赤面させたい令嬢と、赤面しない令息
貴族子女が集う名門学園・シャンダルム。
授業も終わり、陽が落ち始める頃合いの事だった。
「ヴェル! 愛しているわ!」
「うん。僕も愛しているよ、クラリス」
そこにある庭園の一角で、二人の男女が顔を突き合わせていた。
緊張しながら愛を叫んだ金髪の少女は、伯爵令嬢のクラリス・ヴァレンツァ。
対してそれに動揺することなく答えた銀髪の青年は、侯爵子息のヴェルメリオ・オーランだった。
その姿は、お互いに愛を誓い合う恋人同然。
しかし言葉を返されたクラリスの表情は、気圧されたままだった。
「どうしたんだい?」
「……どうして、そんなに真っ直ぐに答えられるの?」
「これが、僕の本心だからだよ」
素朴な疑問にヴェルメリオは微笑む。
普段は無表情な彼が、彼女にしか見せない笑みだ。
それを見て、クラリスが後退る。
距離を取りながら思わず手で顔を隠したが、頬の紅潮を隠し切れていない。
動揺しない彼に対し、彼女は終始動揺しっぱなしだった。
「そんな……わ、私なんて、何回も深呼吸してようやく、だったのに……」
「相変わらず、君は照れ屋だね」
「うっ……!」
「でも、そういう所も僕は好きだよ」
「うぐぐぐッ……!?」
真っ直ぐな恋人の視線を受け、更にクラリスは顔を逸らした。
最早、恥ずかしさのあまり言葉を紡ぐことすら出来ない。
そんな姿を見て、ヴェルメリオはただ笑みを浮かべるだけ。
恋人同士というにはあまりに初々しく感じる、そんな有様。
その日の夜。
冷静さを取り戻した彼女は、屋敷の自室で叫んだ。
「何故なの!?」
「何がですか?」
「私が愛を叫んでも、ヴェルは臆面もしないの! 赤くなるのは私ばっかり! 絶対におかしいわ!」
「別におかしくはないと思いますが」
お付きのメイドが冷静に返答する。
彼女とヴェルメリオは、両家の当主同士が決めた許嫁の関係になったばかりだ。
元から幼馴染だった二人の間に、これといった抵抗はない。
寧ろ自然かつすんなりと受け入れられ、それを切っ掛けに互いを恋人として意識し始める。
しかし最近になって、クラリスにとって由々しき事態が勃発する。
彼は赤面しない。
何があろうと、絶対に赤面しないのだ。
「赤面させたいの!」
「はぁ……」
「私だけ赤くなるなんて、からかわれるばかり! 私だって、あの白銀の令息と呼ばれた彼を赤面させたいのよ!」
「また、始まりましたか……」
白銀の令息と呼ばれるヴェルメリオは、希代の美貌を持っていた。
他国から来た貴族の男性から、間違われてアプローチを受ける程だ。
そんな状況を、彼はただ無表情に過ごしている。
近頃は大分マシになってはいるのだが、それでも笑顔を見せることは稀だ。
涼し気な表情を崩さない、故に白銀。
彼女の望みは、幼馴染として恋人として、その冷たい頬を赤く染める事だったのだ。
だからこそ今日も、突然に庭園へ呼び出して愛を叫んだが、結果は惨敗。
逆に赤面させられ、おめおめと逃げ帰った始末である。
「クラリス様は、普段からヴェルメリオ様に愛を囁いておいでですから。慣れというものが、少なからずあると思います」
「それはつまり……ハッ!? ま、まさか、倦怠期!? ウッ、吐き気が!?」
「落ち着いて下さい」
口元を抑えるクラリスに、メイドはツッコミを入れる。
そもそもまだ許嫁となって半年も経っていない。
倦怠期を考える必要もない段階である。
取りあえず、と言うようにメイドは彼女に問いを投げた。
「クラリス様が赤面なされる時は、どういった状況なのですか?」
「ええと……いきなり笑顔を向けられた時とか、急な時が多くて……」
「そこです。人というのは、突発的な出来事に弱いのです」
他人が聞いたら呆れるような話ではある。
しかしメイドは仕える主のため、出来る限りのアドバイスを与える。
「不意に見せる優しさや美しさに、人は惹かれるものです。それが所謂、赤面に繋がるかもしれません。参考になされては如何でしょう」
