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「やっ……」

「逃げないで。まだ終わってない」


 静かな部屋の中で水音が響く。

 ぴちゃぴちゃと卑猥な音を奏でているのはエイリーフ。第四王子であり、アンナ=ヴェルンの婚約者でもある。


 彼は一日に一度、必ずアンナの体を舐める。

 それは手の指であったり首元であったり。外から見えるところを遠慮なく舐めるのである。


 けれど今日は靴下を脱いで欲しいと言い出した。エイリーフはアンナのドレスの裾をめくり、ふくらはぎに舌を這わせる。くすぐったさよりも恥ずかしさが勝る。


 静かとはいえ、ここは学園の一室なのだ。いつ誰が来るかは分からない。アンナは声が漏れないように自分の口を押さえる。けれど彼を拒絶することは出来ない。


 この行為を許すことこそ、エイリーフとの婚約を続ける条件なのだから。




 エイリーフとアンナが出会ったのは四年前。

 アンナの夜会デビューが二ヶ月後に迫った時のことだった。


 彼との思い出の花の髪飾りを父がプレゼントしてくれた。アンナのお気に入りの花でもある。夜会デビューは人生で一度だけ。この髪飾りに似合うドレスが着たい。そう強く思った。


 だがアンナは一人で参加するのではない。婚約者にエスコートをしてもらうのだ。だから彼と相談しようと、婚約者が暮らすタウンハウスへと向かった。


 それが全ての始まりだった。

 タウンハウス前に見慣れない馬車が止まっていた。嫌な予感がして、彼の部屋がある2階を見上げる。すると風が吹いてカーテンが揺れた。その隙間から、女性と抱き合う婚約者の姿が見えた。


 相手はアンナと同じ伯爵令嬢。けれど年は三つ上。婚約者と同じ年だった。


 頭に血が上り、勢いでドアベルを鳴らした。

 出てきた使用人はアンナの顔を見て、少しだけ目を見開いた。連絡もなく来るとは思わなかったのだろう。今まで一度もそんなことなかったから、驚くのも無理はないだろう。


 いつも通り、手紙を送ってから来ればよかった。そうしたらあんなもの見ずに済んだのに。ボロボロと涙をこぼしながら、彼を出してほしいと使用人に訴える。


 彼は留守であると嘘をつき、アンナを追い返そうとする。けれど見てしまったのだ。唇を合わせるところまでバッチリと。


「全て、窓から見えてしまったのです」

 その一言で、使用人は泣きそうになった。彼の横を通り、二階へと上がる。そしてノックもなく、彼の部屋を開けた。


 そこにいたのは窓から見た時よりもひどい光景だった。ベッドの上に寝転ぶ二人の服ははだけていた。


「これは、どういうことですか」

「アンナ……なぜ……」


 首だけをアンナへと向け、言葉を詰まらせる。決定的な場所を見られては言い訳なんて出てくるはずもない。アンナだって言い訳が欲しいわけではないのだ。


「ごめんなさい。私が彼を愛してしまったから……」

「メリーは悪くない。悪いのは俺だ!」


 必死で庇い合う二人は滑稽だった。けれどアンナは惨めでたまらない。


 学園に入ってからというもの、彼からの手紙は減っていた。少ない手紙には学園生活が忙しいと書かれていて、そういうものかと納得していた。同時期に自領の薬草園で新種の薬草が見つかったため、つい最近までそれを使った薬の開発と安定した栽培で忙しかった。


 正直、浮気しているかもと考えたことがなかった訳ではない。思えば年上の友人達の様子がどこかおかしかった。彼女達は知っていたのだろう。だがアンナに告げることは出来なかった。



『学園に入学してから会う時間が減ったでしょう? 寂しくって』

 優しく微笑みながら、皆アンナの隣から離れようとはしなかった。今思えば悪意から守ってくれていたのだろう。


 だが彼女達もまさか二人が身体の関係を持っているとは想像もしていなかったに違いない。いや、常識的な貴族ならいかに愚かな行為であるか分かるはずだ。


 この婚約は政略的なものだ。アンナの実家であるヴェルン伯爵家はその昔、錬金術師を何人も輩出してきた錬金術師の名家であった。爵位を賜ったのも錬金術で作った薬が王家に認められたから。


 錬金術が消えた今でも珍しい薬を作る薬師の家系として名を馳せている。どんな傷もたちどころに治してしまう万能薬から産み分けを可能とする妊娠の秘薬まで。他の薬師では真似出来ないような薬がヴェルン家の棚にはずらりと並んでいる。


 婚約者の家が治めている領地は強い魔物が多く生息しているため、ヴェルン家の万能薬を確保したかったのだ。関係を密にするため、アンナと息子の婚約話を持ち込んだ。


 だから浮気していたとしても学生の間だけの遊びのようなものだろうと。万能薬を安定供給してもらうためのチャンスを手放すようなことはしないだろうと、深く考えることはしなかった。


「このことは父に報告させていただきます」

 あまりにも愚かで、涙も出ない。ただただ頭が痛かった。ズキズキとする頭を押さえながら婚約者であったり彼の屋敷を去る。


 帰宅後すぐに父に報告すると、すぐに使いを出してくれた。十日と立たずに婚約破棄が成立した。


 多大な慰謝料を受け取ると共に『ヴェルンの薬は二度と売らない』という約束を取り付けた。薬を卸している商人にも伝えたので、どうしても欲しければ何倍もの額を積むしかあるまい。


 だがこれだけでは終わりではないのだ。

 浮気をされて婚約破棄となったアンナにはあらぬ噂がまとわりつくようになった。

 それは二人も同じことだが、学園を卒業した彼らと学園入学を間近に控えたアンナとでは風当たりがまるで違う。


 幼い頃とは違い、ほとんどの家が婚約者を決めている。珍しい薬を作る家とはいえ、欲しければ普通に買えば良い。今ある婚約を解消するほどの魅力はない。アンナとてそんなことは望んでいなかった。


 父は頑張ってくれたが、夜会デビューには間に合わなかった。


 アンナは泣きそうな思いで城へと足を運んだ。最悪な夜会デビューだ。会場端の壁に背を預けていても、周りの視線が刺さる。


 中には友人からの視線も交ざっていた。事前に手紙を出していなければ今までのように守ってくれようとしたことだろう。だから断った。今まで知らなかったとはいえ、悪いのは元婚約者と不貞に気づくのが遅れたアンナである。彼女達を巻き込みたいとは思わない。


 ましてや今回は王家主催の夜会である。普段、王都から離れて暮らす貴族達も多く参加している。アンナも王家主催でさえなければ欠席していた。しかも今回はよりによって第四王子の夜会デビューでもある。大した理由もなく欠席することは不敬に当たる。


 婚約破棄は十分な理由になるとは思うのだが、ここで欠席したところで学園入学がすぐそこに迫っている。ならここで顔を出して、自分は悪いことはしていないのだという姿勢を示す方が大切だった。


 今日の主役、エイリーフが早く出てきますように。俯きながら願い続けた。


 一秒一秒がやけに長く感じたが、予定の時刻になると壇上にエイリーフが現れた。王様と三人の兄と共に手を振る彼はまさに王子様。今までも何度か遠目から見たことはあったが、今日の彼は一層輝いて見える。ゴシップネタで注目されているアンナとは違うのだ。


 視線が壇上に集まっているうちにコソコソと会場を出る。迎えの馬車の時間はまだまだ先だが、開放されている薔薇園で時間を潰そうと思ったのだ。真ん中のガゼボには向かわず、物陰のベンチに腰掛ける。


 夜会慣れした令嬢ならそれがどんなに危ない行為か知っているだろう。だがこの時のアンナは知らなかった。風の冷たさだって気にならない。会場の中にいるよりもずっと気が楽だった。


