虜囚の夢
(1)
日没の少しあと、街灯が目覚めの瞬きを二三度して灯る頃、メインストリートを外れた横道では、瀟洒な木製の扉に掛けられた木片がCloseからOpenにひっくり返される。中は安住の一室。柔らかい夕陽色の照明が頭上で輝き、ニスの厚く塗られた滑沢のカウンターが、光を随所に散らす。店内には悩まし気なジャズミュージック。それが凪の潮騒でも聞いてるようで、ささくれだった興奮の神経をなだめてくれる。
ここは中田がよく行くバー。前には酒杯、さらに奥では、三十代後半らしき女性店主が、カウンター内に立っている。
「それでですね」と中田は言った。「少し変わった子なんです。人が星を見上げるのはなぜだと思いますかとか聞いてくるんです。綺麗な子なんですが」
「へえ。それでなんて答えたんです?」
「人は彼方にあるものに憧れを見る。つまり人ってのは、星を媒介に己の夢想を見てるんじゃないかって」
「そう答えたんですか?」
「お恥ずかしながら」
「ステキじゃないですか。夢を見るために星を見る。いいですね、覚えておきます」
「駄目ですよ、単なるでまかせなんですから。それに十七歳の女の子にだったら、こういうのも効くかと思って」
「あー」店主はいたずらっぽく笑った。「イケナイ大人だあ。ダメですよ、誘惑しちゃあ。まだ年端もいかない子供なんですから」
「分かってますよ、分かってます」
そう、中田は分かっている。自分が青春を逸した中年の分際だということも、講師の職権で余所の令嬢をかどわかしてはいけないのも。ただ三十六歳の少壮たる男子が甘ったるい巧言を吐いた照れ、それから生徒――斎藤流美――が、最近心を開き始めてきてくれた嬉しさで、つい口走ってしまっただけなのだ。
中田が家庭教師のアルバイトに就いたのが約二ヶ月前。ブラック企業の概念のなかった二〇〇〇年代前半、当時ヒルズ族に代表される情報処理の興隆期に酷寒の就職戦線でどうにか暖を取れたのが中小のITハウス。そこでプロピアニストみたいな狂気の打鍵を繰り返し、その役務から解かれたのが二十七歳のとき。でも対価に精神の健全性を全て持っていかれた。続く抜け殻のような療養生活と再起の決意、そして再度の激務に鬱屈症の再発。快復後にはもう三十五歳で、再挙は難航し、貧窮に追われ、週四の派遣業の傍ら、過去に経験のある家庭教師のアルバイトを週に一度、土曜の夕方請け負っている。
個人契約のサイトに登録し、面談の依頼があったのが二か月と八日前。赤か青かと迷った挙句、結局黄系統のネクタイを締めてルノアールに向かった中田は、刻限の六分前に現れた親子――その十分前に中田は到着している――を見て奇異に思った。登場したのは短髪に日焼け、多少の恰幅の良さ、上等の衣服を着た四十代の男と、初老の低廉そうな服飾の女性、育ちの良さの滲む十代前後半の姉妹二人――幼い方は弾むように、大きい方は沈着に歩いている。でもおかしい、これが母子では年差がありすぎる。
(これは……、複雑な家庭事情をお持ちかな?)
でもそんな詮索など次の瞬間には吹き飛んでしまっていた。流美ーー長女の方ーーの様子に、奇妙な点を発見したのである。流美は美しい娘だった。髪はショートで、切れ長の双眸は優しく垂れ下がり、肌はきめ細かく、細胞の継ぎ目などないと思えるほど。でもその明眸に宿る思念は、空と言おうか漠と言おうか、完全に夢遊病者のそれであって、焦点のない感触。仮に彼女が世界初の人造人間だと言われても信じてしまいそうーー流美は一体、何を考えているのだろう?
(この容姿ならさぞモテるだろうに。これが噂に聞く残念美人というやつか)
中田が立ち上がって礼を示し、ソファーに着座を促すと、一家は揃って腰を下ろした。商談が始まった。
「――それでですね」斎藤氏が言った。「中田さんには流美のプログラミングと絢乃の英語を見て頂きたいんです。いや本当なら自分ですべきなのでしょうが、出張出張で出突っ張りなもので、それに営業畑ですし、プログラムなんてチンプンカンプン。家内も新薬やら何やらの勉強で手一杯でして、これがなかなか。いやお恥ずかしい! ただ夫婦揃って家を留守にすることが多い分、子供たちには最良の学習環境を整えてやりたくて、ですね、ハッハッハッ。特に流美が何かやりたいと自分から言い出すのは珍しく、高三までは望むままにしてやろうとなりまして。なっ、流美。そうだよな?」
「はい」
(はい?)
