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中国で映画を撮った日本人   作者: 羽渕 定昭
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<江南慕情>と劇画

<江南慕情>と劇画


 私は高校を卒業するまで水道の無い家で母と2人で暮らしていた。小学校の5年の時に父が亡くなった。朝早く家を出て、夜遅く帰って来る生前の父の記憶が殆んどない。

殆んど顔も思いだせない18才年上の姉の仕送りで生活をしていた。15才年上の兄は音信不通だった。

母は事故で足を傷め、勤めてはいなかった。足を痛めた時の事を私は覚えていない。きっと長い間苦しんでいたのであろう。父亡き後はほそぼそと畑で自給自足の食料を作っていた。私は母が45歳の時の子で小学生の時は<おばあちゃん子>というあだ名が付けられていた。


小・中学生の頃は貸本屋の常連で漫画を読み漁っていた。貧しかったので、母も私も中学校を出ると就職すると決めていた。母は散髪屋に勤めることを希望していたが、私は漫画家になることを希望した。中学2年になると必死にマンガを描いた。手塚治虫の<漫画の描き方>の本を買い、必死に独学した。その頃劇画が流行り、新人の登竜門のコンテストがあった。1度応募したが、はるか末端に名が乗っただけだった。


 私はストーリー性のある劇画は好きだったが、絵はマンガの方が好きだった。にもかかわらず、私の描く絵はマンガより劇画調のリアルな絵になった。私は柔らかいマンガの線にする為に必死に練習をした。しかしどうしても硬い絵になってしまった。もうこれは個性として諦めることにした。

次はストーリーを作らなければならない。ところがいくら考えても出て来ないのだ。今なら<江南慕情>のシナリオも書けた。今考えると中学時代は経験が足らなかっただけだったのだ。

 私は中学卒業後、漫画家になると決めていた。中学3年になるとクラブ活動のテニスも辞め、必死にマンガを描き続けた。プロの力量に達していないことは自分で分かった。とにかくその力量にまで達しないと何も始まらないと思い、卒業式が終わっても、私は家で漫画を描き続けた。

 私は高校の入試は受けて合格していた。初恋の女性が進学する事もあり、頭が悪いから進学できないと思われたくなかったからである。

入学のしおりに<入学式に出席しない人は入学を辞退したものとみなす>と印刷されていた。だから私は単に入学式に行かなかっただけだった。ところが、入学式が過ぎても登校しないので、中学の先生も高校の先生も家に来て登校するように私を説得した。

 私は「漫画家になるので進学はしません」と言ったのですが、何日も説得が続き、とうとう十日遅れで登校する事になりました。当時の私にとっては敗北だったのです。

その時私は、社会がどんなものか分からず、どうすれば漫画家で食べて行けるのか分からず、闇雲にマンガを描いていたのです。年老いた母もどうしてよいか分からずにいました。その時の心細さに比べると、その後次々に起こる心細さは大したことでは無いと思えました。

しかし、映画<江南慕情>の製作はその時の心細さを思い出させるものでした。



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