 ほおっと息を吐き、空を眺める。雲一つない空で星が煌めいていて、この光景に気づくのはきっと自分だけだろうと少しだけ特別になったような気がした。


 時折懐中時計に視線を落としながら時が過ぎるのを待つ。




 夜会の開始からしばらくが経った頃のこと。背後からガサガサと物音がした。驚いて振り返る。すると草陰から出てきた人物はガッとアンナの手首を掴んだ。


「やっと見つけた」

「ひっ!」


 離してほしいと伝えようにも恐怖で声が出ない。視線を落とせば足が小さく震えている。

 相手はアンナの様子に気づいたらしい。手を離し、ごほんと咳払いをした。


「嬉しくてつい……。驚かせてごめん。怪しいものではない。僕の顔をよく見て」


 不審者の言葉を間に受けるつもりはない。それでも断って何かされたら……。


 恐々と視線を上げる。

 そして今までとは違う意味で言葉を失った。


 なにせ月明かりの下にいた人物はエイリーフだったのだから。なぜ彼がここにいるのか。先ほど、見つけたと言っていたが、なぜ彼がアンナを探していたのか。分からないことだらけだ。それでも身元が保障されている分、少しだけ安心だ。ホッと息を吐く。


 けれどエイリーフは警戒が解けたと知るや否や、再びアンナの手を取る。そしてそのまま持ち上げると、あろうことか手のひらをぺろりと舐め始めた。


「な、何を……」

「味の確認だよ。香りを嗅いだ時から確信してたけど、君は美味しいね」


 それだけ告げて、アンナの手を舐め続ける。意味が分からない。本当に目の前の男はエイリーフなのか。


 エイリーフといえば王位継承順位が四番目と、王位を継ぐ可能性は低いながらも整った顔立ちと優れた頭脳で令嬢から人気を集めていた。婚約者がいる令嬢でさえも彼の魅力にふらりとしてしまうのだと。アンナがその噂を耳にしたのは一度や二度のことではない。


 実際エイリーフは、目の前にいる男の見た目は非常に整っている。もしも普通に登場をしていたのなら、アンナの心は射抜かれていたかもしれない。


 だが背後から登場し、今もなお、アンナの指の間に舌を這わせているのである。

 まるで犬だ。アンナの右手は彼の唾液でべっとりとしている。気持ち悪さで手を引こうとするも、彼は両手でしっかりとアンナの腕を支えている。


 助けを呼ぼうにもここは薔薇園の端。会場からは離れている。主役の彼が会場から消えたというのに、令嬢達が追ってくる気配さえしない。


 結局、夜会が終わる直前までエイリーフがアンナの元から去ることはなかった。左手まで堪能し、満足してからようやく立ち上がった。



「では明日、正式に手紙を出す」


 去り際に残した言葉の意味が分かったのは翌朝のこと。王家から結婚の打診があった。

 初めは意味が分からなかった。けれど王家からの婚約を断ることも出来ず、学園入学前には婚約が結ばれてしまった。



「会いたかったよ」

 婚約者となったエイリーフに呼ばれ、王城の彼の部屋へとやってきた。出迎えてくれたのは爽やかな笑みを浮かべる王子様。まさか夜会を抜け出して初対面の令嬢を舐める人とはとても思えない。


「いろんなおやつを用意したんだ。気に入ってくれるといいんだが……」

「私のために?」

「もちろん。さぁ座って」

「失礼いたします」


 促され、ソファに腰掛ける。

 すると彼はアンナのすぐ隣に並んだ。腕はぴったりとくっつくほどの距離。近くないですか? との言葉が喉までせり上がった。けれど王子様スマイルを浮かべる相手に指摘出来るはずもない。


 すぐ近くでは彼の従者が無表情で立っている。変なことなんてしないはずだ。多分、これがエイリーフにとっての他人との距離なのだ。人との距離感が近いだけ。そう自分に言い聞かせ、アンナはカップを手に取った。


「美味しい……」

「そうだろう? 僕のお気に入りのお茶なんだ」


 耳元で囁かれ、危なくカップとソーサーを落としそうになる。

 ビクンと身体を震わせると、エイリーフはアンナを支えるように腕を回した。


「大丈夫かい?」

「は、はい」


 なんなんだ、この色気は。

 アンナは男性慣れしているというほどではない。けれども幼い頃から婚約者がいた。夜会に出るためにダンスの練習だってしていた。これくらいで驚いてはいけないことくらい、頭では理解しているのだ。同時に頭から湯気が出そうなほど、恥ずかしくてたまらない。


「ねぇアンナ」

「な、なんでしょう。エイリーフ様」

「耳、舐めて良い?」

「は?」

「美味しそうな香りがするんだ」


 エイリーフはアンナの耳元でふうっと息を吐く。

 もう限界だった。


「エイリーフ様!」

「なんだい?」

「エイリーフ様が私と婚約したのは、その……こういう行為をするためなのでしょうか?」

「そうだよ」


 彼はなんてことないようにそう言い切った。

 何を言うのだとばかりにこてんと首を傾げられ、本気だと理解させられる。


「今は忙しいけれど、学園に入学すれば毎日会えるね。こうしてアンナを楽しめる」


 あの夜、アンナはろくに抵抗しなかった。王子様相手に抵抗なんて出来るはずもない。

 会場から離れた場所に一人でいたのが運の尽きだったのだ。


 伯爵令嬢と第四王子の婚約。端から見れば玉の輿だろう。

 つくづく自分は男運がないらしい。


 彼は許可を待つことなく、アンナの耳を舐め始めた。

 おやつは好きに食べてもいいと言われながらも、彼の舌は首にまで降りてきているのだ。暢気に楽しめるはずもない。


「ああ、ずっとこうしたかった……」


 エイリーフからすれば至福の時なのだろうが、この状況を彼の従者にバッチリと見られているのだ。二人ならいいという話でもないが、恥ずかしくて今すぐにでも意識を手放してしまいたい。


 けれどそんなことをすればどこを舐められるか分かったものではない。そしてここで彼を突き飛ばしても似たようなものだ。


 不敬罪に問われればアンナだけではなく、家族も巻き込むことになる。

 今は耐えるしかないのだ。


 そう、彼だっていつまでもこんなことをしているはずがない。

 飽きたら婚約解消をすれば良いと思っているに違いない。後々切り捨てることを考えれば、アンナは格好の相手である。


 そもそもこの年まで第四王子の婚約者が決まっていなかったこと自体が変な話だったのだ。何らかの理由で公にされていないだけで、すでに結婚相手が決まっているのかもしれない。


 そうでなければ舐めても抵抗しないからというふざけた理由で伯爵令嬢を選ぶはずがない。


 今は我慢の時だ。

 王家から婚約の申し出があって、あちらの都合で解消になれば、きっと慰謝料にもかなり色をつけてくれるはず。それこそ、生涯独り身でも暮らしていけるくらいに。店を持つのもいいかもしれない。だからその時まで我慢しようと心に決めた。



 それからアンナとエイリーフが婚約したとの話は瞬く間に広まった。

 浮気された令嬢から、社交界の人気者の婚約者へと変わったのだ。お茶会に参加する度、今度は違う意味で注目を集めた。


 まるで値踏みされているようで、彼女達の視線は『こんな地味な令嬢がどうやって彼の心を射止めたのか』と言っているようだった。


 今日のお茶会なんて、今まで一度も話したこともない公爵令嬢から手紙をもらって参加しているのだ。それくらい誰もがアンナに注目している。


 だがアンナから言わせれば、あの奇行を知らないから憧れていられるのだ。いくら顔が良くて優しくて頭が良い王子様とはいえ、会う度に変なところを舐められれば嫌にだってなる。


 それ以外の優しさなんて全部帳消しになるくらいには恥ずかしいのだ。

 思い出したら顔に熱が集まってくる。そんなアンナの様子を、周りの令嬢達は勘違いしたようだ。


「エイリーフ様はアンナ様を溺愛していると聞きますわ」

「毎日のように城に呼び出しているのだとか」

「私の兄は女性に人気のお菓子を尋ねられたと言っておりましたわ」

「そんなに大切にされて羨ましいわ」


 ふふふと口元を隠しながら笑う。目では「調子に乗るなよ」と訴えるのも忘れない。


 エイリーフの本命はどんな相手なのだろうか。

 伯爵令嬢で、溺愛されているという噂を回していても、こんなに針のむしろ状態なのだ。それよりも身分が低い相手ならもっと大変な目にあっていたことだろう。


 もしやアンナでワンクッション置いてから、運命の恋を見つけたと宣言するつもりなのか。

 そんな話を以前、小説で読んだことがある。市井の娘達だけではなく、貴族の令嬢達の間でもロマンチックだと評判なのだ。


 まさか自分が捨てられる相手側になるとは思わなかったが、アンナにはぴったりな役だ。少なくとも、公爵令嬢達の笑みで圧を感じているくらいでは、王子様に愛されるような器ではないのだ。部屋に篭もって薬鍋をかき混ぜている方が性に合っている。




