第六話 風に乗る封神(7)
「車ではここまでです。山頂までは普通のハイキングコースですよ」
本当か? キョージュを見る目つきもついつい険しくなる。いままで、この手で何度も騙されて来たのだし、そうやすやすと信じるわけにはいかない。
「神峰山は風神山の近くではもっとも高い山のひとつです」尋ねもしないのにキョージュが説明しだす「標高はとなりの高鈴山のほうが少しだけ高いのですが、高鈴山は気象観測所や展望台なんかが建っていてやり難いんです。神峰山のほうは山頂に神社もあって、こちらのほうが網を張りやすい」
「網?」
「シュンコウさんを捕まえる網です」キョージュは、網、と繰り返した。ロードスターのトランクから荷物を取り出している「まあ、実際に網を張るわけじゃないけど、似たようなものです。かすみ網かなにかだと思ってください」
こんどはかすみ網か。シュンコウさんの扱いはスズメ並である。
荷物は当然、キョージュが担ぐ。
「頂上までは小一時間てところです。今日は天気もいいし、絶好のハイキングびよりですね」
何、暢気なこと言ってんだよ。私はオマエとハイキングなんかまっぴらごめんだよ。
「ほんとにこの山でいいんですか?」
「大丈夫です」キョージュは自信満々だ「下に飛ばされているのなら、もうショミさんか父が見つけているでしょう。見つけられないのは上に飛ばされたんです」
「上って?」
「上は上ですよ、アキハさん」
これ以上聞くとヤバそうだから聞かない。シュンコウさんがいまどうなっていようが気にしないことにする。
ハイキングコースよりはちょっとキツめだったが一時間はかからなかった。
山頂の神社は小ぶりだがなかなかのものだ。
形ばかりだが、二拝二拍手一拝で挨拶をすませると、裏手に回ってキョージュがあれこれ見立てをはじめた。
「あー、アキハさん、ちょっと、こっち」キョージュに手招きされるままに杉の古木の下に行く「この木、登ってもらえますか」
何?
「このあたりだと、この木がいちばん高いみたいですから、てっぺんとは言いませんが、なるべく高いところまで登ってください」
「いやです」
「え?」
「登りたくありません」
「下のほう枝打ちしてあるので、登りにくそうですけど、ほら、隣の木から、こう移ればですね…」
「こうも、ああも、移りませんし、登りませんから」こんなものは徹底して否だ。何が悲しゅうて、こんなへんぴな山で木登りせにゃいかんのじゃ「どうしても登らないといけないのなら、あなたが登ってください」
「わかりました。僕が登ります」
おや? ずいぶん素直だな。気味が悪いくらいだ。
「じゃあ、僕が登りますので、アキハさんはこの孔雀明王陀羅尼を…」
「は?」
「孔雀明王陀羅尼です」キョージュは一枚の紙片を取り出して言う「そのまま使うとシュンコウさんが調伏されてしまうので、一部変えてあります。僕が木に登っている間、これを唱謡しつづけてください」
「これ梵字ですが」
「そうですよ」
「読めません」
「じゃあ、僕が読むので後を追って覚えてください。では、最初から。のうもぼたや、のうもたらまや、のうもそうきゃ…」
「…いいです」なんて卑劣なヤツだ。私が登るというまであれこれ嫌がらせする気なんだ「登りますから」
「ありがとう」キョージュは、うれしそうに、荷物袋の中をごそごそかき回している「あ、ロープあるんだけど使います?」
「いりません」くそー、バカにしやがって、子供の頃は、木登りアキちゃん、て呼ばれてたんだ。舐めるな。
手近の枝に飛びついて逆あがりで枝に乗る。幹に手を伸ばし、枝から枝へ渡ると、目的の木に移った。
「おお、すごい」下でキョージュが喚声を上げている。どんなもんだ。
ここまで来れば、後は枝を伝って上に行くだけだ。
ほどなく、体重を支えられる、ぎりぎりの太さぐらいの枝までよじ登った。
「もうこれ以上は無理〜」下に向かって叫ぶ。
「十分で〜す。ありがとう」キョージュが答える。
「あとは、どうすればいいの〜」
「僕がさっきの陀羅尼を唱えるので〜」キョージュが口に両手をメガホンのようにあてて叫んでいる「それでシュンコウさんが寄ってくると思いますから〜、近くに来たら捕まえてくださ〜い」
なんだとぉ?
そんなことできるわけないだろうが。常識で考えろ、常識で。
「じゃあ、はじめますので〜」
「無理だってば〜」声の限りに叫ぶ「そんなことできるわけないでしょ〜」
「できますよ〜」キョージュも叫ぶ「アキハさんなら大丈夫で〜す」
もう降りる。こんな馬鹿共とつき合っていられない。
下の枝に移ろうと幹に体を委ねた時、一陣の風が私の横を通り過ぎた。
「あれえ、アキ」風が私に呼びかける「何でこんなところに?」
…シュンコウ、さん。
キョージュの方法は正しかったようだし、場所も正しかった。
しかし、これは。
神の峯の頂のそのまた上から見下ろす関東平野。山頂に針のように立つ古木にしがみついている私。
その私のまわりを、風にからめ取られたシュンコウさんが、まるで遊んでいるかのように回っている。