知りたくなかった彼女の過去
「あ……」
普段は感情を表に出さない俺の恋人。彼女がその男性を見た時に漏らした声を、俺は聞き逃さなかった。
彼女――西原留美は基本無口だ。会話が必要な時にだけ声を出し、他愛もないことを話したりなどしない。
「尊先輩!」
留美が男性に声をかけた。彼女が自分から話しかけるなんて珍しい。
遠くから見ても分かる。男性はかなりのイケメンだ。背が高くて、包み込むような優しい雰囲気をしている。
彼氏の目の前でナンパ? いや、そんな訳ないか……。
「西原さん……」
声をかけられたにも関わらず、男性は留美と目を合わそうとはしない。
「先輩も同じキャンパスだったんですね……」
「あ、ああ……そうなんだよ。ここは学食がうまいから気に入ってる……」
ただの先輩、後輩の会話にしてはどこかぎこちない。二人とも明後日の方向に視線が向いていて、直接顔を見ていないのだ。
――――。
俺は察した。
尊先輩と留美から呼ばれた男性――彼は留美の元カレなのだと。
留美は俺のことを名前では呼ばない。いつも名字で俺のことを呼ぶ。
恋人の俺を差し置いて名前で呼ぶということは、彼女にとって尊先輩は特別な存在であるということ。
きっと彼は俺の知らない彼女の過去に、大きな関わりを持っているのだろう。
「――ッ!」
心がざわつく。
覚悟はあった。留美に過去に恋人がいたことを承知で、俺は彼女に告白した。
告白した時も、留美は俺にこう言った。
「元カレのことをひきずってるの……。上野くんのことを本気で好きになれないかもしれない……。それでもいいなら……」
俺の熱い想いに、留美は渋々交際することを受け入れた感じだった。
愚かだったのかもしれない。時間と共に彼女の中から元カレの存在は消え去ってしまうだろうと、俺は楽観視していた。
俺の知る留美であれば、きっと気持ちを切り替えて俺だけを見てくれるのだと思っていた。
彼女と俺の付き合いは幼稚園にまで遡る。留美は所謂――幼馴染というやつだ。
留美はいつも俺の傍にいた。家も近所で家族ぐるみでの付き合いもあった。
彼女のことで知らないことなどなかった。天真爛漫で、他人とのおしゃべりが大好き。彼女は今とは真逆の性格をしていた。
高校に上がる頃、俺は親の仕事の都合で引っ越しをすることになった。
俺は当時から留美に好意を抱いていた。しかし、告白する勇気が持てず、彼女とは何もないまま離れ離れになってしまった。
だから俺は留美が高校時代にどんな青春を過ごしていたのか知らない。知る術がない。
彼女がどんな想いを尊先輩に抱いていたのかも、想像するしかなかった。
「ごめん……俺用事あるから、これで……」
「あ、はい……」
尊先輩は足早に立ち去ってしまった。
本当は用事などないのだろう。元カノとバッタリ出くわして気まずいだけ。
俺が留美と再会したのも偶然。
何となく地元の大学に通えば彼女に会えるのではないかと思っていたら、実際そうなった。
だから彼女と再会した時は驚いた。これは運命だと感じた。以前と比べ、格段に綺麗になった彼女にまた強く惹かれた。
「なあ、今日なんだけど……留美の部屋に行っていいか?」
尊先輩の背中を見つめる留美に訪ねた。
「う、うん! いいよ!」
彼女は俺の言葉にハッとし、俺が部屋に行くことを了承してくれた。
留美の頭には彼のことが渦巻いていたのだろう。男を自分の部屋に招き入れる――その意味をよく認識できていないようだった。
俺は――留美にとっての尊先輩以上の存在になりたい。
留美とはまだ、キスもできていない。可能であれば今日で童貞とお別れしたい。
俺はそう決意するのだった。
★★★★★
久しぶりに入った幼馴染の部屋は整頓されていた。いかにも女性らしい可愛いクッションが置かれている。