 学園入学の日。エイリーフは伯爵家までアンナを迎えに来てくれた。


 入学生代表挨拶を行うため、他の生徒とは席が違う。彼はアンナを一般生徒席まで送り届けると、にこりと微笑んで前の方へと歩いて行った。堂々とした様子で、とても馬車の中でアンナの手を舐めた男と同一人物だとは思えない。


 けれど降りる直前に差し出されたハンカチはアンナのポケットに入っているし、まだ彼の体温が手に残っているような気がする。ぼおっとした頭で壇上を見つめる。そこに立つエイリーフは、あの距離に慣れたアンナにとって少しだけ遠かった。


 彼の隣に座るようになったのは最近のこと。

 なのに彼の声と熱が身体に張り付いていて、今の距離にソワソワとしてしまう。



 式が終わると彼はすぐ、アンナの元へとやってくる。約束なんてしていない。けれど少し離れた場所から徐々に道が出来ていくのである。その道を当然のように進むのはエイリーフだった。


「寂しかった」


 アンナを強く抱き寄せる。まるで何ヶ月も離れていたかのよう。実際は少し前に婚約を結んだばかりの婚約者である。アンナもまさかこんなことをするなんて思わず、身体が固まってしまう。それを良いことに、彼はアンナの肩に顔を埋めてぺろりと舐めた。


 もちろん周りから見えない角度で。


 講堂に集まっているのは新入生だけではない。親達や上級生も集まっている。


 彼らに見せつけるように、エイリーフはアンナを抱き上げた。


「ちょっ……降ろしてください!」

「気づかなくてすまない。足を怪我していたんだね」

「え……」

「屋敷まで送ろう。いや、王城の方が近い。宮廷医師に診てもらおう」


 この男は一体何を言い出すのか。

 アンナは足なんて怪我していない。それは屋敷からアンナの席まで送り届けたエイリーフもよく知っているはずだ。なにせ彼はアンナの睡眠時間まで知っているのだから。怪我なんて見逃すはずもない。


 彼もそれを分かっていて、アンナを運ぶという名目を得るため、わざわざ周りに聞こえるように声をあげたのだ。


「資料で一度見た時からやってみたかった。……いつもとは違う部分が触れられていいな」


 彼が爽やかな笑みを浮かべながら変態じみた言葉をボソボソと吐いていることを知っているのは、至近距離にいるアンナだけ。


 そして周りは勘違いをする。

 今までの噂に尾ひれや背びれがついて回るまで一日と経たなかった。同時に元婚約者と浮気相手の立場はなくなった。


 どさくさに紛れてアンナとの時間を確保したエイリーフは馬車に座らせ、本日二度目となるアンナの手を堪能する。行きは右手だったので、今度は左手を。


「ああ、僕のアンナ……」


 アンナの左手はエイリーフの生暖かい息をかけられながらヨダレでベタベタにされる。このまま王城に連れて行かれて、今度は足を舐められるのかもしれない。現実から逃げ出したくて、アンナは遠くを眺める。


 だから知らなかった。

 在学中、元婚約者が例の伯爵令嬢と学園内で堂々と浮気していたこと。それは学生にとって周知の事実であったこと。エイリーフはそれを知っていて、一芝居打ったことも。



 ◇ ◇ ◇



「派手にやったそうじゃないか」

「あれくらい抑えた方だよ。もう二度と手を離すつもりはないからね」

「相手の家を潰さなかっただけマシか。そうそう、妻に聞いてきたぞ。これが今の流行のお菓子だそうだ」

「ありがとう、兄さん。義姉さんにもお礼を伝えておいて」

「まったく兄とはいえ、第一王子を使いっ走りにするなどお前くらいなものだぞ」

「だって義姉さんに聞いた方が確実だから」


 お茶を啜りながら、お菓子を摘まむアンナを想像する。アンナはどんな姿も可愛らしいが、美味しいものを食べる時と恥ずかしさをこらえる時が一番可愛いのだ。



 エイリーフがアンナと出会ったのは十年以上前のこと。

 アンナは覚えていないだろう。お茶会デビューの少し前。あの頃はまだ人前に出るのが得意ではなくて、小規模のお茶会を遠くで眺めていた。そんなエイリーフに、アンナは声をかけてくれたのだ。


『遠くで寂しくない? これ美味しいのよ。食べてみて』


 そう言って彼女が差し出してくれたのはスコーンだった。いちごのジャムを載せて、お皿ごと持ってきてくれたのだ。全部少しずつ食べた中で一番美味しかったという。


 まだデビューしたばかりで友達が少なく、今日はその友達さえいなくて寂しかったようだ。だからエイリーフも同じなのだろうと。


 お日様みたいな朗らかな笑みを浮かべながら教えてくれた。すぐに心を奪われた。


『飲み物も持ってくるわ』

『いい。ここにいて』

『そう? ねぇお名前はなんていうの? 私はアンナ』

『エリック』


 本当の名を伝える訳にはいかない。エイリーフのお茶会デビューはまだ先で、三ヶ月後だと正式発表されている。だからとっさに口から出たのは偽物の名前。昨晩読んでいた冒険小説の主人公の名前だった。


『エリック、私とお友達になって』

『もちろん』


 彼女の手を取って、他のおやつを取りに向かった。

 お皿におやつをたくさん載せて、今度はお茶も持って、同じ場所に腰掛けた。


 他の参加者からは見えない物陰に、ピタリとくっつくように並ぶのである。

 彼女はご機嫌で今まで楽しかったことを話してくれて、エイリーフは今まで読んだ物語を彼女に話した。本の中で経験した楽しかったことも悲しかったことも。彼女は目を丸く見開きながら驚いて、コクコクと頷いて、そして涙した。


 自分で紡いだ物語ではないけれど、この短い時間だけでも彼女の心を奪えることが嬉しかった。幸せだった。こんな時間が長く続けば良いと、心の底から願った。


 けれど幸せな時間が長くは続かない。

 お茶会が終われば彼女とは離ればなれになってしまう。終わりの合図が聞こえると、彼女の表情も不安へと変わる。


『また会えるかしら……』

『いつか必ずアンナを迎えに行く』


 けれどそんな不安も一瞬だ。自分がかき消してみせる。そんな思いで彼女の手を取った。


 そして城に戻ってからアンナが伯爵令嬢であることを突き止めた。彼女からはふんわりと薬草の香りがしたので、すぐに特定することが出来た。それから父に彼女と婚約したいと頼んだ。


 エイリーフは第四王子。兄達は健康そのもので、堅実な性格である。自分に王位が回ってこないことは分かりきっていた。努力をしたところで重役に据えられるくらい。


 だから多少身分差があっても頷いてくれることだろう。物語の中の王子は皆、愛する女性の手を取った。だから自分もそうだと疑っていなかった。



 けれど父はなかなか頷いてくれなかった。エイリーフが考えるほど、王子の婚約は単純ではないのだ。政治的な意味を持つ。


 ヴェルン家は伯爵家であり、同時に薬師の家系でもある。薬師が扱うのは薬だけではない。必要とあれば毒さえも作ってしまう。だからこそ、王家がかの家の令嬢と縁を結んだと知れば警戒されてしまう。


 諦めろと何度と繰り返されてもなお、エイリーフは諦めなかった。


 政略なんて吹き飛ばせるほど個人で力を持てばきっと、父だって認めざるを得ないだろうと。お茶会デビューだって見事にこなしてみた。他国の文化や言語だって習得したし、図書館に入り浸っては様々な知識を習得していった。


 全てはアンナと共にあるためだった。


 けれど現実は非情だった。


 エイリーフが努力を重ねているうちに、アンナと伯爵令息との婚約が決まってしまったのだ。アンナの婚約は貴族の令嬢にしては遅いくらいだった。だからこの先も、と知らぬうちに慢心していたのだ。


 もっと早く、それこそ彼女と出会う前から努力をしていれば。そんな思いが胸に積もっていく。顔も知らない伯爵令息が羨ましくて、あからさまにホッとする家族が恨めしくてたまらなかった。


