◎その6 そばがき
◎その6
信州は山の中にあり、海に接していない。そのために海の恵みを簡単に享受することはできない。
魚もせいぜい川魚である。海辺であれば無尽蔵に使える塩でさえも貴重品扱いなのだ。正之は焼いた味噌でさえもうまいといってくれる。
日頃の粗食に対して注文をつけることはない。それでも、静はなんとか改善してやりたかった。静は正之に伴われて高遠城下を見て回っているうちにそば屋が何軒かあることに気が付いた。
「高遠ではそばを日常的に食するのだろうか。」侍女たちに聞くと、
「食しはしますが、あまり好みではありませぬ。」
侍女たちが言うには、そばというのは、そばの実を臼で挽いて細かくしたものに水を加えながらよく練る。練りながら団子状にちぎってお湯でゆでて食べるものとのことである。
醤油などで味をつけることが多いが、ねちゃねちゃとして歯ごたえが悪く、女性にはあまり評判がよくないらしい。
「静、このそばという食べ物、もうちょっとなんとかしたいものじゃな。」
「私も気になっておりました。ちょっと工夫してみましょう。」
静はそば粉を入手すると、正之と共に自分の局に入った。局には、大きな鉢と板、のし棒が準備されていた。
「正之様、そば粉をその鉢に入れて、こねてみてくだされ。」
「うむ、わかった。」正之は静にうながされて、こね鉢のそば粉に水を加えるとこねはじめた。
「こんなものでどうか。」
「よろしいと思います。では、こねたそば粉をのし板において麺棒で伸ばしてくだされ。」
静に言われたとおりに、そばのかたまりを麺棒で伸ばす。
「おお、正之様はお上手ですこと。」
静は延ばしたそばを折りたたむように重ねると、包丁をを当てて、切り始めた。
「上手なものよの。」
「おほめ頂き、ありがとうございます。それではゆでてみましょう。これへ。」
静の呼びかけで庭に面した障子が開け放たれた。庭では大きな鍋で湯が沸かされている。静は、切ったばかりのそばを鍋にそっと入れた。
「百数えてみましょうか。」
正之と静は声に出して、一から百まで数える。
「さあ、どうでしょうか。」
正之は鍋の中に箸を入れてそばをすくおうとしたが、そばはお湯に溶けてしまって跡形もない。
「静、失敗じゃ。」
「あれまあ、そばが溶けてしまいました。」
正之は、うまくいかないことを成功させることに意欲を持てる性質であった。溶けないそばの完成を目指して、水の量を変えるなど何度もそば打ちに挑戦した。しかし、溶けてしまう。やがて、そば粉に他のものを加えることを思いついた。それは小麦粉である。
「静、これでどうだろうか。」
正之が手にしている平たい器には、細く切られたそばが山盛りになっていた。
「正之様、とうとうやりましたね。」
「静、味見をいたせ。」