マリッジブルーの令嬢様
カランコロンとベルが鳴る。グラスを磨く手を止めて、ジェイクはにこりと笑った。
「ようこそ“Between the sheets”へ」
やってきた女性は不安そうな顔をしているが、吸い寄せられるように足を動かしてステラの隣に座った。ステラが微笑みかけると、女性は警戒を解いたのか背筋をしゃんと伸ばす。
ジェイクは彼女の前にグラスを置く。その中には鮮やかな黄色で、一見するとただのオレンジジュースのようでもあった。
「今日のカクテルはミモザです。色が似ているでしょう?」
「どのあたりが…?」
「ああ、失礼しました。同じ名の、違う花があるのですよ」
ミモザは本来オジギソウを指す言葉とされており、彼女が想像しているのはこちらだ。ピンク色の可愛らしい、ぽんぽんとした花が咲く。
ジェイクの言うミモザはアカシアという樹木の一種であり、黄色いふわふわとした花が大量に芽吹く。枝の一本ですら花束と見紛うほどに鮮やかだ。
そう説明すると、ステラが携帯端末を使って女性にミモザを見せた。その黄色い鮮やかな姿は、確かに目の前にあるカクテルとよく似た姿をしていた。
「しゅわしゅわして美味しいわよ?」
ステラに促されて女性はカクテルを口にする。不思議と胸が温かくなる気がした。解りやすく情熱的な熱さではなく、気がつくと温かいような僅かな違い。寒くなってきたから引っ張り出した冬服のような心地だ。
「こちらは家族愛のシャンパンを、己を信じる盲目のオレンジと混ぜたものです」
家族愛の言葉に女性はふうと溜息をつく。
「家族って温かなもの…ですよね」
「もし悩みがあるなら聞くわ。本当に聞くだけだけどね。それで気持ちが軽くなるって言うのなら話してみなさいな」
ステラが蠱惑的に微笑んだのを見て、女性はぽつぽつと語りだす。あまり言いたくないようにも見えたが、一度口にすると止まらないものだ。
「今度、結婚するんですけれど。相手の方と上手くいく自信がないんです。全然会話もしてくれないので相手の好きなものを1つも知らないし、たぶん向こうも。時々あるお茶会でしか会ったことなくて。他の人とは出かけたりしてるみたいなのに」
「始めから冷えきった夫婦になりそうで不安だと」
「ワガママですよね。政略結婚なんだから割り切っちゃえばいいのに」
黄色いカクテルの入ったグラスをくるくると回しながら、ステラは「そうかしら」と呟く。
「家って帰る場所でしょ。そこはどこよりも安全で安心できる場所じゃなきゃ意味がないと思うわ。貴方は安心して帰れる場所を作りたいだけでしょう?」
女性はその言葉にはっとすると、一筋ぽろりと涙を零す。ジェイクはそんな彼女におかわりを、もう一杯のミモザを差し出す。
「私達のいた世界には、ミモザの日というものがありました。女性の権利を守り、称える日と言われています。貴方も主張していいと思いますよ」
空瓶をカウンターテーブルに置いて、ジェイクはにこりと笑う。
「どうぞこちらに手を添えて。忘れてしまった感情を捨てていきましょう。貴方が何を諦めてしまったのかを知ってください」
女性がおそるおそる瓶に手を添える。その瞬間、瓶の中身はみるみる満たされていった。とぷんという音と共にその感情は失われる。
「これは“怒り”ですか。少し意外でしたが、もともと怒るのが苦手なようですし」
「でも、失っちゃダメだわ。それはちゃんと思い出しなさい。貴方が戦うためにもね」
・・・
女性ははっと目が覚める。なんの夢を見ていたか殆ど忘れてしまったが、少しだけ覚えていることがあった。
「怒る」
昔から怒ることが苦手だった。疲れてしまうから。許せば楽になれると思って、なんでもかんでも受け流してきたけれど。そのせいで不安なまま何も進めない人間になってしまいそうな自分に気付く。
ほんの少しだけ戦ってみよう。なにもワガママを全て貫き通すわけじゃない。ほんの少しだけ「私にだって感情も、考えもあるのよ」と思い出させるだけだ。
それで相手の態度が変わらないならば、いつも通り諦めるかもしれない。だが、今度の諦めは悪くない。自分は好きに生きると相手と決別できるのだから。
・・・
カランコロンとベルが鳴る。そこに立っていた人物を見て、ジェイクはおやと驚いた。
「ニ回目のご来店をありがとうございます。思ったより早かったですね」
女性の見た目はさほど変わっていない。服装の様子からしても、1年も経過していないのではないかと思えた。ただ、その表情だけは晴れやかだ。
女性は軽い足取りでカウンターに向かい、椅子に座る。楽しげな様子にステラは「あら」と驚く。
「彼と和解でもできた?」
「はい。今は結婚が楽しみなんです」
目の前におかれたミモザをゆっくりと飲み、彼女はまた嬉しそうに笑う。その姿は恋する女性そのものだった。
「笑っちゃうんですけど、私達ってお互いに嫌われてるって思い込んでたんです!」
「…似たような方だったんですね?」
「そう、それ!思い返してみれば私もあまり喋ってなかったし、友達とは遊んでて!」
怒りにまかせて本音をぶつけてみれば、彼は驚いたように「嫌われていると思った」と告白した。彼が語る内容は、彼女が不安に感じていたことと同じ内容だったので、今度は謝罪をずっとしていたという。
腹を割ってみれば大したこともない。夫婦としてやっていきたい気持ちが合致するならば、前向きに努力していくだけだ。
「でも、私はちょっと我儘になったかも。結婚式のブーケもミモザがいいって駄々をこねたんです。すぐ変更されたんですけどね」
黄色い花が咲くブーケを思い起こし、彼女は笑う。その様子を見てジェイクもステラも満足げに頷いた。
「結婚式によく似合いの、美しい花だと思いますよ」
「ありがとう!」
女性はカクテルを飲み切ると、最後に代金を支払っていった。
「次の感情も“怒り”ですか。よっぽど苦手なのでしょうね…」
ステラはふふっと笑う。
「主張にも限度というものはあってよ。そう思わない?」
「そうですね…。あの方の我儘は可愛らしいものばかりでしょう」
空になったグラスをくるりと回し、ステラは肩をすくめた。
「女性の権利だという言葉を言い訳にして、無理難題や理不尽を言う者の多いこと。女性の権利というのは大事にされるべきではあるけれど、それは他の人より偉くなった訳ではないのだけれどね」
「そこを理解している人が、結婚後もちゃんと上手くいくのだと思いますよ」