 けれど邪魔をしようとは思わなかった。アンナには笑って欲しかった。だから見守ろうと心に決めた。今までの積み重ねはいつか、アンナが困った時に手を差し伸べるためだと自分に言い聞かせ、その先だって努力を止めることはなかった。


 こうしてエイリーフは令嬢達が憧れるほど優秀な王子様へとなっていった。


 アンナと再会するまで、エイリーフには何度と婚約の打診があった。けれど全て断った。アンナほど惹かれる女性はいなかったからだ。あの日から何年が経過しても、アンナこそが一番だった。アンナ以上に優先すべき存在などいなかった。エイリーフが積み上げてきたもの全てがアンナに捧げるためのものなのだ。


 エイリーフの一途さを知る両親は無理強いするようなことはしなかった。



 彼が第四王子だったというのも大きい。

 それでもいつか、アンナが結婚した後でもいいから生涯を共にする女性を選んでくれればと心の底から彼の幸せを祈っていた。


 王家がそんな調子であるため、いつからか上級貴族の間では『エイリーフ王子には愛する女性がいるのではないか』という噂が広まるようになった。親戚の姫だけは信じてくれず、度々結婚しようと迫ってきた。


 だが相手の親もエイリーフと結婚させるつもりはなかったこともあり、適当に理由をつけて婚約話を躱し続けた。一人だけ、それも他国にいる彼女を巻くのはたやすかった。


 会うたびにアタックし続ける彼女よりあの日出会ったアンナが愛おしい。どんなに時間が経ってもこの思いが色あせることはなく、年々深みが増していくかのよう。


 ほおっと息を吐きながら、彼女のことを考える。


 家族はそんなエイリーフを日々見ていた。

 だからこそ第二王子と第三王子は、アンナの婚約者と他の伯爵令嬢の浮気を見逃すことは出来なかった。いつか何かのきっかけで耳に入るよりは、とすぐにエイリーフにこのことを伝えた。


 兄達から聞かされた内容は、とても信じられるようなものではなかった。エイリーフの頭は真っ白になった。同時に腹の底からどす黒い感情がわき上がる。


 自分なら幸せに出来るのに。幸運を手に入れながら、彼女を裏切る行為を平気でする男が許せなかった。だが学生でもなく、正式にアンナとの付き合いがある訳でもないエイリーフが学園で行われている浮気に手を下すことは出来なかった。兄達も同じである。


 婚約破棄させたい。だがそれで彼女が傷つくような事態は避けたい。

 アンナ第一のエイリーフは葛藤した。どうすべきかと頭をフル回転させ、彼女の夜会デビューで攫ってしまえばいいのではないかと思いついた。


 彼らは学園内では飽き足らず、夜会でも共に時間を過ごすようになっていたから。すぐに王子である自分が前に出れば、醜聞よりも注目が集まることだろうと。



 その日はちょうどエイリーフの夜会デビューの日でもあった。

 なので夜会でアンナを攫う計画を決行すると、父に宣言した。すでにアンナの婚約者が浮気していることは父の耳にも入っていた。


 一年の後期からなので、もう二年だ。その間、エイリーフがどうやってあの男を潰すか考えていたのだ。気づかないはずがない。


 アンナに浮気された令嬢というレッテルが貼られてしまえば、まともな令息との婚約なんて出来るはずがない。アンナは何も悪くなくとも、醜聞は醜聞。面白可笑しく塗り替えられた噂がすぐに社交界を巡ることだろう。


 だがそんなのは日常茶飯事だ。何人もの令嬢・令息が似たような目に遭ってきた。よほどのことがなければ、それに王族が関わることはない。


 エイリーフが愛する娘でさえなければ、アンナの婚約が結ばれてすぐにエイリーフが諦めていれば、かわいそうな娘だと思うだけで終わったことだろう。


 だがエイリーフは今までずっとアンナのためだけに努力を続けたのだ。アンナだけを見つめていた。それこそ第一王子の地位を脅かすだけの力を持ちながら、権力になんて全く興味を持たず。だから身分差には目を瞑ることにした。


『その力を国のために役立てると約束するのなら、アンナ嬢との婚約を認めよう』

『ありがとうございます!』


 エイリーフはぱあっと花が開くように笑い、王に頭を下げる。そして夜会の準備に奔走した。まさか二年も頭を悩ませていたことが、アンナ本人の目に触れ、婚約が破棄されることになるなんて予想もしていなかった。


 アンナの悪い噂を耳にする度に、早く手を下していれば良かったと後悔した。


 夜会当日、早々にアンナが会場から消え、誰かを待つように外のベンチに腰掛けていたことで後悔は焦りへと変わった。一刻も早く彼女を手に入れたい。その気持ちがアンナを舐めるという奇行に走らせた。


 その行動を知った兄達は『既成事実を作らなかっただけマシ』と口を揃えたが、エイリーフがアンナを傷つけるようなことをするはずがない。好きだからこそ、大事にしたい。そして初めての夜も。


「アンナ……」


 お菓子を食べながら息を吐くエイリーフからは色気があふれていた。

 知らない者が見ればさぞ絵になる光景だろう。まさか婚約者の味を思い出しているなんて想像するはずもない。


「あまりやり過ぎるなよ?」

 心配する兄の声など、エイリーフには聞こえていない。

 やっと手に入ったのだ。必死にもなるというものだ。



 ◇ ◇ ◇



「美味しい?」

「ええ、とっても」


 アンナは今日もエイリーフに舐められていた。それもエイリーフの膝の上に座った状態で。

 学園に入学してからの彼のお気に入りは首筋で、抱きかかえた状態からの方が舐めやすいらしい。馬車の中では危ないからと断ったが、代わりに舐められる回数が増えてしまった。


 学園内でも基本的に彼がアンナの側から離れることはない。登下校も彼の馬車で。放課後はエイリーフの部屋に寄り、お茶をしてから送ってもらうというルートが出来てしまった。


 それでも男女別の授業は離れざるを得ない。週に何度もないのだが、離れる時、エイリーフは捨てられた子犬のような目をするのだ。そして必ずアンナを抱きしめてから授業へと向かう。もちろん再会のハグもセットとなっている。


 溺愛の噂はますます加速していく。

 アンナもこの生活に慣れつつあった。


 そんなある日のこと。

 エイリーフの元に一枚の手紙が届いた。学園の封筒に入ったそれを見た途端、彼は眉間に皺を寄せた。そしてあろうことかそれを摘まみ、暖炉の火にかけようとしたのである。


「エイリーフ様、それは大切な手紙では」


 アンナが指摘すると、泣きそうな目を向ける。彼は中身を見ずともどんな内容か知っているようだった。知っていて、強く拒絶する。


「こんな手紙いらない」

「ですが」

「アンナと離れたくない……」

「え?」


 なんとか説得し、中身の確認をして、ようやく彼の言葉の意味を理解した。

 それは生徒会長指名について書かれた手紙だったのだ。生徒会役員は爵位や寄付金、成績などを基準に選考される。一年生で選ばれることは珍しく、選ばれても庶務か書記であると決まっていた。


 だがエイリーフが選ばれたのは生徒会長。生徒会長は学園の看板。王子であっても成績に問題があれば選ばれることはない。それも打診ではなく指名。つまりほぼ確定しているのである。よほどの理由がなければ断れない。


「アンナも入るならいい」

「私は無理ですよ」


 全てがほどほど。打診の手紙すら来ていない。送られてくるとも思っていない。エイリーフとは立場がまるで違う。


 エイリーフはアンナを抱きしめながら、首元に顔を埋める。舐めることもせず、何度も何度も「離れたくない」と繰り返す。よほど嫌なのだろう。だがアンナにはどうしようも出来ないのだ。