ここまでで分かったことは二つ、一つは同行の女性が家族でなく家政婦だということ、それからもう一つは、母が勤務医、彼が旧財閥系商社の社員だということ。
(とすると世帯年収は三千五百万ってとこか)
三千五百万! 自分と十程度しか違わない男が自分の十倍以上を稼ぎ出している! でも中田の心中は心底陽気になっていた。というのも、その実在性に懐疑的だった富裕層が、事実目の前に顕現したから。何か特殊な自然現象でも垣間見たような、そんな神秘の感動を味わっていたのである。
「それで」でも中田は平静の様子で言った。「流美さんはどうしてプログラミングを学習しようと思ったのですか?」
「人工知能に興味があったのと、あと面白そうだと思ったからです」
「面白そう、ですか。その、どの辺が、ですか?」
流美が寸刻の省察――もちろん無表情――を経て「なんとなくです」
「なんとなくですか。それじゃAIにはどのような興味を?」
「会話してみたいんです」
「AIと?」
「はい」
「AIと会話・・・・・・、そうですか」
「あの」と横から斎藤氏。「プログラムの勉強に動機は必要なんですか? 横から口を出してなんなんですけど」
「もちろんそうではありませんよ、ただ――」この少女が変だからとは言えない。「講義内容の参考になるかと思ったんです。AIとの会話を終点とするにしても最初は基礎・反復、単調で小難しく退屈することの方が多い。でも本人の興味の傾向が分かれば――」
「多少は苦行も緩和される?」
「その通りです」
「なるほど。いや、さっすが先生! でも、ホントにそれだけみたいなんですよ、な、流美?」
首肯。
「いや、私も聞いたんですが、それ以外無いって言うんです。まあその――、ちょっと変わった子ですから」
「パパ!」と絢乃が言った。
「ああ、悪い悪い。いやですね、流美を変人扱いするのは良くないと家内から注意を受けてまして。まあその通りなんですが。今回の件もアメリカ国防省をハッキングしたいからとか言い出すんじゃないかって、もうヒヤヒヤもので」
「パパ!」
「すまんすまん、ママには内緒な?」
「言う。絶対言う。お姉ちゃんが可哀そうじゃん、絶対ママに怒ってもらうから」
父娘らしい日常のやりとり。それを微笑をもって眺めながら、中田は一つの静寂に、知覚を集中させていた。この懇話の中心、流美だ。流美は左右から雨飛する会話の応酬に全くの無関心で、髪をすかしたり紅茶を飲んだり、さながら合戦場の真っ只中で平然と茶の湯を沸かしてるかのよう。といって達観を気取って高慢ちきに鼻を持ち上げてるわけでもなく、静脈注射中の針先でも眺めているような平静の面持ちで――中田はここにきて初めて流美の指導に不安を覚えた。
(これが最新の子供! これがジェネレーションギャップ! 隔世の感とはこのことか)
それから二か月。商談はまとまり、余所の敷居をまたぐ仕事にも慣れてきた。
「でも羨ましいですよ」女店主は高所のボトルを取りながら言った。「結構時給高いんじゃないですか? 家庭教師の仕事って」
「ええ、まあ、それなりに」
「いくらなんですか?」
「時給ですか?」
「ええ」
「五千円です」
「五千円! たっかいですねえ!」
「ええ。でもまあ、次女の英語も見てますから」
「ああ、そうですよねえ。でも五千円かあ。いいなあ、羨ましいなあ。私なんかお酒作ることしかできない」
「でも楽しいお酒を作ることだって立派な技能だと思いますよ」
それで不意に会話が途切れ、グラスを拭く店主がポツリと言った。「ホントにその子が心配になってきたな」そして顔を上げ、「ホントに駄目ですよ、誘惑しちゃあ。警察沙汰になるようなこと、しないで下さいね」
「そんなに念を押さなくても」中田は苦笑しながら言った。「第一、相手は子供なんですよ。それより今週のオススメは何です?」
「ラフロイグっていうスコッチです。十七年もの。ワンショットどうです? お安くしておきますから」
「頂きましょう」
この店に通い始めてまだ間もない頃、話題に困った中田が苦肉の策として切り出したのがこれだった。が、これが意外の奇効を奏し、狂信的ビール党だった中田が、棄教せざるを得なかったのがちょうどそのとき。以来、この壮大なプロジェクトが、今も継続中である。
酒が注がれた。中田の眼前、蜂蜜色の液体が少量たゆたっている。中田はグラスの足をつまみ、持ってそっと口に含んだ。
「これは……」
まず真っ先に熱いアルコールの刺激、そして口内に含んだ後には、常温のぬめり気が続く。そして嚥下の後には、様々な薬草を一挙に煮詰めたような薫香が、鼻口一杯に広がるのだ。まるで何千年分もの落ち葉を溶かした深閑の森の沼水でも飲んだような、そんな感じである。が、アイリッシュの華やかな香気を好む中田には、どうにも口に合わない、眉宇が寄る。
「・・・・・・やっぱり駄目でした?」
「そうですね、やっぱりこういう暗色がかった味はあまり好みではないかな、と」
「そうですよね、また探してみます」
(2)
