◎その10 命名 高遠コヒガンザクラ
◎その10
自分の領地に戻った名主は領民を集めて薬を塗布する趣旨と方法をを説明した。その方法は、
一 小刀で小さく決められた御印をつける、
二 その御印に筆を使って薬液を塗布する
三 御印はもっとも薬が効きやすい形である、
四 塗布する木は受け持ち制とする、
五 その木は自分の子供だと思って塗布後も定期的に見回って声をかけることとする
六 薬液はお猪口の底に少しだけ注いで使うこと。
である。
三月の終わりのある日午前五時、小彼岸と呼ばれるこの日、一番太鼓が高遠領内に鳴り響いた。その合図により全領民が受け持ちの木についた。
二番太鼓の合図で何度も練習した御印を幹に付けた。
三番太鼓で薬を筆で御印に塗布した。
薬を塗布すると御印がほんのり桃色に染まった。登り始めたばかりの太陽の輝きに照らされて、多数の高遠桜の幹に桃色の御印が浮かび上がる様子はとても幻想的でロマンチックであり、高遠の女性たちを魅了したことであろう。
全ての桜の木に塗布が終わる頃太鼓が連打された。その勇壮な響きは高遠桜が発するお礼の言葉のようであったという。余った薬は自宅に元気がない植木があれば塗布するようにと持たされた。
四月上旬、桜の花の季節がやってきた。領民の期待を集める中、開花が始まる。薬の効果が現れたのか、今年はほとんどの木に花芽がついている。その花芽の開花が始まったのである。静かにひそやかに、けれど確実に花が開いていく。
やがて、城の周囲が満開の桜に囲まれた。あたり一面が桃色に包まれた様子はまさに桃源郷であった。本来の薄桃色の花びらにまじって濃い桃色の花が咲き誇っている。それは奇跡の調和であった。
「静、本当によくやってくれた。そちは、この高遠藩の大恩人じゃ。」
満開の桜を眺めながら正之は静に心から礼を述べた。
「正之様、およしくださいな。静は静のできることをしただけです。」
「高遠小彼岸桜・・・」
正之は己の口からこぼれた言葉をもう一度繰り返し声にした。
「高遠コヒガンザクラ」
「高遠コヒガンザクラ、この桜の新しい名前ですね、素敵でございます。」
静が繰り返し言葉にする。
「小彼岸の頃に静が花をつけるまじないをしてくれたからな。いい名前だろう。」
「正之様、高遠藩はこの高遠コヒガンザクラと共に未来永劫栄えまする。」
「静がいなかったら、高遠はあのまま寂れてしまっただろう。本当にありがとう。何か、礼をしたいのだが、欲しいものはあるか。」