「お仕事が終わるまで待ちますから。ね?」

「……なんで、僕ばっかり」


 泣きそうな声でそう呟いた。けれど言葉を続けることはなく、短く息を吐いた。そしてペロリとアンナの首元を舐めた。



 エイリーフが生徒会長になったのは翌日のことだった。

 彼の部屋で過ごしていた時間はそっくりそのまま学園の図書館での勉強時間へと変わった。舐められる回数も減った。だがアンナの成績はぐんぐんと伸びていた。


「ここがこうなるのか。なるほどなるほど」


 なにせ毎日図書館で予習復習を繰り返しているのだ。課題を片付ける時間だって十分にある。こんなに時間があるなら今期の授業をもっと詰めれば良かったと思うほど。

 困りごとがあるとすれば、エイリーフが離れたことで令嬢達が集まるようになったこと。


「今日もエイリーフ様をお待ちになっているのね」

「仲がよろしいことで」

「羨ましいわぁ」

「いつもご一緒ですものね」


 それもエイリーフがアンナを溺愛しているという噂を信じている令嬢ばかり。まるでアンナを守るかのように毎日代わる代わる放課後の図書館へと足を運んでくるのである。話に花を咲かせたり、本を読んで過ごしたり。途中で入れ替わることもあるけれど、エイリーフが来るまで必ず一人はアンナの隣に座っている。


 二人の仲をよく思わない令嬢も多いと思うが、彼女達のおかげで直接何か言われるようなことはない。



「アンナ!」


 今日もエイリーフが来るとすぐ、スススッと去っていく。二人きりになった図書館で、エイリーフはアンナを抱きしめた。そして耳元で囁く。


「あっちに空いてる部屋があるんだ。行こう」


 手を引かれ、近くの空き部屋へと移動する。エイリーフは椅子に腰掛け、アンナへと両手を伸ばす。彼の部屋でされていたのと同じだ。アンナは大人しく彼の膝の上に座る。そして首を舐められた。


「アンナ……」


 まるで会えなった時の分まで舐めとるかのようにしつこく肌をなぞるのだ。生温かい息が触れ、くすぐったさに身を縮める。けれど今日はそれだけではなかった。


「一緒に城に帰りたい」


 ポツリと言葉を漏らす。生徒会に入りたくないと、アンナと離れたくないと言った時と同じだ。アンナの肩に置かれた彼の頭を撫でる。


「私は待っていますから」


 何があったのかは分からない。知ったところで、エイリーフが拒めないものをアンナがどうにかすることは出来ない。無責任な言葉だ。それでもアンナには励ますことしか出来なくて、よしよしと撫でる。サラサラとした髪の触り心地がいい。


「エイリーフ様はヴェールズの冒険という小説をご存知ですか? 先日、久しぶりに読んだら面白くて」


 幼い頃、お茶会で出会った男の子が教えてくれたのだ。エリックという名の男の子である。彼がアンナの初恋だった。


 その頃は家名を聞くという考えがなかった。父に聞けばすぐにわかると思っていた。

 お茶会から帰ってすぐ、父にエリックのことを話したのだ。一人でいたからきっと婚約者はいないだろうと。父は相手も同じくらいの身分だったら婚約を打診しようかと言ってくれた。


 エリックから教えてもらった本を父に買ってもらい、本を読みながら、もう一度彼と会える日を思い描いた。それから父は熱心に探してくれたが、エリックは何ヶ月経っても見つからなかった。


 そうして違う人と婚約を結んだ。彼と婚約を結んでから、エリックのことは忘れたくて、教えてもらった本は片付けてしまっていた。


 学園の図書館に通うようになってから、懐かしくなって物置から取り出してもらったのだ。


 あの後、その本は男の子達の間で人気があると聞いた。エイリーフも読んだことがあるのではないかと思ったのだ。知らなくても私が面白さを伝えれば、あの日のお茶会のアンナのように楽しい気分になれるのではないかと。


 そんな藁にもすがるような思いで切り出せば、エイリーフがビクンと動いた。


「エイリーフ様?」

「ああ。幼い頃、何度も読んだよ」

「私、ヴェールが洞窟を冒険するシーンが好きなんです」

「僕も好き」

「先が見えなくて怖いはずなのに、お母さんの薬草を取りに行く姿が格好良くて」

「光る薬草を見つけた時は興奮した」

「壁についていた手のところが崩れた時はヒヤッとしましたね」

「でもそのおかげで見つかった」


 話しながら、彼の緊張は少しずつ解れていった。そして馬車に乗り込むと、悩みの正体を打ち明けてくれた。


「他国の姫が留学生が来ることが決まった。姫は留学中は王城に滞在する。……今までより離れ離れになる時間が長くなる」

「どのくらい滞在されるのでしょうか」

「一年。その間、僕が王子として、生徒会長として彼女のサポートにあたる」

「そう、ですか……」


 気の抜けたような声が出る。

 アンナはそれ以外の答えを持っていなかった。


 姫様の留学までの間、エイリーフはますますアンナから離れなくなった。

 二ヶ月なんてあっという間に過ぎていき、いよいよ姫様が我が国にやってきた。


 はじめての一人での登校はなんだか落ち着かない。ソワソワとしてしまう。けれどその思いは学園についてますます強くなっていった。


「エイリーフ、あれは何かしら」

「メリンの花ですね。我が国にしか咲かない花です」

「綺麗ね」


 姫とエイリーフの距離は近い。普段のアンナと彼との距離と同じ。腕を絡めながら、こてんと頭を預けるのである。


 一目見てすぐに気づいた。姫はエイリーフに恋をしている。アンナを見つけると、氷のように冷たい視線を向けた。

 それはこの時だけではなかった。アンナとエイリーフはほとんど同じ授業を受けているので、姫様とも行動が被っている。彼女はアンナが近づくと顔を歪め、エイリーフとともに離れていくのである。



 一日が終わる頃には、姫の留学の目的がエイリーフであることを理解させられた。アンナとの婚約を聞きつけ、留学を決めたのかもしれない。


 下級貴族のアンナが他国の姫様と関わる機会なんてなかった。けれどエイリーフは今まで何度と姫と会っている。幼い頃からの知り合いらしかった。少し前に婚約者になったアンナとでは年数が違う。


 彼もまんざらではなさそうだ。姫の留学が決まってから毎日暗かったのが嘘かのよう。


「休日も共に過ごされているらしいわ」

「でもエイリーフ王子にはアンナ様が」

「最近ご一緒にいるところを見かけませんわ」


 一月経つ頃にはそんな噂が流れるようになった。

 共に過ごす時間がないので、当然舐められることもない。日に日に彼の体温が薄れていく。遠くに行ってしまったかのようだ。


 迎えが来るまでの時間を図書館で潰せば空しさが押し寄せる。誰も迎えになんて来てくれない。幼い頃読んでいた本を何冊か借り、胸に抱く。空白を埋めるには本が一番だ。彼は戻ってきてくれると言っていた。


 少しだけ我慢すればいいのだ。そう思う一方で、気が変わっているのではないかとも思ってしまう。


 舐めることが出来れば誰でもいいんじゃないか。

 一度そこに行き着いてしまったら、完全に迷いを脱ぎ去ることは出来なかった。エイリーフと姫様の姿を見ないようにしても、楽しそうな声が耳に届く。その度に「お似合いよね」と幻聴が聞こえてくるのだ。


 逃げてしまいたい。

 そんなことばかり考えていたからだろう。図書館で時間を潰すアンナの元に一人の令息がやってきた。


「また捨てられたんだな。溺愛されていたように見えたが、結局王子ももっといい相手が出てきたら乗り換えるのか」

「え……」


 初めて見る人だ。けれど彼はアンナのことをよく知っているようだ。まるで自分が傷つけられているみたいな表情をしている。


 いきなりナイフのように鋭い言葉を投げつけられたのはアンナだっていうのに、怒ることさえも出来ない。パクパクと口を動かすので精一杯。その間に目の前の彼は言葉を続ける。


「だが伯爵令嬢相手よりも他国の姫の方がいい。普通、そっちを取るよな。あそこまで惚れられていれば揺らぐのも無理はない。王族同士の婚姻が結ばれれば国に利益がある。乗り換えることこそ賢い選択だ。……元婚約者とは違う」


 最後の言葉でハッとした。彼はアンナの元婚約者の浮気相手の元婚約者だ。相手の伯爵令嬢にも婚約者がいた。自分のことでいっぱいいっぱいで、向こう側の婚約破棄相手のことなんて考えてもみなかった。