「そ、そうだったのね! 勉強になるわ! となると今度は……よおし、決まったわよ!」
するとクラリスは何かを思い付いたようだ。
先程の吐き気は何処へやら。
不敵な笑みを浮かべ、今度こそはと得意げな態度を放ち始める。
果たして大丈夫だろうか。
自分のアドバイスではあるものの、自信満々な彼女の姿を見て、メイドは一抹の不安を覚えた。
●
「ダンスのお誘いだなんて、意外だね」
「それは……アレよ。近日、夜会でのダンスパーティーがあるでしょう? これは、それに向けた練習なの」
「そういう事か。だったら、僕も手伝うよ」
それから数日後、クラリスはヴェルメリオをダンスに誘った。
学園にある舞踏用の一室を借り受けただけのもの。
しかし、それだけで十分である。
彼女には一つの目論見があった。
ダンスとは最も、互いの距離が物理的に近くなる。
言葉を用いないコミュニケーションで、自らを表現する文化そのものだ。
彼女は国の王女が華麗にダンスを舞い、令息達を虜にしていた事を思い出す。
これこそ、普段は見せない自分を見せる機会。
メイドが言っていた、不意に見せるギャップに違いない。
「フフフ……ここで美しくも華麗な踊りを見せて、ヴェルを赤面させ……?」
と、そこまで考えてクラリスは思考を止める。
先程の会話に疑問を覚える。
思わず振り返ると、ヴェルメリオが首を傾げた。
「うん?」
「今、手伝うって言わなかったかしら?」
「言ったよ」
「ど、どうして……?」
手伝う、という意味が今の状況と噛み合わない。
まるで踊りに手を貸すような言い方である。
すると彼は当然と言いたげに、あっけらかんと答えた。
「だってクラリスってば、踊り下手でしょ」
「な!? そ、そそ、そんな訳がないでしょう!? お父様やお母様だって、私の踊りを見て天に祈りを捧げ、天才だと呟いた位よ!?」
「あぁ、あの時の……。多分それは、天災の間違いだよ……」
「!?!?」
クラリスに電撃が走る。
確かにこれまで、彼女が人前で踊りを見せたことはない。
まだ早いと両親に止められていたからだ。
更にこの一室を借り受ける時も、教師から大丈夫かと心配された。
結局はヴェルメリオが一緒にいるなら問題ないだろうという話に落ち着いたのだが。
当の彼がそれを叩き切ったため、自覚のなかった彼女はそのまま切り伏せられる。
しかし天災などと言われたままでは、令嬢としての立場がない。
彼女は誤魔化すように笑みを作る。
「ウフフ、良いでしょう……そこまで言うのなら、見せてあげるわ! このクラリス・ヴァレンツァ、渾身の舞踏をね!」
ファサッと軽く髪を払いながら、ダンスの体勢に入る。
良い度胸である。
ここで白黒、いや白赤ハッキリさせて目にもの見せてやろう。
そう意気込むと共に、ダンスを踊り始めたクラリスだったのだが。
「はい、そこ。腰が引けているよ。もっと背筋を伸ばして」
「うぐッ……」
「腕はそのまま、下げちゃダメだよ」
「うぅ……」
普段は見せない自分を見せる機会。
確かにその通りだった。
暫く時間が経った後にあったのは、ヴェルメリオから指導を受け続けるクラリスの姿だ。
既に彼女の表情は意気消沈している。
一挙手一投足、殆どを指摘されては仕方のない事だった。
それでも彼女は言う通り、一生懸命に是正を重ねる。
赤面させるという初心は忘れ、ダンスの特訓に切り替わる。
そうして更に時間を置いて、一段落を終えたヴェルメリオは、ゆっくりと腕を組んだ。
「うーん。ちょっとはマシになったかな?」
「ちょっとは……」
「後は合わせれば何とかなると思うよ。大丈夫、心配しないで」
愕然とするクラリスに対して、彼は優しい声で励ました。
ダンスの練習に付き合わされたというのに、不満そうな様子は一切ない。
寧ろ嬉しそうにしながら、彼女に手を伸ばす。
「ほら、こうして手を取って」
ペアとなるようにクラリスの手を取る。
ひんやりとした感触を彼女は抱くが、顔の熱は取れない。
寧ろ更に熱くなっていく。