中野の駅を降りて歩いて十分。四・五階の高層ビル群の中に、まるでその一帯の盟主みたいな超高層ビルがあり、その三十七階に流美の家宅がある。部屋は4LDK。ベランダからは霞む下界の凹凸が見え、それはさながら雲上人が、俗塵にまみれる地上を悠然と観覧するかのよう。ただ所々に割拠する同種のビルたちが、優越者としての同族意識とライバル心を、喚起してはくるけれど。
次の土曜日、午後六時になって中田は斎藤家を訪問した。エントランスで家主をコールし、ビルへの入場を果たすと、続くロビーは巨人でも収容できそうな広大な円蓋の空間。細かい擦過はあるものの、鏡面仕上げの大理石の床面は、美麗な無数の光沢を散りばめている。そこから高速エレベーターに乗って、中耳の気圧調整を済ませたら三十七階へ。静音な渡り廊下を進んで3709の呼出ボタンを押せば、家政婦の春子が濃紺の重厚な門戸を静かに開いてくれる。
玄関には生花(このときは大小のひまわり二輪)、それから一種の文化的虚栄の誇示たるA4サイズの抽象絵画。そこを通過し左に折れると、ダイニングテーブルに座る二人の姉妹――一人は静座し、もう一方は背もたれに腕をかけ、だらしなく座っている――の談笑に突き当たる。この二人の間に中田が着座し、春子が飲料を用意して、その日の講義が開始されるのである。
それから約三十分後。
「先生できました」伏せるように筆記していた綾乃が、上体を起こし言った。
「ん、ちょっと見せて」
角の全くないポップ調の文字列が空欄を埋めている。それを上半分ほどまで点検したところで、じっと中田を凝視していた綾乃が
「先生、彼女! 彼女の話してください。この前はビルの奥で呼び止めるところまででしたよ。あたしずっと待ってたんです、この一週間。友達とも盛り上がって――」
「え、友達? 友達にも言っちゃったの?」
「あれ、ダメでしたか?」
「いや、ダメじゃないけどさ、でも極めて私的な事柄だから、事前の承認はとらなきゃだめだよ、これからは。いい?」
「はあーい」
それから瞬時の思慮を挟んで、中田は綾乃の方に体を向けた。これも教育、そう結論付けたのである。
「あのね、綾乃さん。これはとても重要なことだから言うけれど、人の私事に当たることは本人の許可なしにしゃべってはいけないよ、今回は僕だからいいけど。よろしいね?」
「はい」
それから相好を崩して希望された学生時代の恋愛話を、ドラマチックに、実否を交えて、語ってやるのである。女の子はチョコレートと恋愛の話がだあいすき。瞳を輝かせ詰め寄るくらいに熱中して傾聴されれば、悪い気はしないのだ。が、恋愛の好餌に全く食指を伸ばさない例外が一人。
「先生」綾乃とは正反対から論理のような静かな呼び掛けが届く。「コンパイルが通りません」
「ちょっとお姉ちゃん、今いいとこなんだから邪魔しないで!」
それからやや間があって「先生。やっぱりもうちょっと一人で頑張ってみます」
「ジョークだよ、お姉ちゃん、時間がもったいないよ。先生の話なんて雑談なんだから勉強の方優先してよ、あっ!」
そして恐る恐るといった目が中田を上目に覗く。
「どうでもなくないですよ先生! 先生のお話とっても面白いです、もうほんとうに!」
それから半時間。綾乃の課業は終了し、以降は流美とのマンツーマンに移行する。
「それでは後はお若い二人で」
そんな綾乃の含みのある一笑とともに。
最初中田はこの時間が苦手だった。何か運動競技みたいに猛烈に問題集をこなす綾乃がいなくなると、部屋からは人間らしさが消散し、まるで絶海の孤島に取り残されたように思われてくる。流美はテキストを読み、ゆっくりと髪を梳いたり、腕組みをしたり、それで分からなければ聞いてはくる。でも、そこには漠とした隔意があって、個性の漏出たる人間味は微塵も感じられない。これは共同作業ではない――思考の主体は自分であり、あなたはその補佐。その考えが暗然と通知されるのである。
(まあ、これはこれで楽ではあるが)
それから隣室。そこにはリビングがあり、春子が背もたれに頼らぬ座り方で端然とテレビを視聴している。そして、その番組の驚嘆や爆笑の音声が、開け放たれたドアから漏れ伝わってくる。だが、一体なんのために?
(監視だ。まあ怠惰な人間はどこにでもいるからな)
でも、それが緩和したのが一月前のこと。綾乃の履修時間が過ぎ、流美のテキスト詳解マシーンとして侍っていると、流美がテーブルのテキストを示して不明の箇所を伝え、二つの頭が一冊の書籍をのぞき込む形となった。そして、その解説に必要なページを開いたとき、絶えず静的だった虚空のような流美が、初めて躍動の片鱗を表出した。そのとき、流美の両手が閃光の如く延び、書籍の一角を覆い隠したのだ。そして、中田は狼狽の美しい瞳とぶつかった、ほとんど鼻先が擦れ合うほどの至近の距離で。それから流美が驚いて身を引き、それに対し中田は、本の一隅を見、流美の顔を見、慈愛の微笑を浮かべてこう言ったのである。
「僕も同様なことを考えたことがあるよ。嘆きの川のほとりに咲く花は何色だろうか、とかね」
”悲しみの消失した世界では悲しみの概念そのものが消滅してしまう。でもそれに気付いたとき、人は悲しむことができるの?”