最後に入ったのは小学生の辺りだっただろうか……。俺の記憶に残っているものもいくつかある。
目についたのは写真。俺と留美がカメラに向かってピースをしている。これは互いの両親と一緒にピクニックに行った時のものだ。
「飲み物とお菓子持ってくるから待ってて」
そういうと、留美は部屋から出ていった、
彼女の部屋で一人きり。
あまりキョロキョロするのはよろしくないのだが、どうしてもそうなってしまう。
「?」
彼女の部屋の机には何個か写真立てがある。その中で隠すように伏せられたものがあった。
やってはいけないことだと思いつつも、俺はそれに手を伸ばしてしまった。
…………。
見なければ良かったと、即座に後悔した。
写っていたのは留美と――尊先輩だった。写真の中の留美は太陽のように明るい笑顔を浮かべている。俺にはこんな笑顔は見せてくれない。
一度見始めると止まらなかった。悪いことをしている自覚はあるのに、身体が勝手に動く。
結局俺は、伏せられていた写真立ての中の写真を全部見てしまった。全ての写真に尊先輩が写っていた。
――――。
留美の笑顔が頭にこびりついて離れない。留美と尊先輩に何があったのか、それが気になって悶えそうになる。
俺は――禁忌を犯した。
彼女の机の引き出しを漁った。留美が戻ってくる前に早く確認しなければと焦りが募る。
いくつかある引き出しを開け、とうとうお目当てのものを見つけた。それは封印されているかのごとく引き出しの奥に置かれていた。
それはB5サイズのノート――恐らく留美の日記だ。
後には引けない。
俺は日記というパンドラの箱を開いた――。
◼️6月18日 (金)
今日は人生最高の日だ。
憧れの尊先輩の彼女になれた。
先輩と私が両思いだったなんてとっても嬉しい。
告白して本当に良かった。
尊先輩には、留美から告白したらしい。
幼馴染と顔を合わせることがてきなかった高校時代、俺はずっと留美のことを考えていた。
けれど彼女は、俺のことなど頭の片隅にも置いてなかったようだ。
…………胸が苦しい。心臓がバクバクする。
◼️6月19日 (土)
えへへへ……先輩とキスしちゃった……。
初めてのデートでキスって早いのかな?
ファーストキスはレモン味なんて言うけれど、よく分かんなかった。
ああ…………。
俺と彼女が付き合って3ヶ月以上経っているが、留美と手を繋ぐことしかできていない。それなのに、尊はたった1日で彼女の唇を奪うことができた。
俺のできなかったことを、尊はあっさりやってのけた。男として、尊より俺が劣っていることを認識させられる。
◼️6月24日 (木)
尊さんの手は温かい。
ぬくもりを感じる。
尊さんと一緒に歩くと、周りのものが全部輝いて見える。
私は幸せだ。
日記は流石に毎日書かれてはいないようだ。だが、綴られた文章には全て尊が登場する。
留美が惚気ているのがよく分かる。
初めての彼氏ができて、浮かれた気持ちをどこかに発散したかったのだろう。
彼女はそれを文字にした。俺がこうして留美の想いを知ることができるのはそのおかげ。
留美と尊の愛の物語、その結末を俺は知っている。だが、重要なのはその過程。
どのようにして尊は今の留美を形作ったのか。気になるのはそこだけだ。
日記を読み進める手は止まらない―――。
◼️7月24日 (土) ♥️
身体が熱い。
尊さんがまだ私の中にいるように感じる。
離れていても、尊さんと私は繋がっている。
尊さんは今まで出会ったどんな男の人よりもたくましくて、かっこいい。
これから夏休みが始まる。
尊さんとたくさん愛し合えるのだと思うと胸がいっぱいだ。
◼️8月10日 (火) ♥️
男の子が喜ぶというアレを尊さんにしてあげた。
慣れていない私を尊さんは優しく撫でてくれた。
ああいうのって、飲み込んだ方がいいのかな?