「今度のダンス、クラリスも出席してほしい。僕一人じゃ、つまらないんだ」
「!」
「……もしかして、照れてるの?」
「そ、そんな訳ないでしょう? ダンスのし過ぎで、身体が火照っているのよ! うーん、やっぱり熱いわね!」
「本当?」
必死の抵抗を試みるクラリスに対して、ヴェルメリオは茶化すような視線を向ける。
そして不意に、もう片方の手で彼の頬に触れたのだ。
冷たい。
だが、それと同じくらいに熱い。
思わず彼女は引き下がった。
「確かに、温かいかな」
「な!?」
「ほら、やっぱり照れている。別に誤魔化さなくても良いのに」
「む、ぐぐぐ……!」
駄目だ、と悟った。
気を抜いていたせいで、完全にペースに呑まれている。
このままでは、また同じことの繰り返しである。
何とかしなければ。
そう思って彼女は対抗策を考えたが、何も出てこない。
ヴェルメリオを赤面させ得るものは考え付かない。
グルグルと思考が回り始め、どうすれば良いか分からなくなっていく。
その結果。
「す、好きよ!」
「うん。僕も好きだよ」
訳も分からず告白し、呆気なく返される。
後悔した所でもう遅い。
こうしてクラリスは大噴火を起こして撃沈。
ダンスの練習は終わりを告げるのだった。
「あああああああああ! 何を言っているの、私いいいいいいい!」
練習後の夜、クラリスはベッドの上でのたうち回っていた。
何故、唐突にあんな事を言ってしまったのか。
状況が状況であるし、言って良い事と悪い事がある。
本来なら謝るべきなのだろうが、当のヴェルメリオがニコニコしていたので、それすらも言えなかった。
当然だが、彼は赤面しなかった。
あるのは自分自身への恥ずかしさと情けなさだけだ。
その様子を見つつ後ろで控えていたメイドは、残念そうな顔をしながら問う。
「どうして、わざわざ不得手なダンスに誘ったのですか……。ヴェルメリオ様は舞踏の才人ですよ……?」
「赤面させる事ばかり考えていたから……。それにあそこまで残念な出来だったなんて、思わなかったのよ……」
「そう、でしたか。申し訳ありません……。当主様方もどうお伝えすべきか、決めかねておりまして……」
「そんなに酷かったの?」
「その……多少は……」
気まずそうにメイドが視線を逸らす。
答え合わせである。
お互いの間に長い沈黙が訪れ、耐えかねたようにクラリスが声を漏らした。
「ぐぐうぅ……」
「そ……それで、夜会のダンスには出席されるのですか?」
「するわ! する!」
ダンスの参加を問われ、彼女はベッドから起き上がりつつ即答した。
折角、ヴェルメリオからの指導を受けたのだ。
此処で参加しなければ、今までの苦労も恥も水の泡である。
保留にしていた夜会ではあるが、必ず臨むと断言する。
しかし、そこに至るまでは中々に大変だった。
先ずは両親の説得、そして不得手なダンスの練習。
最終的な所は、どうしても自分の力で果たさなければならなかった。
それでも彼女はどうにか参加に漕ぎ着ける。
度重なるダンスの特訓が、ものを言ったのだろう。
最後には両親の前で踊りを披露し、どうにか参加の許可を得る。
本番では手を差し伸べてきたヴェルメリオと踊りつつ、ぎこちないながらも、どうにか夜会を切り抜ける事に成功したのだった。
●
「学術主席! クラリス・ヴァレンツァ!」
所と時が変わって貴族学園。
そこでは一年を通して優秀だった生徒が表彰される式が行われていた。
中にはクラリスも出席している。
彼女は身体を動かすことについてはからっきしなのだが、反対の学問についてはトップの成績を有していた。
持ち前の積極性は、勉学に活かされていたという訳だ。
学長からバッチを受け取ると、それを見ていた他の令嬢が囁く。
「流石はヴァレンツァ家の御令嬢ですわ」
「他国の言語も堪能となれば、当主様方も、さぞ喜ばれる事でしょう」
感嘆の声が微かに聞こえる。
ヴェルメリオ程ではないが、彼女自身も模範的な令嬢として注目の的となっていた。