流美が目一杯延ばした両腕の突端、その二掌の下には、その文言が模範的流麗さで記されていたのである。
流美の辞色に血流の通い始めたのはそのときから。以来、受講八十分からは、「歓談」が休憩時間を占めた。例えば全治全能者たる神は、無限の自由意思を人に許容してはいないのではないかなど――このときは、神は無限という有限の枠に意思を制限しているという結論に達した――で、これは今回もである。
「先生」流美は背もたれに寄っ掛かって言った。「人生の無駄とはどういったものでしょうか?」
「人生の無駄。人生の無駄か……」中田の脳裏にはまず真っ先に療治のことが浮かんだ。が、それは矮小な見解、素早く心思を切り換え「人生を末端から振り返った場合に無意味だったと思えることじゃないかな?」
「つまり死の瞬間まで人生の意義の有無は分からない?」
「そう。でも、どうしてそんなこと思ったの?」
「世界史の時間にふと。人名や年表の暗記に何の意味があるんだろうって」
「確かに各地の支配の遷移なんて、当時の政情を知らなければただの記号の羅列だもんね」
「はい。生活の実相が見えないのにそんなの覚えて何の意味があるのって」
「なるほど。それで流美さんはどう思ったの? 人生の無駄について」
「私は主観的には先生と同意見です。闘病にしろ昏睡にしろ幽閉にしろ、私には浪費に思えることでも、本人が意味を見い出していれば、それは有意義です。でも、じゃあ客観的人生の浪費とは? それが分からなくて」
「客観的な人生の浪費か……」
それには中田も即座に回答を出せなかった。禁足や放蕩や隠棲等々、無為と称される行為は山ほどある。だが、そんなこと言えば人間活動の全て――その辛酸や超克でさえも――が、虚無の彼方に葬り去られてしまう。それは人生の意義を信奉する中田にとって、絶対に認められないことだった。
「人生といった場合」中田は言った。「客観的という形容は成立しない。人生とは当人が感得した真理の蓄積であり、完全に主観の積み重ねで完結したもの。客観性は付属しえない。でも、まあ、ここは一歩譲って、あると仮定して考えてみよう」
「はい」
「さて、人生とは追想した際、何らかの意義を見出す言葉であり、ここに客観性を付与するならば、社会性と等価になると僕は考える。たとえば、ある衰亡に瀕した国家の将軍――それも常勝の大将軍が、突如何もかもをほっぽりだして、長年の夢だった聖地巡礼の旅に出たとする。将軍は満足だ、でも国家は蹂躙され、陵辱され、滅亡し――この場合、この将軍の人生は徒に戦争を長引かせ、抵抗による戦死者と困窮、敵国の怨憎を生み出すだけにとどまった」
「つまり、主観的には良好なのに客観的には最悪」
「そう」
「でもこの将軍が巡礼の旅にでなく、突然の病死で戦線を離れたら? 将軍の善戦は間違いなく愛国心から産まれたものであり、民衆もそれを理解し感謝していたら、戦禍の延長は意義あるものになる?」
「それは、なる……、いや、ならない……、どっちだ?」
「昔の敗戦国は、大抵の場合、民衆が奴隷となって売られた。でも彼らはそれを回避するため抗戦した将軍を好きでいて……」
「そうか! 時系列で考えてみればいいんじゃないか? 敗戦直後、国家は滅亡し、国民は虐使され、それを回避するため戦った将軍は敬愛される。十年後、亡国は属国として復興し、将軍はプロパガンダで貶められ、奴隷となったかつての民衆の胸にだけ英雄として残り続ける。でも、新生の人々には巨悪の象徴で。で、二十年後、三十年後、さらに長い年月を経て、将軍への愛憎を持たない人々が支配的になったとき、この将軍の真価が評決される」
「つまり、将軍は無意味に戦禍を拡大させた根源であって、その常勝は無意義だった……」
「そう」
「ということは人生を客観的に捉える場合、そこには現時の社会性だけでなく、歴史性を考慮しなければならない」
「というより、人生の客観性とは歴史的意味そのものと言えるのかもしれない」
二人は自分一己の思索に没頭し、いつの間にか相手への配慮を忘失していた。中田は中田で難解な数理的議論に答弁するように時に目を閉じ、時に眉間を擦って、慎重に言句を選別していたし、流美は流美で、髪に手を入れ思索の邪魔にならないタイミングで静音に梳き流していた。二人の心理は完全に隔絶していた。だが、そんな無縁の境地にあっても、二人は同時に共通の果実を貪っていた。それは議論の追究であり、自己の領分では絶対に到達しえない未知の結論との邂逅であり――視線も交えず、配慮も排して、二人は絶対的閉塞の孤島にいながら、同時に同一の快楽によって、緊密に交流していたのである。
それは中田にとって何とも似ていない異質な快感だった。学生時代または社会人経歴から、人と知的革新を得たことは――たったのニ三度だけれども――あるにはある。でもそれは全て男性、それも同等以上の経歴や知的レベルを備える壮士が相手であって、一介の婦女子、それも二十歳前の乳臭残る女子高生を相手に感受できるものではなかったのだ。
(だが、これほどの特質異能。それは人を幸福にするのだろうか? いや孤独にするはずだ、逆に。もしかしたら流美はこの固形の美貌の下、人知れず、涙を流しているのかもしれない)
しかし、休憩が終わって即ディスプレイに向かう流美を見るに、きっと杞憂なのだろうと思うのだった。いや、そもそもこのパソコンの付属品のような子に身を震わせるほどの鮮明な感懐など存在するのか?
