ニート壱、玄関に立つ。
十二月二七日午前五時頃…。
日曜日の朝早く、東京都のとある一軒家の静寂の中にガチャリと扉の開く音が響き渡った。
扉を開けた男はのそりのそりと億劫そうな動きで部屋から出ると、そのまま階段の手摺を伝い階下へと足を運ぶ。
「……食料の供給が滞ってるであります……これは由々しき事態でありますな……」
そう呟きながら向かったのは台所、そこにある四枚扉の家庭用冷蔵庫。
男は辺りを見回しながら冷蔵庫の前まで来ると、取っ手に手をかけ静かに扉を開け、ぶつぶつ言いながら冷蔵庫の中身を物色し始めた。
「……うぅむ……流石に二日も何も食べてないと辛いであります…………って、ぶふぉっ!な、何も入ってないでありますぞ………おうふっ…」
と、男は狼狽えるようなオーバーなリアクションと共に驚愕の表情を浮かべる。
男が見詰める先、開け放たれた冷蔵庫の中は見事に何も入っていなかった。
ば、馬鹿な……!と呟きながら冷蔵庫の残りの扉、端や台所にある戸棚や引き出しなど片っ端から開けていくも、その全てに食べられそうな食材は殆ど入ってはいなかった。
「くそっ!軍法会議ものだ!」
男は怒りを露にしながら台所を飛び出し、まだ朝早いにも関わらずどたばたと目的の部屋まで進んでいく。
着いたのは両親の寝室、目的の人物がまだ寝ているだろう部屋まで着くと男は声を荒げて駆け込んだ。
「母上!職務怠慢ですぞっ!」
目を剥いて鼻息を荒げながら部屋を見渡す男、しかし、未だ寝ていると思われた母親の姿はベッドの上はおろかどこにもなかった。
「あるぇ……母上どころか父上もいないであります…………むむむ、これは何事」
そう呟きながら寝室を出て、洗面所、トイレ、リビングに妹の部屋、家中家族がいそうな場所を片っ端から探すも、その何処にも家族の姿は見当たらなかった。
「日曜日?の朝から両親どころか妹すらいないとはどういう事であります……?皆の靴もない、車もない……これは、もしや………………家族旅行?小生を置いて家族旅行??え?まじで?仲間はずれ?置いてけぼりでありますか??一言もなしに、書き置きもなしに……?マジワロス!…………いやいや、全く笑えないであります!食べ物もない、金もない、なのに家族はいつ帰ってくるかも判らない…………。マジワロス!……いやいやいや、マジで笑えないであります…………」
顎を指で挟み考えるポーズをとり、ぶつぶつ独り言を呟きながら表情をころころ変え廊下を右往左往する。
暫く不審者のように落ち着きなく行ったり来たりしてた彼だが、突如ぐぎゅるるると鳴り響く腹の音に、ぴたりとその動きを止めた。
「くっ……二日も何も食べてないから既に限界であります……」
一度鳴り出したら止まらない腹の虫。
本当に腹が減って辛いらしく、男の顔も心なしかげっそりしてるように見えなくもない。
腹に手を当て、真剣に悩んだ表情を見せる。
だがやはり空腹には勝てなかったのだろう、俯いてた顔を徐に上げると、やたら演技がかった口調、意を決した真剣な瞳、本人が思うキリッとした表情で、
「……行くしか、ないのか………………外の、世界に…………」
玄関……の更に先……どこか物凄い遠くを見詰めるように、静かに、そして小さく、そう呟くのであった。
佐藤 博三七歳独身。
彼女いない歴=年齢
身長一六五㎝
体重百㎏
欲しいものは親のクレジットカードで通信販売で買い、一日三食のご飯も母親が部屋まで届けてくれる。
トイレと小腹が空いたとき以外は部屋からすら出ない。
ましてや家から出たのなんて記憶にすらない。
仕事なんてしていないのだから。
この男…………生粋のニート。
ニート歴二十年の超ベテラン。
そんな男が、今、洗面台の前に立っていた。
彼の正面の鏡にはオタク臭漂うおっさんの顔が映る。
まごう事なき久方振りに見る自分の顔であった。
生まれてこの方整えられたことがない芋虫のような形をした眉毛、暫く剃った覚えのないぼうぼうに伸びた髭、脂ぎっておりあちこち寝癖の付いた長めの髪、お世辞にも整ってるとは言えない顔に、全く運動していないために散々甘やかされた体。