貴族として、領土と領民を守るための素養を身に着ける。
自身の家、ヴァレンツァ家のため果たすべき役目ではあったのだ。
「ダンスが苦手な分、これ位は出来ないとね」
誰にも聞こえない位に独りごちる。
伯爵令嬢であるからと、その地位に甘んじるつもりはない。
何もしなければ、何も与えられはしない。
自分が望むものは、自分自身の力で勝ち取るもの。
それがクラリスの持論でもあった。
この持論がなければ、ヴェルメリオと許嫁になる事もなかっただろう。
式が終わり自由時間になると、生徒たちは散会する。
教室へ戻ると、知り合いの令嬢たちが、何やら話し合っているのが見えた。
「そう言えば、聞きましたか? 例の劇場……」
「えぇ! とても感動できるお話だと聞きましたわ! 近々、私も観に行くつもりなのです!」
「あら、奇遇ね。ワタクシも同じですのよ?」
彼女達は世間の流行に敏感だ。
クラリスにとって大切な学友であるし、知らない雑学を提供してくれる。
今日も何かあったようだ。
彼女は聞き覚えのない単語が気になり、声を掛ける。
「何の話ですか?」
「あら、クラリス様! ご存じなくて? 王都で開かれている新劇場! 今やっている舞台は、かなりの評判ですの!」
舞台劇場。
確か最近になって創設された施設だ。
各地で公演を開いている劇団を呼ぶために造ったと聞いていたが、いつの間にか王都公演にまで至っていたようだ。
普段はない音楽と劇の共同。
令嬢たちが話題にするのも当然だった。
そしてクラリス自身も、劇の話を聞いて一つの案を手繰り寄せた。
「これよ!」
「何がですか?」
「今、王都で開いている劇場よ!」
その夜、再びクラリスは自室にメイドを呼び出した。
彼女に見せたのは一枚の紙。
劇場の詳細が書かれている広告だった。
「巷で噂になっている舞台ですね。何でもかなりの感動作だとか」
「そう! そして私はこの劇場に光明を見たわ!」
「と、仰いますと?」
「人は感動すると表情に現れるもの! 涙を流し、頬を濡らす……その変化こそ、きっと赤面に繋がるに違いないわ!」
「……つまり、ヴェルメリオ様をお誘いするのですね?」
「当然よ!」
「最早、趣旨が変わっている気がするのですが……」
複雑な表情をしながら、メイドは広告に目を通す。
未だ諦めないクラリスが思いついたのは単純。
劇場に彼を誘い、感動させる事だった。
内容は恋人関係にあった二人が、様々な障害に惑わされながらも結ばれるラブストーリー。
周りの令嬢たちの評価も良く、これならば彼も感動するに違いない。
メイドは目的が違うのではと指摘したが、無論そこも忘れてはいない。
彼女は胸を張って答える。
「勿論、それだけが理由じゃないわ。こういった機会は滅多にないもの。数少ない一時を一緒に過ごしたい、楽しみたいと思うのは、許嫁として当然の事でしょう?」
「……そういう自然な所を見せるだけで、十分だと思いますよ」
普通に楽しみたい。
そんなクラリスの思いを聞いて、メイドは少し安堵したようだった。
自然な振る舞い。
積極的な態度ばかりではなく、形を装わない純真さを見せるのも一つの手なのではないかと言いたいらしい。
しかしそんな考えを察する間もなく、クラリスは問題がない点だけを確認したかっただけのようだ。
否定されなかった事実を元に、グッと拳を作る。
「よし! だったら早速、鑑賞券の手配をしなくちゃ! 忙しくなってきたわね!」
「その……空回りしないよう、注意してくださいね」
「えぇ! 私に任せなさい!」
ダンスの時のような下手は打たない。
今度こそ、ヴェルメリオの赤面顔を見るのだ。
メイドの愛想笑いを受けながら、彼女は含み笑いを浮かべる。
鑑賞券の手配は容易かった。
当主である父に、許嫁のヴェルメリオとの仲を深めたいと言うだけだ。
あまり人に頼りたくはないクラリスではあったが、こればかりはどうしようもない。
己が未熟であるが故、ある程度は長いものに巻かれなければならない。
