病弱な妹を持つお兄様
カロンコロンとベルが鳴る。ジェイクはステラとのお喋りを止めて、ニコリと笑った。
「ようこそ“Between the sheets”へ」
満天の星空を背景にして笑うジェイクは、さぞや幻想的に見えるだろう。やってきた少年は暫し呆けていた。
「良かったら、こちらにどうぞ?」
ステラが妖艶に微笑むと、少年は吸い寄せられるように歩く。カウンターチェアは背が高くて、座ることができたものの足置きに届かなくて、足がブラブラと揺れていた。それに不安そうな表情を浮かべている。
キョロキョロする少年の前に、ジェイクはことりとグラスを置いた。オレンジ色の飲み物は、一見すると普通のオレンジジュースのよう。だが、その香りは他の果物も混じっており、溺れそうなほど甘い香りが漂っている。
「未成年のようですし、ノンアルコールで提供いたします。こちらはプッシーキャット。可愛い子猫という意味です」
少年は暫くジェイクとグラスを交互に見ていたが、覚悟を決めたようにグラスを手に取る。一口だけチロリと舐めて、その不思議な味わいに「わあ」と声をあげた。
まるで真綿に包まれるような感覚が胸に広がる。蕩けてしまいそうなほどの温もりを感じ取る。誰かが「貴方はここで眠ってていいのよ」と声をかけてきたような気がした。
「これ、飲むと、不思議な感じがする」
「このお店にある飲み物は、全てが人の感情でできているのよ」
「こちらは己を信じる盲目のオレンジ、甘えたいパイナップル、期待のグレープフルーツ、背徳のザクロ…グレナデンシロップで作りました」
少年はじわりと涙が滲む目をぐしぐしと擦る。ちびちびとプッシーキャットを飲みながら、その度に何度も。
「感情、は、よく解らない、けど。なんだろ。嬉しいんだと思う」
「何か悩み事があったのではなくて?」
ステラの言葉に少年は俯く。甘い毒のような声で「ここでは何を言っても誰も聞いちゃいないわ。夢だもの」と囁かれて、少年は少しずつ話しだした。
「妹が、いつも病気で。体が弱いんだって。父上も母上もずっと妹のこと見てる。妹は心配だけど、でも、その、僕も誕生日パーティーしてみたいってずっと言いたくて。
言っちゃダメだってわかってるんだけど。でも、妹はやっていいのに。僕はお爺様のプレゼント一個で。なんで、て」
ポタポタと涙を零す少年は、暫くして落ち着いた。泣いて乾いた喉をプッシーキャットで潤していく。
「僕、もっと優しい人になりたかった」
ジェイクもステラも「そんなことない」と声をかけることはしなかった。そう思っていても、少年を励ますだけの人間らしさが欠けていたから。
ジェイクは空瓶をカウンターテーブルの上に置く。
「忘れて重たいばかりの感情を捨ててください。ジュースのお代に」
「感情?」
「この瓶に手を添えて」
おそるおそる、瓶に手を添える。すると瓶の中身がみるみると満ちる。その中身を見て、ジェイクがついっと眉を吊り上げた。
「貴方が忘れてしまったのは“家族愛”ですか。血縁だからこそ助けたいという無償の愛は消え失せ、今や残ってるのは“怒りを買わない保身”だけ」
ステラが少年の頭を撫でて告げる。
「ここで渡した感情は今ある分だけ。新しく生まれることはあるの。未来の貴方に家族愛が芽生えることを祈ってるわ」
・・・
少年は目を覚ます。あの夢の内容は殆ど忘れてしまったけれど、口にした感情は忘れていなかった。
もう何年と与えられていない無償の愛。子どもを慈しむ気持ち。甘やかしの味は少年にとって砂漠のオアシスに等しかった。
(もう父上も母上もそんなことしてくれない)
家族愛はとっくの昔に枯渇した。残っているのは保身だけ。最初に手を離したのはどちらだったのか。
病弱な妹にかかりきりなのは仕方がなかっただろう。だが、それを理解するには少年は幼すぎたし、与えられたものが少なすぎた。
そして少年は一通の手紙を出す。
・・・
カランコロンとベルが鳴る。ジェイクがそちらを見れば、すっかり成長した青年がいた。
「これはこれは。二度目の来店、ありがとうございます。随分と背が伸びましたね」
「あはは。でも、まだ未成年なんですよ」
「では、今日もプッシーキャットを」
今やステラよりも大きくなった青年は、足をブラブラさせることもなくカウンターチェアに座った。すっかり満ち足りた表情をする彼は、プッシーキャットを当然のものとして飲めている。
「家族愛は育った?」
青年は眉を八の字に下げながら笑っていた。
「育ちました。色々あったけど」
瞼を閉じて、青年は深く息を吐く。この数年であった様々な出来事を思い出しているのだろうとすぐ理解できた。
「母方のお爺様はとても元気な方で。僕が助けてと手紙を出したら、すぐ来てくれました。そこで妹を見て、凄く怒っちゃって」
「怒った?」
「妹が病弱なの、両親の治療方針が間違ってたせいなんです。どうも雇った医者がボンクラだったみたい。お爺様の手配してくれたお医者様のおかげで元気になったよ」
初日に説教された二人は、どれだけ自分達が少年を蔑ろにしてきたかを理解した。泣きながら土下座されては許さないわけにもいかず、再構築の機会を与えたのである。
それからの日々は穏やかだった。病弱な妹はやっと動けるようになると、それは兄に甘えてきて可愛いのも大きかった。天然の可愛い子猫には勝てなかったのである。
「家族愛、また生まれたと思います」
今まで祝わなかった分だけ、両親は少年の誕生日を盛大に祝った。日常では兄妹平等に扱うようになり、無償の愛を浴びるほど飲んだ。
「まだ取り返しがつくレベルで良かったわね」
青年はプッシーキャットを飲み終える。ジェイクが差し出した空瓶に手を当てて、もう要らなくなった感情を代金として支払う。
「要らなくなったのは“寂しさ”ですか。本当に仲良くなったのですね」
「正直、良かったと思ってます。やっぱりあの頃は周りが見えていなかったから。両親もいっぱいいっぱいで、お爺様に助けて貰わないと、今頃」
そして青年は店を去っていった。
「人間って大人になるほど甘えられない生物よね」
「そこは個人差がありますが、真面目な方ほど誰かを頼れないのは確かですね」
ジェイクは空を見上げる。星の形をした窓を覗き、現世の彼らがどうなっているかを見る。
青年と家族は、今もお爺様と一緒に楽しく暮らしているようだ。
「自分の両手で持てるものなんて限度があるわ。荷物が多いと周りが見えなくなってしまうもの。助けてくれる誰かを探すのは正しいことではなくって?」
「それが解っていたら、悩んでいる人間は少し減るんですけどねえ。それに、悩みを打ち明けるだけでは誰も助けてくれませんよ。何をしてほしいか言わないと」
「猫が困ってたら察しようとするのに!」
「人間のおじさん、おばさんは、別に可愛い猫じゃありませんからね…」