「アンナ=ヴェルン、君にとって元婚約者はどんな人だった?」


 彼はそう問いかけながら、アンナの横に腰掛けた。

 泣きそうな顔は変えぬまま「いきなりだったな。先に俺のことから話そう」と遠くを見つめた。


 そして彼にとっての元婚約者について語ってくれた。


 相手の女性のことが好きで、仲は良いと思っていたこと。頻繁に贈り物をしていたこと。

 けれど実際は家柄が低い彼のことを下に見ていた。金を持っていたから仲良くしていただけなのだと、婚約破棄が成立してから知ったこと。


 彼は子爵令息だが、母が有名な商会の娘なのでお金には余裕があるらしい。


「別に君を恨んでいる訳じゃない。むしろ感謝しているんだ。卒業したら母の実家の商会で働くことにした」

「あなたは強いんですね」

「君の方が強い。俺はあの日からもう、お茶会にも夜会にも参加していない。学園だって本当は通いたくないくらいだ。だが君が勇気をくれたから、箔をつけるためって割り切って通えるようになった」

「私?」

「初めて顔を合わせた相手に言われて気持ち悪いかもしれないが、君には仲間意識みたいなものを持っている。だから大切にされて欲しいと、幸せになって欲しいと思う」


 彼の目には嘘一つ混じってはいない。

 見れば分かる。彼は心からの親切心で言ってくれている。


「簡単に割り切れないなら早く諦めた方が良い。信じて捨てられるのは辛い。君だってよく知っているだろう?」


 表情を歪め、よく考えるんだと肩を掴む。胸がずきんと痛む。

 アンナはエイリーフが好きだ。変態じみたところでさえも愛おしくてたまらない。

 彼はアンナが胸に秘めた思いに気づいていて、もっと深みにはまらないようにと忠告してくれている。


「ありがとう。よく考えてみます」

「ああ。困ったら頼って欲しい。捨てられ仲間として」

「嫌な名前ですね」


 アンナが苦笑いをすると、彼は初めて楽しそうに笑った。

 迎えの馬車が来る時間となり、図書館を去った。彼は元々図書館に用事があったようで、そのまま残るそう。


 手に持っていたのはアンナが受けている授業で配られたプリントだった。今まで気づかなかっただけで、同じ授業を受けているらしかった。


 馬車で揺られながら、自室で一人になりながら、身の振り方を考えた。

 ひとまず彼への思いを避けて、どれが最善なのかを追いかける。


 悩んで悩んで悩んで悩んで。

 最善の道は図書館で告げられたものだった。


 逆立ちしたところでアンナは伯爵令嬢でしかない。特別顔がいいだとか、頭がいいとか、そんなこともない。薬師としての才能があるくらい。


 未だになぜあの夜、エイリーフがアンナの元に来てくれたかさえも分からないのである。


 離れるのなら、今しかない。エイリーフは今、姫様から離れることが出来ない。


 このタイミングでアンナが距離を取ってしまえば、エイリーフと姫様の婚約が上手くいくのではないか。なにせ相手はお姫様だ。二度目の婚約が上手くいかずとも、今回は醜聞になることすらなく、周りもすんなりと受け入れてくれるのではないか。


 駄目だったとしても、初めからこうなる運命だったのだと受け入れられる。


「エイリーフ様は女性ではなく、国としてのメリットを取った。私は国のためにそれを受け入れた」


 胸が痛むのは一時だけ。いつか忘れることが出来る。

 自分にそう言い聞かせる。


 そうしてアンナはエイリーフと距離をおくようにした。

 といっても今までも姫様によって少しずつ距離を作られていたので、近づかないだけでいい。目を逸らせば、あなた達の邪魔をするつもりはないのだと伝わったようだ。見なくとも分かるほど、姫様は機嫌が良くなった。


 例の子爵令息、ガウロはすれ違い際、アンナの耳元で「何かあったら頼ってくれ」と囁いた。


 エイリーフだってアンナの気持ちが分かっているはずだ。けれど彼はアンナの元へ来ることはなかった。今までと変わらずに姫様の隣で笑い続ける。


 その様子に周りもすぐに『エイリーフ王子は姫様を選んだのだ』と理解した。

 友人の他にもアンナを励ましてくれる令嬢もいたが、伯爵令嬢を選ぶこと自体がおかしかったのだ。多くの令嬢・令息は初めからこのつもりだったのだろうと納得しているようだった。



「薬師として生きることを本格的に考えるべきかしら」


 捨てられた令嬢の多くが修道院に入るか、次の婚約者を見つけるか。上位貴族ならすぐに婚約者を見つけることが出来るが、大抵は周りからの噂話に耐えかねて修道院に入ってしまう。


 けれどそこまでせずとも、社交界から姿を消してしまえば噂なんて聞かなくて済む。アンナは今まで貴族の令嬢として生きてきた。同時に薬師としても。


 あくまで調合と栽培だけで、自分の作った薬を売りに行ったことはない。ガウロのような伝手もない。だが下級貴族の令嬢の中には外に働きに出ている子もいるのだと聞いたことがある。薬師としての技術はあるので、今からでもその他の技術を身につけるべきではないか。


 家を出るのであれば家事も一通り身につけなければならない。そこでアンナは父に相談してみることにした。


「お父様。私、今の婚約がなかったことになったら、薬師として生きたい」

「いきなり何を言い出すんだ」

「誰かに期待するよりその方がずっと良いと思うの。自分のせいなら諦められるもの」

「駄目だ。そんなことは許さない。それに、以前はともかく、エイリーフ王子はアンナを大切にしてくれているではないか」

「今はそうかもしれませんが……」

「王子は誠実な方だ。どれほどアンナを愛しているのか、私にも何度と手紙をくださった。王子という立場を抜きにしても彼ならアンナを任せられる」

「ですが」

「こんな話、もうしてくれるな。もしもの話でお父様を悲しませないでおくれ……」


 父はアンナの肩に手を置いて、首を小さく振る。

 アンナが浮気現場を目撃して帰ってきたあの日を思い出しているのだろう。アンナとて父を悲しませたい訳ではない。悲しませたくないからこそ、傷が浅くて済むうちに告げなければと思ったのだ。


 その日から、少しずつメイドに仕事を教えてもらうことにした。一人暮らしは認めてくれるようすはないが、簡単なことなら出来ても損はないと父も納得してくれた。


 といっても本当に簡単なことしかやらせてもらえず、重いものなんて持たせてもらえない。掃き掃除と拭き掃除がメインだった。


「道具の管理は自分でしているから、これくらいなら私でも全然出来そうよね」

「お嬢様、メイドのお手伝いですか?」

「簡単なものだけど、屋敷を出た後も生きていけるように教えてもらっているの。ところでそれは?」

「薬の材料以外も植えてみようと思いまして。いくつか領から取り寄せたのです」

「なるほど。手伝ってもいい?」

「もちろんです」


 幼い頃から薬草の栽培を手伝っているアンナだが、薬の材料以外を植えたことはない。完全に初めての体験だった。庭師と一緒に花壇へと向かう。


 花を植えるといっても、小さな容器である程度大きくなった花を花壇に植え替えるだけの簡単な作業だ。土の状態はすでに庭師が整えてくれている。アンナはただスコップで穴を使ってそこに植えていくだけだった。


 それから花の水やりと階段の掃き掃除が毎日の日課となった。


「アンナはよく働くなぁ」


 アンナがせっせと箒を動かしていると、父はほのぼのと見守ってくれる。婚約を解消したいだとか、家から出たいとさえ言わなければ気にしないようだった。



 親戚の領で暮らすと言ったら許してもらえるのではないか。

 そんなことを考え始めた頃、一通の手紙が届いた。エイリーフからだ。


 思えば彼から一度も手紙をもらったことはなかった。迎えにいくと使いをもらうことはあったけれど、話したいことは会った時に話せばいい。彼は会話を大事にしているらしかった。


 初めての手紙をしばらく眺める。

 空色の封蝋は彼の瞳を思い出させる。諦めようと思っていたのに……。アンナの気持ちなど知らないエイリーフが恨めしい。


 封を開き、便箋を取り出す。全部で五枚。

 罫線の横に描かれているのはどれも薬の材料となる花である。たまたまか、エイリーフがアンナを思って選んでくれたのか。どれも爽やかな香りがする花で、リラックス効果がある。