すると彼女の父は可愛い娘のためならば仕方がないと、快く準備をしてくれた。
かつては嫁になど出さないと豪語していた彼も、今ではこの通りである。
数日後、クラリスは鑑賞券を手に入れるが、当然それだけで終わりではない。
言ってしまえば、これはデートに近いのだ。
おめかしも欠かさない。
今どきのドレスを、母やメイド達と相談しつつ決めて買い付ける。
何度も何度も鏡で自分の姿を確認し、変な所はないと確信。
そうして決戦の日を前に、万全の状態で臨んだ劇場だったのだが。
「うぅ……! ずずっ……!」
涙を流していたのはクラリスの方だった。
劇が終わった後も、彼女は耐え切れずにハンカチで頬を拭う。
確かに目論見通り、その頬は赤く染まっていた。
「例え敵国同士になろうとも、お互いに諦めず……そして、最後に結ばれる……。本当に良かったわ……」
「うん、良いお話だったね……」
ヴェルメリオはというと、特に変わった様子はない。
劇には感動しているようだが、涙は流していない。
寧ろ彼女が必要以上に感情移入したせいで、逆に冷静になってしまったようだ。
人の列から離れつつ彼女を誘導し、からかうように笑う。
「でもまさか、そんなに泣くなんて思わなかったよ」
「ち、違うわ。これは目から出た汗よ……」
「汗だとしたら流し過ぎじゃ……? 兎に角、そのままじゃ折角の顔が台無しだ」
どうにか否定するクラリスだったが、誤魔化しがきく範疇を越えている。
涙を拭くようにと、ヴェルメリオからハンカチを手渡される。
既に彼女の持っていたそれはグショグショだった。
これでは拭けるものも拭き切れない。
仕方なくクラリスは、彼のハンカチを受け取った。
どうにも情けない、と彼女は消沈する。
感情的な自覚はあったが、まさかここまで泣くとは思っていなかったのだ。
せめて替えのハンカチを用意すべきだったと後悔する。
「うぅ……こんな筈じゃなかったのに……」
「どんな筈だったの?」
「それは、ヴェルのせき……」
「?」
「い、いえ、何でもないわ……!」
危うく話しそうになり、クラリスは寸前で取り繕う。
今までの魂胆がバレてしまえば、全てお釈迦になる。
決して明かす訳にはいかない。
取りあえず、このハンカチは後から自分で洗って返さなくては。
そう思い、涙を拭いたハンカチをしまうしかなかった。
するとヴェルメリオはその姿を見て、何かを思い出したようだ。
考えるように宙を見上げつつ、涙の収まった彼女に語り掛ける。
「クラリスって昔から泣き虫だったよね。小さい頃なんて、暗い所が怖いからって大泣きした事があっただろう?」
「む、昔の話でしょう? それに今は、その程度では泣かないもの」
唐突な話だ。
確かにクラリスは、幼い頃は夜が大の苦手で、付き添いなしに屋敷の通路を歩くことすら嫌がっていた。
自室に向かうためだけに、ヴェルメリオに付いてもらった事すらある。
無論、今ではそんな醜態は晒さない。
しっかりと、自分の足で夜の回廊も歩ける。
しかし劇場で泣いた手前、説得力に欠けるのは事実だ。
もしかすると、彼の中では自分はまだ子供なのかもしれない。
全く以て、格好がつかない。
「全く、私を子ども扱いするなんて」
「ごめん。ただちょっと、昔を思い出してね。あの頃から、お互いあまり変わってないなって思ったのさ」
ヴェルメリオはかつての頃を懐かしむ。
そうして変わらない関係になっている事に、感慨深いものを抱いているようだ。
しかし彼女はそれを聞いて、少しだけ首を傾げる。
「あら、そうかしら」
「え?」
「ヴェルは結構変わっているわよ。気付いていないのかもしれないけど」
「……そうなのか?」
「えぇ。だって、よく笑うようになったじゃない。子供の頃なんて、まるで氷のようだったわよ」
昔のヴェルメリオは本当に笑わなかった。
常に無表情、まさしく氷の如くの容姿だった。
故に貴方は彫刻なのか、笑う顔が見たいと、とんでもなく失礼なことを言った記憶もある。
