつある。月の光が僅かに差し込むコーデリアの部屋には、どこか不穏な空気が漂うまま、時間だけがゆっくりと過ぎていく。ドレスの裾は乱れ、まだ手放していない酒瓶は机の上に倒れたままだ。そんな乱雑な光景が、彼女の心情を映し出すようにちらついていた。


 そして、静かに夜が明ける。ほんのわずかながらも、彼女の唇にはかすかな笑みが刻まれていた。屈辱を味わったはずなのに、それ以上に闘志を燃やしている証拠のように。こうして新たな朝を迎えるコーデリアに、さらなる波乱の幕開けが用意されているとは、今はまだ知る(よし)もないのである。

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