それからはまた端整で軟質そうな流美の横顔とカラフルなアルファベットの羅列を見やる時節。隣室からテレビの音響が小さく聞こえ、流美が疑問を発しなければ視野奥のビルの赤い明滅を眺めるだけになる。そして、いつしかうとうとしてきて、中田は頬杖の姿勢で目蓋をピッタリ閉じてしまった。
……遠くに聞こえていたキーボードの打鍵音が消失して、その変化で中田は半覚醒状態で目を覚ました。虚ろな視界の中、端正な麗姿の佇む位置では、流美が手をそろえ、端然と中田を見つめている。
「起きましたか? 先生」
「ああ、ごめん、流美さん、いつの間にか眠って――」
「聞いてください先生」そして事も無げに言った。「私、先生のこと好きですよ」
(3)
次週になって、中田は定例通り流美のタワーマンションを訪れた。何事もなく春子に迎え入れられ、何事もなく流美と綾乃の間で二人の奮闘の面倒を見る。だが、その心中は容易に現実の空間を離れ――二人が苦戦してるときなど――自己の一番の関心事に遊離する。それは流美の先週の大胆な告白のことではない。次週末を期限とする本命企業の応募書類のことなのだ。
そこは中規模のIT系企業なのだけれども、設立が古く、景気の昇降によって人員の増減を繰り返す浮薄な営利企業ではない。もっと質実な技術の下に社会に根を張る企業。ネットの悪評もなく、少なくとも社員を使い減らす実意は持ってなさそうである。それは中田が現況希望しうる最上の地位。もっとも、その最高峰には望外の幸運――宝くじで巨億の富を得るような――が、頑として居座っていたのだけれども。
それに比べれば流美の告白は些事に他ならなかった。中田は黙過と留保を対応の主軸と決めていた。截然の拒否は流美の悲憤を招来するし、それではこの好個な講師の役得を喪失してしまうかもしれない。それは良くない。
(でも、どれほどの慕情が内在していたにしても、十七歳時分の大人への片恋は大抵が汚点もしくは、羞恥の伴う青春の輝石になる。将来、きっと)
つまり、ここで態度を曖昧にしてもさしたる害悪にもならぬと判断したわけだ。そして綾乃の課業が終了し、それから二十分ほどして、例の抽象命題への問答が慣行される。
「先生」流美は休憩開始から暫時を経て言った。「美しいものばかりを集めた世界は、一点の曇りもない完璧な美の世界なのでしょうか? 美しい音楽、美しい風景、美しい人たち。何物をも嫌悪せずに済む完成された世界」
「何か嫌なことがあったのかな、流美さんは」
「いえ、ただこの前体育館への渡り廊下で空を見上げたら、飛行機が見えて入道雲が輝いていて、青空で、そこを小さなジェット機がゆっくり白い尾を引きながら飛んでいて。それで正面から風が吹いてきて、すごく気持ちがよくて。それでふと思ったんです。もしこの世から嫌なものや醜いものが消失して、美しいものだけが残ったら、究極の美が完成するんじゃないかって。そしてその美は、どんなにか人を魅了するだろうって」
「でも美は相対的なものだからね。至高の美というのはだから、個々人で別種のものとなる」
「最高美は個人によって違う?」
「そう。そもそも美というのは人間が考案した概念であり、つまり実体がなく、しかも各人の感性によって捕捉されるものだから、そこに絶対の基準はない。ある人には星が無上の輝きに見えるが、ある人には深紅のルビーの光沢にこそ最高美を見たりする。それで両者に優劣や高下はない。だって美は、その人の感性に従って顕現するんだから」
「つまり、ある人にとっての美的なものだけを結集して最高美を実現させたとしても、それは別の人には枯れ果てて見えることもある」
「そう」
「なら先生。全人類が共通して美しいと思えるものを最高純度まで精錬させれば、それが客観的な最高美となるんじゃないですか?」
美の普遍化。それは中田にとって慮外の提起であって、追究してみたい気持ちに駆られた――が、同時に休憩時間の終端でもあって、そのための所要時間は残されていない。
(さて、どうするか)
でも、逡巡は僅かの間、このときは流美との知的探求が優越した。流美だって望んでいるのだ、それなら――と、中田の素直な好奇の欲求が分別の忠言を抑圧したのである。でも、それは原初に目的を据えて次にその正統性を模索する倒錯的な自己欺瞞に他ならず、中田はそのことに気付いていなかった。
「人類の共通美か」中田は言った。「つまりそれはどの文化でもどの住環境でも、無関係に美と承認できるもの。ということは、それは人類が普遍的に見聞できる物になるんじゃ――、いや、普遍的かつその中で万人が美しいと思えるものが対象になる――いや、違うな、普遍的かつ美しいものの中で、共通して内在する美的要素を抽出してやれば、解答に漸近できるんじゃないか。例えば陽光、海浜風景、華麗な蝶のひらめき」
「ぜんきん?」
「ああ、徐々に近づくってこと」
「つまり地球上のあらゆる人々が見知っているもので、かつ美しいものの共通事項を発見できれば、解答に近づける?」
