第四話 真実を映す魔鏡(8)
「こんち、おばさん」
こやつ、レイカ様に向かってなんてことを。
フン、とショミに一瞥をくれるレイカ様。裾に銀糸で蘭をあしらったアオザイにいつもの縦ロール。レイカ様は、何故か、右手にこてを左手にこて板を取って壁塗りをしておいでだ。ソンコのトコの娘、と呟き、さして興味もなさそうにまた壁に目を戻す。
「鏡、見にきた」この娘、恐いモノとかあるんだろうか「どこにある?」
「奥にあってよ。詳しい場所はカゲに聞きなさい」
「アリガト、おばさん」ショミは物怖じせず奥へと入っていく。
「あのぉ」おそるおそる問うてみた「何してらっしゃるんですか?」
「アナタ、馬鹿なの?」レイカ様の視線がいきなりキツイ「見てわからないのかしら?」
いや、わかりますけど。
レイカ様は滑らかに整えた壁面に、器用にこて絵を描いていく「馬鹿が来たのよ」
「は?」
「昨晩、ここに馬鹿が来たの」
状況が飲み込めない。
「ザラスシュトラの鏡を盗みだそうとした馬鹿がいたの」
「大丈夫だったんですか?」
「大丈夫なわけないでしょう」こんどはこちらを見もしない「アナタの目って、それただの窪みなの? 大丈夫じゃないから、いま、壁を直してるのじゃなくて?」
おっしゃるとおりです。
最後に顔の左右に鬚を描いて、眠り猫は完成した「アナタも鏡見にきたのじゃなくて?」
「あ…、あ、はい。…すいません、おじゃまします」
よく考えたら、持ち出したのはレイカ様だと思うのだが、どうも強気に出れない。もともとキョージュだってアワセさん家から黙って持ってきてるしなぁ。
「お、来た、来た。遅いぞ、お嬢ちゃん」玄関入ってすぐの廊下にカゲさんが待っていた。ショミもいる「早くしないと、置いてっちゃうぞ」
カゲさん、ご機嫌である「この支部は若い女の子とかめったに来ないからなあ」
オヤジくさい、とショミに言われて、オヤジだからしょうがないさ、と、うそぶくカゲさんである
「キミのお父さんより少し若いだけだからね」
確かこの間、この人に拐われそうになったハズだが。どうにも緊張感がない。
「あ、ここでいいや」廊下の途中でショミが立ち止まった。
鏡はもっと奥の部屋だよ、カゲさんにそう言われてもショミは首を振って動こうとしない。
「ここまでくればアタシのほうは十分だから。下手にこれ以上行ったらヤバいよ。これ以上はキョージュ来てからだね」
「え〜、キョージュ来るのかよ」カゲさんは露骨に嫌な顔をする。駄々っ子のようだ。
「キョージュ来るの?」キョージュのことは私も聞いてなかったので、ショミに問うた。
「来るよ。キョージュってそういう人だから。たぶん、ママも来る」
「そうそう、アイツ、来るんだよ。こういうときは」カゲさんが尻馬に乗る「そういうとこ嫌いなんだよなー、どうもアイツは虫が好かない」
「まあ、曲がりなりにも術師会会頭の娘、っていうことかしらね」左官道具を片付けたらしいレイカ様が後ろからやってきた「昨日来たヴァチカンの馬鹿よりはマシなようで安心したわ」
どうもこの辺のやりとりがよくわからない。ショミの耳許で、どうなってんの、と囁いた。
「これだけ近づけば、失物探しのほうは大丈夫だから」ショミははっきりとした声で答えた。内緒話はする気がないらしい。
「あと、これ以上近づくと…」ショミはまずカゲを指さす「このおじさんと、それからあのおばさん、鏡を封じ込めてる力を外しちゃうから」
ショミは私のほうを向いてにっこり笑った「アタシ、あんまりそういうの得意じゃないんだよ。アキハも下手糞なんでしょ」
アワセ邸でキョージュにやられたことを思い出した。ようするにアレをやろうとしてたのか、この二人。
「それで、鏡の様子はどうなのかしら?」レイカ様は当たり前のようにショミに尋ねた。
「ずいぶん、向こう側に逝ってるのが多いね」ショミもまた当然といった顔で答える「アワセもいるみたいだけど、外人が多いな。あとちょっと長居してるのと、その他もろもろ」
「その他もろもろは、どうでもよろしくてよ」レイカ様はそれらについては本当にどうでもよさそうな口ぶりだ「アワセと最近の外人もね。でも、その古株には興味があるわ。何者?」
「知らない」ショミは言う「十年よりは長くいるけど百年よりは短い」
「じゃあ、生きているのね」レイカ様の目が怪しく光った。
「アレを生きている、っていうかどうかは知らないよ。死んではいないけど。鏡が不安定な理由のほとんどは、たぶん、ソイツのせい」
カゲさんが、ククク、と笑う「面白くなってきたな」
「何が面白いんですか?」カゲさんに問うた。
「キョージュ絡みなのさ」カゲさんは言う「俺はキョージュが面倒に巻き込まれるのは、いつだってうれしいんだ」
「そろそろ出かけたほうが良さそうね」レイカ様がカゲさんに言った「ダーリンにお会いできないのは悲しいけれど、物が物だけに本気なんか出されたら、とてもじゃないけれど、こちらがもたないわ」
「そうだな」カゲさんも同意した「キョージュがてこずるのを見たいとは思うけど、リスクが大きすぎる。事の顛末は、あとでお嬢ちゃんに聞くさ」
二人の気配が、ふっ、と消えた。それと同時に廊下の奥から、ヒタヒタと何かが近づいてくるのが感じられた。獲物に触手を伸ばすかのように、周囲に探りを入れながら拡散するソレからは、純粋な悪意以外の何者も感じとることはできなかった。
「大丈夫だよ。アキハ」ショミが言った「ここまでは本体は来れない。こっちが近づかないかぎり」
イヤ、ショミちゃん。そうじゃないんだよ。
私は最近、誰かに、大丈夫、って言われると途端に落ち着かなくなるんだ。
前はそんなことなかったのに、最近、本当にそうなんだ。
それに…
ショミは真剣な眼差しで、廊下の奥を凝視している。
本当は、あんまり大丈夫じゃないんじゃないの? ねえ? ショミちゃん。
もちろん、声に出して問いかけたりはしなかった。
答えを聞くのが恐かったから。