ネットで調べると、変なサイトばっかり出てきて困っちゃう。
◼️8月18日 (水) ♥️
尊さんと身体を重ねると、すごく満たされる。
終わった後にギュッと抱きしめられると、愛されているのだと実感する。
尊さんのためなら、私は何でもできそうな気がする。
所々に書かれている日付の隣のハートマーク。その日の日記の内容を見ると、そういった行為の話が出てくる。
恐らく、ハートの意味は……。
いや、考えなくても分かる。分かってしまう。
ハートが付いている日、それは――留美と尊がセックスをした日だ。
「うっ!」
突如として吐き気が襲いかかってきた。
頭がぐらぐらする。平衡感覚がなくなり、自分が今立っているのか座っているのかも認識できない。
数えるのも嫌になるほどの大量のハートマークが、鋭利な刃物のように精神を切り裂くのだ。
きっと留美は、尊の腕の中にあの写真のような笑みを浮かべていたに違いない。
これ以上は読んではいけない。これ以上は俺の心がもたない。留美も間もなく部屋に戻ってくるはずだ。
震える指でノートを閉じようとした時、それが目に止まった――。
◼️9月19日 (日) ♥️
今日は尊さんの誕生日、プレゼントをあげるだけじゃなく、私は特別なことをしてあげた。
えへへへ、赤ちゃんできちゃうかな?
もしできちゃったら、私は尊さんと結婚できるのかな?
私も尊さんも結婚できる年齢だし、学生結婚なんてロマンチックで憧れちゃう!
留美はその身に、尊の子供を宿す覚悟があったようだ。それほどまでに彼女は尊を愛していた。
何故幼馴染は愛する人と破局してしまったのか、それが疑問として残る。
俺のやっていることは、内に秘めた想いを暴こうとする最低な行為。
日記を見てしまった時点で、既に手遅れ。留美の恋人に相応しくない。
どうせ最低なら、とことん突き抜けよう――。
日記の最後のページ、ミミズが這いずったような字でそれは書かれていた。
留美と尊が別れた理由、そして留美が尊のことを好きになった理由を俺は理解した。
◼️4月1日 (金)
どうしてなの?
どうしてどうしてどうしてどうして!!
私が上野くんと、離れ離れになって悲しんでいた時に慰めてくれたのは尊さんじゃない!
自分も幼馴染にフラれた仲間だって言ってくれたじゃない!
フラレた相手に告白されたからって、私を捨てるの?
◼️4月2日 (土)
別れることが尊さんのためになるなら、私はそれを受け入れよう。
尊さんと過ごした日々が消えてなくなる訳じゃない。
私の心の中に尊さんはいる。
これからもずっと一緒、ずっと恋人。
俺は――絶対に尊には勝てない。
留美にとって尊は永遠の恋人、俺は一時的な恋人でしかない。
幼馴染が俺のことを好いてくれていたのに、有耶無耶にして逃げた俺。打ちひしがれた彼女を慰めたのは尊。
留美の心には尊が刻み込まれている。どうあがこうが、その事実からは逃れられない。俺は尊の代わりでしかないのだ。
知りたくなかった。知らなければ良かった。彼女の過去には絶望しかなかった。
もう……いいや……。
★★★★★
「ごめん、お待たせ」
日記を元にあった場所に戻してから数分、留美は部屋に戻ってきた。
彼女からどこかいい匂いがする。
「遅かったね」
「うん……実はさっきシャワー浴びてきたの……」
幼馴染は俺の意図を理解していた。俺が部屋に行きたいと言ったその意味を。
「今日ね、家族はみんないないの……だから……」
顔を赤らめる彼女はとても綺麗だ。でも、俺は留美のことを恋人として見ることができない。
彼女に俺に対しての悪意は微塵もない。何もやましいことがない。それだけに余計に辛い。浮気をされた方がよっぽどマシ。
そう――悪いのは全部俺。幼馴染の過去を受け止めきれなかった俺の器の小ささが全ての原因だ。
「留美、俺達別れよう……」
「え?」
もう何もかもがどうでもいい。涙を流す彼女を見ても俺は何も思わない。
だって俺は、留美の永遠の恋人にはなれないのだから。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
脳破壊できたでしょうか?