あの時のメイドの慌てようは凄まじかったが、今思うと懐かしい思い出だ。
今ではこうして優しい笑みを見せてくれる。
表情だけではなく、余所余所しかった態度も、いつしか人を気遣うように変わっていった。
そんな変化が、確かな心の動きが、彼女が好意を抱く切っ掛けになったのだ。
「やっぱり笑顔が一番だって思うのよね。ふふふっ」
笑顔を見せるには、先ずは自分の笑顔から。
クラリスは恥ずかしそうに笑う。
涙を流した後の笑みではあったが、それを見てヴェルメリオはハッとした。
そして少しだけ顔を俯かせる。
「ヴェル?」
「いや、何でもないよ。ちょっと驚いただけだ。でも、そうだね……昔とは違うのかもしれない。僕も、それに君も」
はしたなかったかと危惧したが、彼はゆっくりと顔を上げて微笑む。
それは彼女に見せた初めての笑顔、初恋の笑顔と何も変わらない。
何だか嬉しく感じた。
劇場を見た後の余韻が合わさり、二人の間に穏やか雰囲気が流れる。
もう少しだけ、この時間を楽しみたい。
そうクラリスが思っていると、彼が不意に考え込む。
「それじゃ、どうしようか。まだ少し時間あるけど、場所を移そうか」
少しだけ出端を挫かれる。
衆目のある場所であるし、気持ちが分からない訳でもない。
仕方がない。
終わりにするつもりもなく、彼女は前もって考えていた案を出す。
「確かに、このままお開きじゃ勿体ないわね。うーん、折角だし、専属の喫茶店にでも行きましょうか? 良い茶葉が入ったらしいのよ?」
「そうなんだ? ちなみに、どんな茶葉なんだい?」
「それは行ってからのお楽しみ。聞くよりも香りを楽しんで、味わってからの方が良いと思うの」
「はは、確かにそうだ。それじゃあ、行ってみようか。でも、その前に赤い顔は治しておいた方が良いかもね」
「う……そ、そうかもしれないわね……」
「涙はもう大丈夫?」
「大丈夫よ。あ、後でこのハンカチは洗って返すから」
「別に、そこまでしなくても良いのに……」
泣かされたなどと、周りに勘違いされては困る。
手鏡で赤くなった目元を確認する。
しかしこれ位ならば、時間が経てば元に戻るだろう。
ずっと泣き続けていた子供の頃とは違うのだ。
問題ないと確かめ合った彼女達は、馬車に乗って喫茶店へと向かう。
それから茶を楽しみつつ、思い出話に花を咲かせた。
そうして刻限が近づきお互いに別れ、再び夜が訪れた時の事。
クラリスは自室の机に向かいつつ、頭を抱えていた。
「うごごごごご……!」
「こ、今度はどうしました?」
「私は……私は、情けない所を見せてばっかり……」
彼女は後悔していた。
何よりも自分が結構な涙を流してしまった事。
そしてヴェルメリオに迷惑を掛けてしまった事を悔やんでいた。
未だお互いに許嫁という関係。
これから先も同じような失態が続くと思われてしまえば、どうなるか想像に難くない。
「いくら許嫁の関係でも、いつか愛想を尽かされるんじゃないかって思ってきたわ……」
喫茶店でどうにか挽回するつもりだったが、あまり効果はなかった。
彼自身は随分楽しそうではあったものの、何より自分の気が晴れない。
空回りするなと忠告を受けていたのに、この有様である。
これでは先が思いやられる。
クラリスは情けなさのあまり、溜め息すら溢したくなる。
すると聞いていたメイドは、静かに反論する。
「……果たして、そうでしょうか」
「え?」
「全てに自信を持てとは申しませんが、逆に自信を全て無くすというのも良くない事です。動機が何であれ、ヴェルメリオ様を楽しませようとした結果であるなら、自分を責める必要はありません。それとも、それ以上の失礼を働いてしまったのですか?」
「いえ、そんな事はないけれど……」
「でしたら、きっとあの方も分かってくれる筈です。お二人は許嫁である以前に、幼馴染なのですから」
メイドは幼い頃よりクラリスに仕えている。
二人の過去も、当然知っているからこその発言だった。
許嫁であり幼馴染。
そこで彼女はヴェルメリオと語った昔話を思い出した。