「そういうこと。なんだろう、砂漠、雪原、絶遠の環礁、雲海を脚下に望む高山の山腹、摩天楼の最上階から猥雑な地下のバーにまで、人間はあらゆる地所に生活している。いや、地球だけじゃない、遙か高遠の宇宙空間にまで人は住居していて、その全てに共通する美的物体とは――何だ?」
そして二人は腕組みの姿勢で個々の思惟に没入する。それは大小男女の差異こそあれ、彼らの正面俯瞰図からするとまるで鏡合わせのよう。ただ年差が激しすぎるため、いささか親子みたいに見受けられるのだけれども。
この緊迫の沈思を先に破ったのは、珍しく流美の方だった。
「輝き?」ポツリとした懐疑の一語に言葉が続く。「月明かり、星明かり、夕日の輝き。蝋燭の灯火にすら人は美を見つけて、そこに自分の願いを見る」
「美に願いを見る?」
それは過日に中田が流美に教示したことだけど、このときの中田にそれに想到している余裕はなかった。新しい発見の歓喜に夢中になっていたのである。
「そうか、概念や観念だ! 全ての人が実見できる共通項は存在しない。第一全盲の人はどうやって物象を視認する? それは不可能というもの。でも、概念は――、憧れや願いは趣を異にする。それは心中の虚空の中にあって、形状も重量も計測できないものだけれど、確固として存在し、僕らに多大な心境の変化を誘発する。そうか、そうだったんだ、なぜ気が付かなかったんだ」
「概念や観念……その中で美しいものというと――宗教、神様、平和、永遠、生命。生命の輝き」
生命の輝き! それは確かに美麗な観念であるけれども、精神の暗渠を這いずり回った中田には、いささか嗤笑を禁じ得ないことだった。でも、笑ったのはそれだけではない。中田も生命の輝きを信奉する若者だったのであり、その羞恥が想起され、堪えられなかったのである。
「どうして笑うんですか?」
するとそこには息を飲むほど静寂な瞳。中田はその疑問の応答だけを無垢に求める美貌の視線と不意に近くでぶつかった。呼吸を忘れ瞬きを忘れ、流美の真っ直ぐな双眸に吸引されるようで抑止されるような矛盾を感じながら、中田は流美としばし見つめ合った。二人の距離は今や頭二つ分、微動の素振りでそれらは鏡合わせのように、一つに吸い寄せられることだってある。だが――。
(なんと静かな子だろう)
霊光を浴びたような清らかな驚嘆が、中田を支配してたのである。そして、その間も流美は明澄に、不乱に、中田の応えを待っている。
「……先生?」
「あ、ああ、何でもないんだ、ちょっと昔のことを思い出して――」
「中田さん」とそのとき老いた、しかし厳粛な声がした。隣室に待機している春子である。見れば明るい戸口の床板に、うっすら細い斜影が延びている。「お話が盛り上がっているようですが、お勉強の方は進んでいますか?」
「え、あ、はい、いえ――おっと、もうこんな時間か。すぐに始めます」
「ええ、お願いしますね」
そして影が静かに上品な物腰で引き下がっていった。
二人は顔を見合わせた。
「怒られちゃいましたね」
「まったくな。さ、続きを始めようか」
講義を終えて寂寞とした回廊でエレベーターを待っていると、薄暗い吹き抜けの管状空間に流美の呼び声が反響した。見れば流美が黄色いテキストを抱え、髪を揺らし小走りで駆け寄ってくる。
「どうしたの?」
「一つ言い忘れたことがあって」
「……そのテキストは?」
「これは春さんに質問があると言って出てくるためのもので」
つまり演出道具というわけだ。
「で、言い忘れたこととは?」
「はい。先週言ったことを忘れていただきたいんです」
「先週言ったこと?」といって、告白のことしか思い当たらない。「僕を好きだとか言ったこと?」
「はい」
中田は困惑した。あれからたったの一週間。それで情意の変節があったというのである。女子高生にとって恋愛とは、花瓶の花を活け変える程度のものなのか、それともこの子だけが特殊なのか。いずれにせよ中田には不詳のことではある。
「分かった」中田は言った。「僕はそれを持ち出さない。君もそれを持ち出さない。それでいいかな?」
「……は、い」
(ためらい?)見れば流美は視線を逸らし、自決に承服しかねるの表情である。
(まあいいか。ともかくこれで恋愛という煩瑣なパラメーターは消滅したのだから)
その後、中田は流美に見送られてエレベーターを下ったが、そのとき流美は意外にも笑顔の辞色で送別した。薄暗い照明の下、残像を残しながら意識的に口角を上げて微笑む流美。それは中田の見た流美の最初の愛想笑いであり、愛嬌があって可愛らしく、思わず中田の頬まで緩んでしまうくらい。
(なんだ、こういう表情もできるんじゃないか)
強く記憶に刻まれたのである。
築四十五年の木造集合住宅。室内は今風のフローリングで――といっても和室を改装しただけ――、この一角に中田の起居する部屋がある。
