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中国で映画を撮った日本人   作者: 羽渕 定昭
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日中友好の旗

日中友好の旗


 日中友好の旗の下、経済交流を進めていこうという意思は日中双方に強く有りました。

私達は訪中の間、毎日熱烈歓迎を受けていました。中国は合弁企業を求めていました。中国は現在有る工場や、増築する為の土地の提供と人材の提供をする。日本側は出資と技術や価値増殖のノウハウを提供する。そしてお互いが潤うというものでした。

確かに大きな建物は既にあり、人材は揃っていました。不足が有れば増築も可能であるし、新たな雇用も可能でした。1人1万円の給料で必死に働く若者が雇えるのです。当時、私は2,000万円位なら軽い気持ちで投資出来ると思っていました。それだけあればかなりの事は出来るように思いました。しかし投資に見合う還元の見込みが立たないのです。

視察団はメンバーを入れ替えながら視察を繰り返しましたが、3年経っても具体的な契約に至りませんでした。メンバーの中では私が最もふさわしくなかったでしょう。最も弱小企業であり、製造業や流通業界にも精通していなかったからです。不動産業であったので、中国の不動産を扱うという視点はありましたが、全く現実とはかけ離れた視点でした。


「中国で映画を作りたい」

 そんな私が「映画を作る」と提案したのです。関係者は意表を突かれたと思います。しかし幸いなことに、視察の対象に南京師範大学も含まれていたのです。日本で言う産学共同開発の道も模索していたのです。この大学が映画に協力を表明して下さったので、突然日中文化交流の側面がクローズアップされ、物事がスムーズに進むことになったのです。合弁企業の成立とは違いましたが、日中経済交流の成果第1号になったのです。

この後、次々と合弁事業が進むことになったのでした。




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