 そこには会えない寂しさが綴られていた。



『早くアンナに会いたい』

『寂しい。アンナの温もりが恋しくてたまらない』

『毎晩アンナの夢を見る』

『美味しいお菓子を見つけたんだ。それに合うお茶も』

『姫が帰ったらすぐに使いを送る。また一緒に過ごそう』



 会えない時も自分のことを考えてくれていたのか。アンナは便箋を握りながらボロボロと涙をこぼす。


 会いたい。寂しい。

 そんな思いが膨らんでいく。アンナは引き出しから便箋を取り出し、ペンを走らせる。


 今まで告げられなかった思いを文字にして、彼に届いてほしいと願いをのせる。


 今のアンナにはこの方法しかないから。

 彼と同じ枚数だけの便箋を使った。そしてその日のうちに届けてほしいと使用人に託す。


 日が暮れているというのに、笑顔で引き受けてくれた。


「きっとすぐにエイリーフ王子からお返事が来ますね」

「そうかしら」

「便箋を買い足しておきませんと」


 ふふっと笑いながら外へと出る。

 届けてきたと部屋まで報告に来た彼は、ぐっと拳を固める。


「いつでも言ってくださいね。すぐに城に向かいますので!」


 その言葉が嬉しくて、アンナの頬が緩んだ。



 けれど十日が経ってもエイリーフからの返事が届くことはなかった。


 なぜ返事をくれないのだろう。


 姫様がいるから難しいのか。それともあの言葉はアンナをキープするためのもの? 今動かれたら困る、とか。


 嫌な想像ばかりしてしまうのは、元婚約者との時にも似たような経験があるから。

 もう一度手紙を出したい。けれどそれでも返って来なかったら。


 信じていた相手から捨てられるのは辛い。

 いつ切り捨てられるのかが怖くて、毎晩涙で枕を濡らす。少しでもリラックス出来るようにと枕元に置いたポプリはあの手紙に描かれていた花で作ったものだ。なんという皮肉だろうか。毎朝温めたタオルで腫れた目を癒やし、学園へと通う。


 ずううんと暗い気を背負っているからか、たまらずガウロが声をかけてきてくれた。


「ちゃんと眠れているか?」

「……少しだけ」


 アンナの肩を軽く叩きながら、ベンチへと連れていってくれる。人目を避け、庭ではなく校舎裏にあるものだ。


 婚約者のいる令嬢が他の男性と二人きりになるなんてどんな噂がたつか分からない。彼もアンナも分かっていて、この場所を選んだ。それでも外なので完全に人がいない訳ではない。何かあった時には言い訳だって出来る。


 そもそも言い訳が必要となるようなことをするなという話ではあるが、二人にとって元婚約者との婚約破棄以上の醜聞などないのだ。


「何かあったのか?」

「手紙が来たんです」

「よくないことが書いてあった?」

「良いことばかり書いてありました。けど、返事が来ないんです。……前もそうだった」

「それは怖いよな。俺も知ってる」


 彼も同じ記憶があるようだ。アンナに同意する声が暗い。


「気を遣ってもらってばかりで」

「気にするな。俺はただ君に笑って欲しいだけだから。とりあえずこれ」


 ガウロはポケットから袋を取り出した。紐を解き、中から何かを取り出した。


 チョコチップクッキーだ。エイリーフが用意してくれたお菓子には必ず入っていた。おそらく彼の好きなお菓子なのだろう。ガウロは自分の分を取り出してからアンナに袋を差し出した。


「一緒に食べよう」

「いただきます」


 一枚もらい、彼と並んでパクリと食べる。

 しっとり系だ。エイリーフが用意してくれるものはサクサク系。けれどこちらも美味しい。思わず頬が緩んだ。


「美味しいです」

「気に入ってくれてよかった。俺のお気に入りのクッキーなんだ」

「いつも持ち歩いてるんですか?」

「ああ、学園に通うようになってからは。また食べたくなったら声をかけてくれればいつでも分ける」

「ありがとうございます」

「クッキーで君が笑えるなら安いものだ」


 彼は二枚目に手を伸ばす。ん、と差し出された袋からアンナももう一枚。


「ちゃんと決まったら、私がお茶を用意しますね」

「……その時は、クッキー以外のお菓子も持ってくる。二人でやけ食いしよう」


 彼はサクサクと食べながら遠くを見つめる。アンナも彼と同じように空を見上げた。

 晴れ渡る空のように、この悩みもすっきりと晴れればいいのに。


「っ!」

「どうかしたか」

「今、目が合いました。向こうの棟にいたみたいで。でもすぐにどこかへ行っちゃいました……」

「これで何か動きがあるといいんだが……」

「エイリーフ王子があそこを通ること、知ってたんですか?」

「いつも同じルートだからな」


 ガウロはなんてことないように笑う。彼はアンナのおかげで前に進めたと言ってくれたが、何かした覚えはない。なんだか助けられてばかりだ。


 二人して次の授業をサボってしまった。

 何をする訳でもなく、ぼおっと二人して空を眺めるのである。不思議とサボタージュをしてしまった罪悪感はなかった。


 そして終わりの鐘が鳴ってからすくりと立ち上がる。


「それじゃあ次の授業に行くか」

「はい」


 次の授業からはしっかりと受けて、いつものように図書館で迎えの馬車を待つ。今日は冒険小説を読もう。図書館奥の本棚を目指す。上の方に見たことのあるタイトルを見つけた。


「あ、これ読んだことある」


 エリックから教えてもらった小説が面白くて、何冊か父に買ってきてもらったのだ。その後、親戚の男の子が冒険小説にはまっているという話を聞き、譲ってしまったので家にはない。久しぶりに読んでみたくなった。


 つま先を伸ばしながら、手を上へと伸ばす。けれど関節一つ分くらい届かない。もう少し頑張れば届く。踏み台を持ってくるまでもない。視線を落としながらぷるぷると身体を震わせている。すると自分の影に大きな影が被さった。


「これ?」

「はい」


 返事をすれば、頑張っても届かなかった本を取ってくれる。

 親切な人だ。ありがとうございます、とお礼を告げるために視線をあげる。そして目を丸くした。


「エイリーフ様……なぜここに?」


 ずっと会いたいと思っていた人がそこにいたのだから。思わず回りを確認してしまう。けれど姫様はいないようだ。ほっと息が漏れた。


「誰を探してた?」


 エイリーフはそんなアンナの様子を勘違いしたようだ。眉間に皺を寄せながらふっと鼻で笑った。自分の知っている彼とは違って、ビクッと身体を震わせてしまう。


「あ、あの私……」

「いいや。こっち来て」


 強引に腕を引かれ、先ほど取ってもらった本が手からすり抜けてしまう。けれどエイリーフは構わずずんずんと進んでいく。


 連れて行かれたのは空き教室だった。バンッと大きな音を立ててドアを閉める彼の目は冷たい。何を考えているのか分からない。そのまま椅子に腰掛けるように指示される。


「靴下脱いで」

「え?」

「早く。時間がないから」


 訳も分からぬまま、アンナは右の靴下を脱ぐ。そして左に手を伸ばそうとすると、エイリーフがアンナの裾をめくった。驚きで声すら出ない。


 彼はそんなのお構いなしでふくらはぎに舌を這わせる。今まで手や首だったのに。


「やっ……」

「逃げないで。まだ終わってない」


 アンナの頭の中はパニック状態。

 いきなりやってきて舐め始めたことはもちろん、今日はなぜかわざと水音を立てるように舐めるのだ。


 今までは馬車の中や彼の部屋で知らない人が突然入ってくることのない、完全にプライベートな場所だった。けれど今は放課後とはいえ、まだ学園には生徒が残っている。誰かが来て、突然ドアを開けるのではないかとヒヤヒヤする。


 静かな部屋に響く水音が卑猥だからなおのこと。ますます恥ずかしくなっていく。アンナは声が漏れないように自分の口を押さえる。



 恥ずかしい。けれど彼を拒絶することは出来ない。

 終わるまで、彼が満足するまで受け入れるしかない。


 たとえ姫様と比べられていたとしても、今ここで拒絶したら彼は婚約を解消してしまうかもしれない。嫌だ。嫌われたくない。離れたくない。そう思うのに、自らの身を差し出すことしか出来ない自分がふがいない。


