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中国で映画を撮った日本人   作者: 羽渕 定昭
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<江南慕情>を歌った周文雄

<江南慕情>を歌った周文雄


 それは風変わりな出会いでした。私の作詞、作曲第1作目<想い出模様>は当初、我が社の営業部長Hの歌でレコーディングしていました。我が社は建売事業をしていて、営業活動で知り合った全ての人に「社長の作詞・作曲で営業部長が歌っています」と言いながら無料でカセットテープを配っていました。

バブルが始まり建売住宅の原価が上がって販売価格も上がると全く売れなくなっていきました。営業部長Hと彼が入社させた営業社員も辞めた頃、まだ都心部の大きな土地だけは売買されていました。そして取引先の社長O氏から「少しでも大きくして売りたいので隣地を買い増してほしい」と依頼されました。  その土地の裏側には別の道路に面して数軒の長家が建っており、私は「家を売ってほしい」と頼んで回りました。その1つに住んでいたのが周文雄でした。


 彼の話では「横の地主側からも買いに来ている」との事、そして「私は誰にも売る気は無い」でした。私は挨拶代わりに、<想い出模様>のテープを置いて帰りました。

何日か経って再び訪れると周文雄から意外な言葉が返ってきました。

「俺に歌わせろ、もっとうまく歌ってやる」と言ったのです。

その時の話はこんな感じでした。

「はじめは塩を撒くつもりだったが、俺は歌が好きだったのでテープが気になり、塩を撒くのをやめた。そしてテープを聞くと全く意外な曲が流れてきたのだ。俺は何回も聞き続けた。これはすごい曲だと思った。そして自分の歌にしたくなったのだ」

 その後、レコーディングする事と家の買い替えの話がまとまったのです。

この後、急速に親密になり、2曲目の<ランナー>ではキャストに私と彼と2人のとりまき20人ほどを加えてレーザーディスクを作りました。<想い出模様>と<ランナー>のレーザーディスクを持ち歩いて皆で楽しみました。しかし徐々に持ち込みのレーザーディスクを掛けられる店が減っていき、1年後にはなくなってしまった。そして彼は言いました

「今度は映画を作ろう」

私も悔しい気持ちが有ったので2つ返事をしました。

「映画と言っても、マニアの趣味に誤解されるので海外ロケにしよう」と、彼は言いました。

私は何度か中国旅行をしていたので「よし、次は中国ロケの映画を作る」と約束しました。その時、私は映画が幾らで作れるか等、全く何も考えていませんでした。私の頭の中にあったのは、8トラがゴミになり捨てられて、レーザーディスクが又もゴミになってしまった悔しさだけでした。周文雄も同じ思いだったと思う。

 

 そんなノリで映画主題歌を作り、周文雄に歌って貰い、本当に中国ロケをすることになりました。

しかし、いよいよ中国ロケが近づくと彼は大変怖がっていました。

「私は中国に行くと殺されるかも知れない」

「え!何で?」

訊くと、彼は台湾国籍でした。日本で生まれ、日本語しか話せないのですが、実は台湾人だったのです。

当時、中国と台湾の関係は良好ではありませんでした。彼は台湾の親戚に頼み、調べて貰いました。大丈夫の返事が返ってきて胸を撫で下ろしました。

ところが実際に中国に行ってみると、観光客は台湾人だけだったのです。丁度天安門事件の1年後でした。

世界中の観光客は中国をボイコットしていたのです。中国政府は対応策として台湾からの観光客を受け入れていたのです。長期に入国を拒否されていた台湾人がどっと押しかけていたのでした。




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