月とスッポン
月とスッポン
何の実績もない、何の経験もない、何の信用もない、何の人脈もない状態で映画を作るのです。誰が考えても、これでは国内ロケでも難しい。私は酒の席上で映画を作ると宣言し、そして海外ロケを宣言したのです。
たまたま、3~4回中国旅行の経験が有った為、中国ロケをすると宣言したのです。
私の日中友好の気持ちは本物でした。それに応える中国の人達の気持ちも本物でした。だから映画は作れると確信したのです。しかし「月とスッポン」の言葉が有ります。意味には諸説ある様です。もしも、<スッポンが「あんな小さな月なら俺の丸い口で一吸いしてやる」と言った>話なら、私はスッポンでした。
そもそも私は不動産業者として成功した訳でもありません。当時大阪にある1万社以上の不動産業者の殆んどが私を知らないし、私の会社も知らないのです。全体から殆んどを差し引くと数社が残るだけの状態だったのです。無謀とはよく考えないで行動する事を指す言葉の様ですが正にその通り、無謀だったのです。
私の会社はやっと年商1億円程度になった不動産会社でした。たまたま買った土地を売ると数億円の利益が出たのです。その時、私自身はバブルとは関係の無い取引と思っていましたが、税金はバブル対策の超短期譲渡税でした。そして代わりの商品を仕入れる時には大きく値上がりしていたのです。嫌が応でもバブルの中に入り込んで行ったのです。
超短期譲渡税というものは経費を除く殆んどの利益を税金で取り上げるという罰則金の性格を持っていました。小さな商いの会社である為、経費などは大きくありません。それでも少し他社と違うのは、毎年レコードを作ったり、カセットテープを配ったり、ディナーショ―をして宣伝費として経費を計上していた事です。
そこで私は<どうせ税金で消えるなら映画を作って宣伝費として経費で落とそう>と思ったのです。私は税理士に「2億円で映画を作って経費で落としたい」と相談しました。税理士は「単年度では少し無理がありますが2年に渡れば恒例とみなされるでしょう」の答えでした。
私は連日取引先を巻き込んで映画作りをしたのです。新聞でも紹介して貰いました。税金分を映画作りに使ったのなら帳尻は合っているように思えました。
しかしバブルは仕入れ商品の価格も上げて行ったのです。そして商品である土地を1つ買っただけで現金は消えていたのです。後日、突然融資が止まった事で、破局を迎える事になるのでした。
私は1月の初出からシナリオ書きに没頭していました。3月末に書き終えていよいよ4月よりクランク・インの予定でした。
ところが4月1日に当時の橋本大蔵大臣が<総量規制>の発表をしたのでした。一言で言うなら「不動産融資はしてはならない」でした。もう一言は「違反した銀行は許可を取り消す」でした。それは当社にとって致命的な事でした。映画を作らなければ税金を払う。税金を払いたくなければ映画を作る。しかし、すでに現金は消えているのです。融資を受けられないとそのどちらも無理なのです。
しかも既にスタッフもキャストも契約を済ませているのでした。既に説明しているようにキャンセルは利かないのです。「素人監督が映画を作る」と新聞で紹介もされていたのでした。私は薄氷の思いで4月10日のクランク・インを決定したのでした。
「生きるべきか?死ぬべきか?」
その時、私はシェイクスピアの心境でした。しかも私には既に選ぶことも出来なかったのです。