 足りないのは家格だけではない。

 悔しさでボロボロと涙があふれた。


「うっ……うぅ」

「ア、アンナ? 嫌だった? ごめんね」


 アンナが泣いていると気づいたエイリーフは途端に焦り始める。太ももから手と舌を離し、おろおろと手を動かし始める。


「拒絶されないからって調子に乗っていた。ごめん。もうこんなことしないから」

「違います」

「何が違うの? 僕に教えて?」


 優しく両手を包まれる。アンナはすんすんと鼻を鳴らしながら、彼に思いを打ち明けた。


「私には都合の良さしかないから。それが情けなくて」

「昼間の男に何か言われたんだな! あんなやつの言葉なんて気にしなくて良いから」

「ガウロ様を悪く言わないでください。彼はこんな私を励ましてくれたの」

「どんなに優しい言葉を吐いたところで、僕の大事なアンナを傷つけた事実は変わらない」

「嘘」


 大事だなんて、そんなの嘘に決まっている。


 エイリーフは姫様を選ぶのだ。それが国のためだから。なぜ選ばれたのか本人ですら分からない伯爵令嬢と天秤にかけるまでもない。分かっているから、そんな見え透いた嘘は言わないで欲しい。惨めでたまらなくなってしまうから。


「嘘なんかじゃない」

「私は舐められるだけの役だもの。それ以外何にもないの。姫様を選ぶに決まってる」

「僕はアンナだけを愛している。舐められるのが嫌だって言われてもこの気持ちは変わらない」

「エイリーフ様は舐めるために私と婚約したんでしょ?」

「まさか! あれはただの牽制だ。初めて会った日からずっとアンナしか見てなかった。もう二度と他の男に奪われたくなくて……」

「でもエイリーフ様は初めて会ったあの夜から」

「あの日が初めてじゃないんだ」

「え……」


 エイリーフの言葉の意味が分からず、首を傾げる。

 あの日が初めてのはず。アンナが忘れているだけなのかと記憶を必死に辿った。けれど答えを見つけることは出来ない。


 不思議そうなアンナに、エイリーフは優しく微笑んだ。


「以前、冒険小説の話をしただろう? あの本をアンナに教えたのは、エリックは僕なんだ。事情があってあの後すぐに迎えに行くことは出来なかったけれど……君の中に残っていたことが嬉しかった」

「エリックがエイリーフ、さま?」

「ああ、そうだ。十年間ずっと思い続けてきた。だからアンナが他の男を愛していたとしても逃がしてあげることは出来ない」

「ガウロ様とはそんなんじゃないです!」


 ガウロはただ捨てられ仲間を気にしてくれていただけだ。アンナも同じ状況を体験したことのある彼だからこそ頼った。恋愛感情なんてない。あるのは互いに幸せになって欲しいという気持ちだけだ。


「ではなぜ二人であの場所にいた? 僕の手紙には返事をくれなかったのに」

「返事をくれなかったのはエイリーフ様の方ではないですか! だから諦めようって」

「それはいつのこと」

「手紙をくれたその日に返しました」

「……姫か」

「え?」


 エイリーフは頭を抱えながら「ごめん。僕が悪かった」と零した。


「もう少しだけ待って欲しい。来週には姫が国に帰るから」

「でも留学はまだ残っていて……」

「僕がアンナとこれ以上離れたくないって無理言って早めてもらったんだ。この留学は姫の結婚を整えるための時間稼ぎだったから」


 エイリーフはこれ以上勘違いされたくないからと、今回のことを話してくれた。

 本当は機密事項なのだけど、と添えて。


 姫は昔からエイリーフが好きだった。だがエイリーフの叔母がかの国に嫁いでいるので、権力バランスを考えると結婚は難しい。彼女には自国の公爵令息と婚姻を結んでほしいと王様は考えていた。だが我儘を言ってなかなか進まない。そんな時にエイリーフが伯爵令嬢と婚約を結んだと聞いて騒ぎ出した。


 なのでそれを利用することにした。

 すでに結婚相手は決まっているので、結婚の準備も整えてしまうことに。そして一昨日ようやくその準備が整ったと連絡があった。


「王妃様が倒れたという名目で国の使いが来る。それで留学は終わり。姫様をこの国に留める役を勤め上げた僕は晴れてアンナと結婚が出来る」

「けっ、こん?」

「実はもう伯爵の許可ももらっているんだ。本当はアンナにも伝えたかったんだけど、言ったら僕が姫様に隠せなくなりそうだから」

「私は……」

「今はまだ返事は言わないで。姫様が帰った後で教えて欲しい。答えが良くても悪くても、受けた仕事は全うしないといけないから」


 エイリーフは「いい答えだと嬉しいけどね」と優しく微笑みながらアンナの髪を撫でる。そして髪先に一つキスを落としてから立ち上がった。


「さて、僕はそろそろあの人の元に戻るよ」

「……あの、エイリーフ様」

「なあに?」

「えっと、その……頑張ってください」

「ありがとう。アンナの応援があれば僕は何でもできるよ」


 爽やかに笑い、部屋を去っていった。……アンナが履いていた靴下を持って。残されていたのは新品の靴下だった。履いていた靴下と同じ色だが、刺繍が違う。


 変態趣味があるのもあながち嘘ではないのではないか。

 新しい靴下を履きながら変な人を好きになったものだとため息を吐く。けれど少し前よりも気持ちが軽い。


 時間をくれた彼はきっとどちらの答えも受け入れてくれるのだろう。けれどアンナの答えはもう決まっている。


「私も好きって言おう」


 好きでなければここまで悩むこともなかったのだ。図書館に戻り、落とした本を拾ってから貸し出し処理を行なってもらう。


 エリックがエイリーフだと知り、ますますこの本が読みたくなった。また二人で話せる時間が出来たらこの本の話をしよう。


 本を抱えて御者が待つ場所へと向かう。遅くなってしまったので心配していたようだが、アンナの顔を見て柔らかく笑ってくれた。訳は聞かず、ただ「良いことがあったようで、私も嬉しいです」と言ってくれた。




 週が変わってすぐ、姫様は国に帰っていった。

 国を越えたと報告が来るや否や、エイリーフはアンナを抱きしめた。


「アンナ、この前の返事を聞いてもいいかい?」

「はい。喜んで。私もエイリーフ様が好きです」

「ありがとう。ありがとう、アンナ」


 突然の告白に、事情を知らない周りは目を丸くしていた。ただエイリーフとアンナの友人、それからガウロだけは良かったと胸を撫で下ろしていた。



 エイリーフはガウロをちらっと見て彼にも小さく「君にも心配かけたな」と呟いた。

 後で聞いた話だが、二人でクッキーを食べた時すでにガウロは王家サイドの事情を知っていたようだ。


「王家の婚姻ともなればいくら隠していても大きな動きがある。商人はそれをめざとく見つけるのが仕事なんだ」


 エイリーフはアンナを捨ててなんていないと知っていても、悲しむ仲間を見捨てられなかったのだと。エイリーフに招待された王城の客間で、ガウロは困ったように笑いながら教えてくれた。


 だがそれだけではない。彼はこの情報を得るために奔走してくれていたのだ。

 エイリーフは少し焼いていたが、変な男に目をつけられなくて良かったとも付け足した。アンナ同様、エイリーフもガウロのことを信頼してくれたようだ。




 誤解が解けたアンナは陛下達にも挨拶を済ませ、姫様の国の王家からも不安にさせて済まなかったとの手紙を受け取った。


 さすがの姫様も帰ってすぐに結婚式を挙げられては拒むことも出来なかったらしく、今は公爵家の妻として生活しているようだ。


 平穏な生活に戻り、今は結婚の相談ごとをするため、朝も夜もエイリーフと共にいる。

 すでに結婚式についての話し合いは完了しており、ウェディングドレスの注文も済ませている。エイリーフたっての希望で半年後には盛大な式を挙げる予定だ。


「アンナ、どんな家に住みたい?」


 なんでも今回の功績を認め、家を建ててくれることになったらしい。姫様の結婚相手が港を有する領を治めており、今回のことで相手国との貿易で有利な契約を結べたとか。それでかなりの収入が見込めるとのこと。


 設計士に書いてもらった図を眺めながら、エイリーフはアンナの首を舐める。

 舐めるのが目的の婚約ではなかったとはいえ、彼は今でも毎日アンナを舐める。もう癖みたいなものなのだろう。


 まだ恥ずかしさはある。

 それでもこれもエイリーフからの愛情表現の一つだと思うと、アンナも強く言うことは出来ず、今日も今日とて彼を受け入れるのだった。

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