帰宅した中田はネットでニュースを閲覧していた、もちろん右手に四リットル三千円の安ウイスキーをロックで添えて。すると懇意にしている旧友から、昨夜無事第三子が生まれたとの連絡があった。中田はもちろんこれに即応の祝意を返信した。でも、送信してから多少憂鬱になった。一方の中田には結婚どころか恋愛の気配すらないのである。婚礼に関してはとうに川を下った心象の中田だった。奔流たる激動の青春期は過ぎ、今は去りし遠方の山々――そこには無数の灯籠を川面に映す情緒絢爛の一幕が、確かにあった――を河口から遙かに仰ぐばかりである。往時と違い、その足下と情景が自動で変移することはもうないのだ。
でも、中田が呼吸してきた恋愛の空気はさほど濃密なものではない。中田が高校の頃――それは十九九〇年代後半――巷は長く続いた黄金期の価値体系を引きずっていて、世間の恋愛といえば男性側の狩猟的アプローチを意味し、他方女性は誘惑のうちで最良の条件に心身を許す――人によってはアッシーだのメッシーだの用途別になる――のが一般的だった。この主潮の中、中田は傍観者たる側に回された、というよりは自分から身を引いたといった方が的確で、地味で堅実で優等生的消極性を持つ中田は、そこに加わる資格がないと諦念を持って眺めていたのである。放課後、西日差す教室で級友たちが好意と友情を混在させながら冗談を交えたり、心中の真実の言葉をもって語り合う場面に遭遇すると、堪らない羨望を抱いた中田だった。風の吹き込む窓辺に立ち、意中の女子とごく自然的に恋愛を深めていく。そんな夢想を抱きつつ、自己の分限と思ってギュッと強く目を瞑っていたのである。
それは中田を勤勉にし、中堅クラスの大学合格という形で償ったけれど、もちろんそれだけでは不満だった。中田は恋愛の具現に奔走した。といっても不徳の手段や蛮行の関連には近づかなかったし、人を渋面にするような汚行は謹戒した。むしろ、若気の至りと割り切って、無節操に漁色に奔走する輩を公然と冷笑した――多分に酒は入っていたけれど。でも、恋にも戦争にも節度は存在する、他の学友たちが狂っていても自分だけはその戒めを守っていこう。そんな漠たる自制を胸中に誕生させていた。
恋人は入学八ヶ月目にできた。相手はバイト先の中華レストランに働く女子高生で、目のクリクリとした天真そうな女の子だった。付き合い始めが十二月の十日で、別離がその十七日後。つまりは完全に冬至近辺のイベントに利用されたわけだけど、中田はそれに気付かなかった。真剣に涙し、真剣に自分の非を探そうとした。
それから四ヶ月。春風が新入生を連れてきて、出会いが荒涼たる粛殺の心象に百花のつぼみをもたらした。
つぼみは開花した、ある少女との出会いによって。相手は琴美といって、童子の頃の寝起きの残夢を引きずっているような子で、ゆっくりと食べ、ゆっくりと話し、まどろみの中で笑うような女の子だった。告白は中田から。たまたま休講が重なって、帰途が一緒になった駅までの道、初夏の夕立が二人の奇遇を演出するように、若い男女をビルの奥へと押し込んだ。が、そこで待っていたのは気まずい沈黙――琴美に緊張緩和の努力はあったから、不協和のすべては中田が起因。でも、それが自覚的であったために、さらなる焦燥が発生して、中田を思わぬ暴挙に駆り立てた。雨後、琴美は帰路の歩行を再開しようとした。その琴美の手を取って、中田はとっさに自己の内情を叫んだのである。
「好きなんだ!」
そんなふうに。
そして、手首を引かれた琴美はその姿勢で固まり、雷に打たれたような目で相手を見つめ続けた――が、それは中田もそう。それは中田にとっても身に覚えのない決断で、しかしもう後戻りできないと悟った中田は、戦慄しながら握る手に力を込めた、この視線と言葉が真実だと伝わるように。そして応えを待った――。
「あ、はい」
しかし、それだけだったのである。
中田は敗北を確信した。残りの道中でも無言だったし、別辞の挨拶でも青ざめた作り笑いしかできなかった。悲壮を全面に出さないだけで精一杯だったのだけど、その心の暗色はほんの僅かのしか維持できなかった。
十分後、暗澹とした心持ちで呆然と往来を眺める中田に、一通のメールが送信されてきた。
「さっきはビックリしちゃってて返事をするのを忘れてました。先輩、これからどうぞよろしくお願いします」
差出人は琴美で、つまりはOK。中田は思わず天を仰ぎ、肩を振るわせた。そして、熱い感動のといきを空に吐いた。中田の心中に咲いた百花の繚乱、それがついに甘く結実したのである。
ただ琴美との付き合いは平穏で健全で円満なものだったから、中田の積年の願望を全て満たすものではなかった。それは琴美が中田の理想を解せなかったからだが、それでも中田の恋の精彩に陰りが差すことはなかった。幸福の浮遊感が予想より強く、普遍的陳腐の連続で錦繍の夢想を取り替えても不服がなかったのだ。そして、それがいつしか当然と思うようになった。
二十一歳、大学三年になった中田には既に琴美との結婚が現実味を帯びていた。人生を俯瞰し、胸裏を精察してみても、地味で大衆的で野心なき自分に一軍の将たる才器は備わってはいない。望めるのは中堅会社の管理職であって、それだって自分には望外の大願ではないか。
