<江南慕情>と天安門事件
<江南慕情>と天安門事件
あるネット記事である。
「天安門事件は1989年6月4日に起きた。民主化を求める学生が、連日にわたり天安門広場を占拠していたが、中国軍が武力行使を行い、多くの民衆を殺した。死者は数百人から1万人以上とも言われ、正確な数は判っていない」
文章を要約し過ぎた為かも知れないが、大きな疑問のある文章です。学生が民衆に変わる理由、いつから、実態は?の疑問です。数字の違いも大きすぎる。死者の数は正確に数えることが出来る。正確に発表すればの場合です。私には正確な情報がないのでコメントする事は出来ません。
「メーデーで混雑していますので迂回します」
私は1989年の5月1日に上海空港を出航して大阪に戻りました。上海空港へバスで向かっている時、通訳でもある中国人の添乗員がマイクで言いました。8日間の視察旅行の最終日の事でした。
大阪に帰ってテレビを点けると、中国のメーデーの集会が解散することなく過激になっているとの事だった。その後集会は各地で開かれ続け、天安門広場へ集合した。そして事件が起こるのですが、計らずも私達はその初日の空気を吸っていたのです。
私達は中国の多くの事を通訳を通じて知ります。通訳と言っても中国は社会主義の国なので国家公務員です。いわば外務省の日本担当の役人です。彼らは政治の話をするのが好きでした。多くの青年と接しましたが、誰もが「20年で日本を追い越します」と目を輝かせて話していました。もっとも、私達が接しているのはエリートなので国民一般を代表しているとは言えません。彼らは月収3万円でした。それでも一般の数倍の高給なのです。当時私は「20年で日本経済を追い越す」を不思議の国のアリスの様に聞いていました。今思えば、大体そのようになっています。
その時日本はバブルの中にいました。物事は長期に見たり考えたりしなくてはいけないと思います。現在、日本の若者が20年先のビジョンを目を輝かせて話せるでしょうか?
話を戻しますが、天安門事件はそんな雰囲気の中で起こりました。それが中国です。人口では日本の10倍以上の国です。長所も短所も多岐にわたり、ゆったりと大きく変化しています。周りから意見を言うには知識や経験が足りません。
さて、天安門事件以降、世界は中国への観光旅行を自粛しました。中国当局は世界のメディアを閉め出しました。私は映画を作る事に夢中になっており、天安門事件とその後の変化を忘れていました。そもそもマスメディアも採り上げていませんでした。
私は忘れていた天安門事件を思い出すことになった。
それは南京副市長と面談している時でした。<延期せよ>のファックスを受け取った1週間後、私達ロケ隊はそれを無視して上海に飛んだのです。
私はスタッフ15人、キャスト15人との契約をしており、そして器材の購入や借入れを済ませており、キャンセルはできない状態にあったからです。そして総勢35人で南京に行き、撮影を直訴した時でした。副市長ははがき大の紙の5センチくらいの厚みの束を見せて言いました。
「私達は南京政府の関係省庁、ロケ地の市町村、ホテル等の許可を全て取っています。しかし未だ北京政府の許可を取っておりません。未だ申請していないのです」
私はその時、北京政府が全ての外国メディアを閉め出していることを思い出したのです。おそらく撮影隊が業務用カメラを持ち歩くことは許可を得られないであろう。だから南京政府は申請するのをためらったに違いない。又は、北京政府の許可を受けずに南京政府だけの判断で許可を与えて良いか不安だったのだ。
私達は必死に訴えました。
「江南慕情は興行目的の映画ではありません。1つの中小企業の会社が自社の宣伝の目的で作るのです。内容は日中友好と日中経済交流の取り組みや江南の観光地の紹介です。南京政府に喜んで頂ける内容です。北京政府に迄話を広げるようなものではありません」
「絶対、興行目的ではありませんね」
「間違いありません。迷惑は掛けません」
副市長は言いました。
「南京政府の関係する許可は全て取っていますので撮影を許可します」
私は胸を撫で下ろしました。しかし、実を言いますと、少し心に引っかかるものがありました。確かに営業目的ではありません。しかし中身はプロの監督とプロのスタッフを加えたロケ隊であり、興行目的の映画と完成度に違いはありません。<無錫旅情>の様にヒットして、いつ興行目的に変わるかも知れません。その事は胸にしまってすぐに撮影に取りかかりました。その日から毎日撮影、毎夜レセプションの日が続いたのです。
ロケは順調に進みました。
中国の人達と、日本語の通訳全員を加えた大規模なロケ隊が3か月間、上海から南京迄の広範囲を動き回って撮影したのです。しかし事件の影響で困ったことがありました。
世界中が中国への観光を自粛していたのです。私のシナリオには金綾飯店の見渡す限りの広い大食堂や、あらゆる人種や皮膚の色、国際色豊かな服装の観光客が楽しんでいるラウンジのダンスシーンが有ったのです。事件前に私が見て感動した光景を再現したかったのです。ところが観光客が減っている為、大広間の食堂は一部壁で仕切られ狭くなっていたのです。そして観光客はあらゆる人種どころか、台湾人だけだったのです。
世界が観光をボイコットした為、中国当局は台湾の観光客を受け入れていたのです。日本人から見れば全て中国人で国際色は全くありません。その為、南京市に在住の外国人に頼み,エキストラで観光客になって貰いました。