変わった部分も、変わらない部分もあるだろう。
それでも凝り固まった貴族としてではなく、取り留めもない話ばかりを語れるのは、彼以外にいなかった。
「……貴方の言う通りね。私が自信を無くしてばかりじゃ、ヴェルも不安に思ってしまう。それに彼は、確かに笑っていたわ」
どんなことをしても、彼は楽しそうにしてくれる。
ダンスが下手でも、失敗を重ねても、失望したりせずに変わらずそこに居てくれる。
だからこそ、そんな自分に出来るのは自信を失わない事。
今までの自分を否定しない事だった。
クラリスは座り込んでいた椅子から立ち上がる。
「うん! だったら今度は、下手に涙を見せないよう練習を重ねなくちゃ! 貴方も手伝って頂戴!」
「はい。私で良ければ、構いませんよ」
「その意気や良し、ね! では先ず、厨房に向かいましょう!」
「えっ」
「そして、玉ねぎを持ってくるのよ!」
「いえ……そういった練習は、必要ないと思います……」
そうきたか、と言わんばかりにメイドが止めに入る。
そんな部屋の隅には、既に洗われたヴェルメリオのハンカチが、大事そうに干されている。
まだ、彼を赤面させるには時間がかかりそうだった。
●
「ふー」
同じ日の夜。
ヴェルメリオは自室で学術書を読みつつ、一旦区切るように息を吐いた。
思い出すのは今日の出来事。
クラリスと一緒に劇場を見に行った時の事だ。
確かに劇の内容は感動できた。
臨場感や音楽と掛け合わせた劇は、あれ程に人の心を打つのかと納得した程だ。
しかし気になった所は別にある。
劇が終わった後のクラリスの反応。
劇に感激しながらも、彼自身へ向けてきた屈託のない笑顔が、胸を騒がせていた。
「あの時は失敗したな……」
あの瞬間、ヴェルメリオは思わず顔を逸らしてしまった。
クラリスの純真な笑顔が、あまりに眩しすぎたのだ。
しかしあの態度では、まるで自分が彼女を嫌っているかのように思われてしまう。
一応は取り繕ったが、当の彼女がどう思っているのかまでは分からなかった。
喫茶店で話をしていた時は、存外楽しそうにしていたので、多分大丈夫な筈なのだが。
そう思いつつ、ヴェルメリオの思考はグルグルと回っていく。
幼い頃は、こんな事などなかった。
期待されて、持て囃されて、自分を装う事ばかり上手くなってしまった。
希代の美貌であるとか、白銀の令息であるとか、そんな話も聞き飽きた。
色目など、使われても嬉しくはない。
所詮、それは外側の話。
内面を覆っているだけの包装に過ぎない。
そんな中でクラリスは、その装いを破って来た。
笑顔になるには先ずは自分からと言いたげに、いつでも楽しそうに振舞った。
無論、失敗はある。
どうしてそうなる、というようなヘマも見てきた。
ただ、そこには純粋に楽しませようとしている彼女の思いがあった。
侯爵令息という立場以外、自分に返せるものなど、何もないというのに。
だからこそ、ヴェルメリオは許嫁の関係を受け入れたのだ。
「最近の僕は、やっぱり変わってきている。でもこれも、彼女のお蔭なんだな」
鏡は必要以上に見たくない。
自分の容姿が好きではないからだ。
しかし、自分はちゃんと笑えているのか。
ぎこちなくはないか。
最近では、そう思うようになってきてしまった。
それも全て、初めて笑顔らしきものを見せた時、クラリスの可愛らしい表情を見てしまったからだろう。
容姿を嫌う自分が、容姿を見て絆されるなんて愚かしい。
最初はそう思っていた。
だがそれでも、クラリスの恥ずかしがる表情を見たい。
一生懸命な所を見て、応援して、少しだけからかいたい。
そんな思いが、冷めきっていた筈の彼の心に芽生えていたのだ。
「次はどうやって、クラリスを照れさせようかな」
それは決して、悪い事ではない筈だ。
そう言って、ヴェルメリオは微笑む。
彼の頬は自分でも気付かないまま、仄かに赤みを帯びている。
ヴェルメリオがその表情をクラリスに見せるのは、まだまだ先の話になりそうだった。