第八話 霊魂の籠る壺(4)
「オテンキイイデスネ。 ヨカッタネ。 アキハさん」
「そうだね。シモン」
シモンから小玉スイカぐらいありそうなフルーツパンチ入りのグラスを受け取る。大きな麦わら帽をかぶっていてもエジプトの日差しはそこそこきつい。籐の椅子に寝そべってドリンクに口をつけている横で。女性が二人、大きなうちわで風を送ってくれている。
ナイル河を一船借りきってクルーズ、というソンコさんの言葉にとりあえず嘘はなかった。
たゆとうナイルの水は船底を静かに叩き、川岸の風景は写真のように動きを止めつつも、乾いた奥行きでもって悠久の時間を示している。
そこそこ大きめのクルーズ船なのだが、乗客は本当に私たちだけで、文字通りつきっきりのサービスを受けている。シモンにも私にも常にニ、三人がついていてあれこれ世話を焼いてくれる。そうは言っても自分でその人たちにオーダーを出すことはしない。シモンがいろいろ気を利かせて、先回りして付き人に指示してくれるのである。
女王様、とソンコさんは言っていたが、まあ、そんな感じではある。
驚いたことに、「壺」にもちゃんと人が付いている。付き人、と言っても何をするわけではなく、傍に侍しているいるだけだが、壺を持ち歩く必要がなくなったのは有難い。壺の方も何か凛として、台座の上に鎮座している。
だが、しかし。
この船が完全貸切になった理由は、おそらく、本部が私や「壺」を気遣ってくれたからではない。
シュンコウさんは、甲板の中央で酒樽を抱きしめ、坐したまま静止している。
ときおり思い出したように木製のコップを樽に沈めてビールをくみ取り、そのまま口につけると逆さにあおって咽の中に流し込んでいる。
サービススタッフがたまに声をかけると、にへら、と薄気味悪い笑いを浮かべて、黙ってビールを飲み続ける。
こんなモノを他の一般客のいる船には乗せられないだろう。
それにしても、
人として、とか、その他もろもろ、いろんなものが終わってるな、この女。
シュンコウさんがこの有様なので、大筋はシモンとサンタに聞いた。とは言っても、サンタはいつも通りだし、シモンはシモンで小難しい話には日本語の語彙が不足しているらしく、なかなか話がわかりづらい。
機上でサンタがガイドと言っていたのは、シュンコウさんのことらしい。「あとは、ばあさんに聞いて」と言い残してそれきりサンタが出てこないので、たぶんそういうことだろう。何でシモンが来ているのかよくわからないが、通訳ということかもしれない。実際シモンは、英語以外、としか私にわからない言葉でスタッフたちや現地の人と話している。
で、まあ。
問題というのは、あの甲板の上でビール樽にへばりついている物体に、話を聞いた方がいいかどうか、ということである。
乗船はランチの前だったが、エジプトの熱い太陽が地平線に姿を消して、辺りが闇のしじまに包まれるまで、私たちは甲板の上のそれをそのままにしていた。赤道下の直射日光を一日中浴びることは、それには特に苦痛ではないらしかった。酔いで神経が麻痺しているのかもしれない。ディナーは何故かイタリアンで、パスタと小羊に舌鼓を打ったが、その間もそれは樽を抱いていた。夜半に何か大声で吠えたので、スタッフたちが空の樽を中身の入ったものに換えたらおとなしくなった。
朝、カリッと香ばしく焼けたトーストをかじりながら、甲板の上を見やると、それはまだ樽にしがみついていた。
放っておこう、心の底からそう思った。それ以外の対処の仕方をまったく思いつかない。
シュンコウさんは素面の時はあまり役に立たない。酒を飲んでいないときは、どうやって酒を飲もうかとそればかり考えているからだ。じゃあ、飲んでいるときはまともなのかというと、これはテンでお話にならない。控えめに言っても酒乱である。ありていに言ったらカタカナ四文字である。
そんなシュンコウさんにも比較的話の通じる状態があって、それは二日酔いを迎え酒で紛らわしている時だ。毒で毒を中和しているようなものだが、頭骸骨を真っ二つに割って中身を出したい、という衝動をかろうじて酒の酔いで抑え込んでいるときだけは、襲い来る苦痛と倦怠感から逃れるために、人の話でも聞いてみようか、という気分になるらしい。
まったく理解できないが、そうなのだそうだ。
当然のことながら、そんなときのシュンコウさんはすこぶる機嫌が悪い。
「だからぁ、ナイルを遡るんだよ。始源まで」
シュンコウさんは、片手のコップに半分入ったビールを煽るが、勢いがない。
「だから、始源ってどこですか、って聞いてるんです」
こちらも声を張り上げる、こんな女に乳の大きさ以外の要素で負ける云われはない。
「それがわかってたら、こんな船乗ってねぇ」
このやろう。
「なら、おりなさい」私はシュンコウさんの襟首をつかんで船縁まで引きずっていく「おりなさい、いますぐ、ほら、いま、ここでおりろぉ」
「わぁ、まて、こら、コラ、短気起すな、落ち着け、オチツケ、ってば、アキ」
オマエが落ち着け、このクソ女。
シモンが声も出せずにオロオロうろたえている。サービススタッフたちも心配そうな顔つきで遠巻きに私たちを見つめている。
シュンコウさんが土下座して謝ったので、とりあえず納めた。
「始源って言ってもたくさんあるでしょう」土下座するシュンコウさんの背中に問うた。顔が見えないぶん、むかつき度は減る「河口は一つだけど、支流は遡るほど二股になって増えていくんだから」
「だから、そのどれかだよ」顔をあげたシュンコウさんが仏頂面で言った「こっちだって知らないんだ。壺に聞くしかない」
壺に聞く?
振り向いて壺を見ると、ほのかにぽぉっと輝いた。
「そう、そういうこと」シュンコウさんが壺を指さす「目的地知ってんのはアイツだけなんだから、アイツの言う通りに進むしかない。いまのところは順調らしい」
「じゃあ、何でシュンコウさんがガイドなんですか? 目的地も知らないのに」
「ガイドじゃない、護衛だ」シュンコウさんは残りのビールを飲みほした「ソンコから聞いてなかったのか? アイツのまわりでいろいろ起きてるって」
「え? 祟りのこと」私は少し面食らった「でも、この壺はそんなに悪い子じゃないですよ。祟りとか思いすごすじゃないんですか?」
「壺から守るんじゃない、壺を守るんだ。厄介なこと起してるのは壺じゃない。壺を始末したい連中だ」
「なにそれ? じゃあ、何人か死んでるって言うのは…」
「おおかた、巻き添え食って殺されたんだろうなあ」
ソンコさん、どーして、毎回毎回、ああもわかりにくい説明するの。
それにしても…
説明終わり、とばかりに甲板に大の字にひっくり返ったシュンコウさんを見つめる。ガイドはともかく、護衛って、こんなんでシュンコウさん、何かの役にたつのかなぁ。
それ以上シュンコウさんを見ていたくなかったので、視線を壺のほうに向けた。見られたのに気づいたのか、壺が、ぽっ、と小さく輝いた。