自分の容姿に思わず深い溜め息を吐く佐藤。
だがそんなことは今更なのだ、散々現実逃避をしてきた。
しかし外に出て恥をかかないためにも最低限の身嗜みを整える必要があった。
佐藤はまず生い茂った髭を剃る事にした。
丁度置いてあった父の髭反りを使い、一気に髭達を剃り落としていく。
四苦八苦しながらも難とか髭を全て剃り終わるが、佐藤はちらりと父の髭剃りに視線を落とした。
「なんかウロボロスウイルスに感染してるみたいでありますな………………」
其処には長く太く硬い佐藤の髭が大漁に挟まり絡み付いて、水で流しても全く綺麗にならなかった父の髭剃りの成れの果て……。
佐藤はそれから視線を逸らすと、尊い犠牲であった……と父の髭剃りをそっとゴミ箱の底の方に隠した。
次は髪である、風呂に殆ど入らないから全くと言っていいぐらい洗っていない髪。
油でテカテカに輝く髪、そして近くで見れば白いのが…………最悪の状態である。
「洗ってる時間はないでありますな……大丈夫大丈夫、こんなところ誰も見てないであります」
と佐藤はしょうがないしょうがないと呟きながら、水で適当に濡らしてタオルで拭いていく。
大分ましになった、と、呟いているが一般的にはかなりアウトな部類のテカり具合に見える。
だが、佐藤はそれで満足らしく少し得意気だ。
そしてぼうぼうの眉毛に視線を移す。
寝癖がついてたり、眉間の所が少し繋がってたりと色々思うところがあるらしく、指先で触っている佐藤。
「これぐらいなら…………いけるでありますな」
だがやっぱり剃ったり抜いたりして整えるのが面倒だったのか、指に水をつけてちょいちょいと撫で付けただけで満足そうな表情を浮かべた。
もう一度鏡で顔全体を確認して、かなりのドヤ顔を決めてウンウン頷いている。
どうやら彼の中での身嗜みにしては完璧みたいである。
そして次に服装に取り掛かった。
自室に戻った佐藤は部屋の隅にある山を見た。
母が洗濯し畳んで持ってきてくれた服を佐藤が部屋の隅にそのまま投げ置いた山である。
着たいものを探す時に、これじゃないこれでもないとひっくり返していたせいで、ぐしゃぐしゃになり混沌と化して放置されていた洗濯物の成れの果てである。
洗濯物の山を見て少しゲンナリした表情を見せる佐藤だが、因果応報でありますな……と元気なく洩らすと、渋々山をひっくり返し始めた。
最初にお気に入りのペイズリー柄の赤いバンダナを見つけ出し、おでこを隠すように巻く。
「髪型を気にすることもなくお洒落を演出、そして汗をかいても顔に垂れることはないと言う一石二鳥であります、完璧」
完璧らしい。
油ぎった髪の露出が抑えられ、そこが目立たなくなったことは確かにいい判断なのかもしれない。
次に洗濯物の山から取り出したのは、よれよれの緑のギンガムチェックのシャツ、佐藤が高校生時代から愛用しているものであり、若干サイズが合わずにパッツンパッツンである。
「少々きついでありますが、まぁ問題なし」
問題ないらしい。
今にも弾け飛びそうなお腹のボタンが少し心配である。
それから学生の頃から愛用している薄いベージュのチノパンを履き、部屋の隅に箱のまま置いてあった母が買ってきたと言う新品の黒いハイテクシューズで足元を固める。
最後に背に黒いリュックサックを背負い、携帯電話をポケットに、左手には部屋中探して手に入れた千円札を握り締め、黒渕のメガネを右手の指で挟んでくいくいとっと調整。
部屋の隅に埃を被って立て掛けてある姿見で最終確認をし、満足げにそして誇らしげに大きく頷いた。
完全武装した佐藤がやたらドヤ顔で二階の階段からゆっくりと降りてくる。
既にハイテクシューズを履いているためそのまま玄関に降り立ち、玄関の扉に手を掛けて一度深呼吸。
「……ヒロシ、行きまーす!」
そして溢れんばかりの不安を勢いで押し切り、佐藤博は外の世界への一歩を今踏み出した。