◎その4 静といいます
◎その4
静は細かなことを佐々木に聞くことなく、乳母役を引き受けた。古府中と江戸をさらに何度か打ち合わせの使者が往復し、やがて、幸松が江戸を出立したとの連絡がもたらされた。
「幸松といいます、以後、よろしくお願い致しします。」
「静といいます。幸松様の乳母を仰せつかっております。」
「これからは静と呼んでよいだろうか。」
「もちろんでございますとも。」
幸松は古府中に来た最初の目通りで静になついてくれた。古府中で三日ほど休憩し、高遠までの旅の準備を整えた。古府中から高遠までは静と一緒の旅となった。
幸松と静には籠が用意されていたが、幸松が大人しく籠に揺られるわけもなく、街道を行きつ戻りつ、行列を乱す。静は幸松に合わせて女籠を降りて、行動を共にした。
「静、あれはなんじゃ。」
「あれは、川でございます。」
「でも、石がごろごろしておるではないか。」
「山の中の川は、平地と違って、石が多いのでございます。」
「それはなんでじゃ。」
「雨が山を削って、石を運び出し、川に流れ込むからでございますよ。」
「でも、江戸の川には石がないではないか。」
「石が川を流れる間にあちこちぶつかって角が取れて丸くなるのでございますよ。」
「へえ、そうなのか、初めて知ったぞ。」
幸松は思いついたこと、疑問に感じたことを静にすぐに聞く。
静もまた尋ねられることを楽しみにしており、即座に的確な答えを返す。二人の問答が始まると行列の共の者も歩みを止めて聞き入ることが多くなった。
「こんな山の中に海があるのはどうしてじゃ。」
「これは海ではありませぬ。諏訪湖という湖なのです。」
「海と湖は何がちがうのじゃ。」
「海は塩が入っているので、しょっぱいですが、湖は塩が入っていないので、飲むことができます。」
「じゃあ、住んで居る魚も種類が違うのか。」
「幸松様、その通りでございます。」
「そうそう、ここから十里ほど南下ったところに鹿塩という場所があります。そこの井戸には塩水が湧くそうでございます。山の中なのに不思議でございますね。」
「ほほー、まだまだ知らないことがいっぱいあるのだな。」
幸松一行は諏訪湖のほとりで一泊すると、南に進路をぐっと変えた。ここから杖突峠を一気に越えて高遠領内に至ったのである。
「幸松様、江戸より五十里、ようやく高遠に着きましてございます。」
「うん、静もご苦労であった。」