そして、そういう将来を想像するとき、心中に登場する伴侶はいつも琴美――老いて柔和な笑みを浮かべる琴美なのである。琴美は物言いが柔らかく、表意はあっても主張がない。要求や交渉、討議などはもっての他で、賢母はともかくきっと良妻になる。それに応え、自分も良き夫となろう。西の郊外に小さな家を買い、そこで狭小ながらも温かい理想の家庭を実現するのだ。就職活動を前に中田は一抹の幸福のパッケージを構想していた。
でも、社会は氷の世界。どの会社も門戸を固く凍結させて、開放するというよりは自力でこじ開けた強者だけを迎え入れるというもの。
中田は四十社受け、三十九回の清栄を祈念されて、唯一明るい未来を祈らなかった会社に内定を宣告された。そこは都内を根城にするIT系の中小企業。パソコンの経験はなかったものの、技術と知識の不足は熱意と研鑽によって補填できようし、それにここで経験を積めば洋々たる情報技術の大海に滑り出す契機にもなる。第一、他に進路はないのだ――様々に勘案した結果ではあった。
中田はそこに就職したけれど、待っていたのは忙殺に次ぐ忙殺、夜九時以前に帰宅したことはほとんどない。それでも継続できたのは論理を掘り起こし、論理を積み上げる思考作業が悦楽だったから。中田はこの業界は自分に向いてると思った。それは一種の選民思想に他ならなく、中田は仕事にのめり込んでいった。それまでの人生、集団の中核に位置したことのない中田だったから、つい舞い上がってしまったのである。そして五年目、それまで強壮だった若き肉体が衰退し始めたことが原因だった。中田の心身に異常が発現し出したのである。まずは身体の変調から。目眩、耳鳴り、鉄鎖を引きずって歩くような倦怠感。致命的だったのは睡眠障害で、仕事でくたくたに疲れているのに、早暁東の空が白みがかってくる頃、脳の中枢が勝手に目覚めてしまう。それから再び無意識の安息が訪れることはない。
自分が休んだら会社の仕事が回らない。それが不眠に苦しむ中田を精勤に駆り立てたのだけど、休眠の不能は漸減していた中田の健康を急速に蝕んでいった。そして健常が完全に瓦解したのがそれから三ヶ月後のこと。ある朝――といってもそれは未明――新聞配達のバイクの走行音を聞き、見知らぬ女性の乾いたヒールの音を聞き、街の目覚めが静かな喧噪となってカーテンの隙間から漏れ入って来る刻限、中田はベッドで暗い天井を見つめながら泣いていた。起き上がれない。ついに終端に到達したのである。
それは七年来交際を続けてきた琴美との関係に致命の一撃をもたらした。二人はほとんど婚約関係にあった――が、プロポーズはまだで、それは八ヶ月前に琴美の祖父が他界したとき凍結されていた。が、この窮境に至り、婚姻は白紙となった。花婿が休職――というよりは事実上失職――では婚礼に不適格との禁令が双方より出たのである。一方は琴美の父母で、もう一方は他ならぬ中田当人からだった。
中田は琴美を愛していた。中田にとって愛とは相互の人生を豊かにするものであり、中田はその愛の信念に忠実でありたかった。そしてそれはこの場合、琴美との別離を意味していた。自分は破綻した、琴美を巻き込みたくはない、もう何もかも駄目になった。その悲観、責任感が中田を別離の極端に邁進させたのである。
別れを決めた中田はあるとき琴美を自室に呼び出した――もう外出は不可能になっていた。そして、なんの含みも持たせず膝を立てた安座の姿勢で別れを切り出した。琴美はそれに似つかわぬ柔和な笑みで「えっ」と言ったまま固まり、寸妙の後、それに相応しい反応を見せた、透明な涙の反応を。そして背後に向き直り、中田の方に手を向け「違うから、違うから」と言って、しばしの涕泣にむせび始めた。
(俺は不能者なんだな)朦朧とする頭で中田は思った。(愛する女一人養ってやれないのだから)
二人は別れた。一年後、療養を終えた中田は再度就職を果たし、さらに一年とちょっとが経過した頃、旧知との飲み会で琴美が結婚したことを聞いた。それに中田は満面の笑みを浮かべ、自ら乾杯の音頭さえ取った。が、散会して一人になったとき、その真情をありありと面上に表した――しみじみとした悲哀の面相を。自分は愛する人を幸せにした。自分の判断は間違ってはいなかった。かつては二人で通った夜道を一人で歩きながら、中田は、愛に準じた痛みを味わっていたのである。
以来中田に恋人はいない。巡り会う会わないの以前に、求めようとしないのだ。心が壊れ療養で貯金を消尽し、過度の労務に耐えうる若さも失った。資力、性向、風貌の全備を所期する目の肥えた現代女性に今の自分が相手にされるわけがない。自分は資格を失った、人生を共有する資格を。それはかつて高校の頃に味わっていた諦念と同種の痛覚だった。
(出産か)ラインのメッセージを見て中田は思った。(今の俺には結婚すら遠い。ははっ、したかったな結婚)
が、そこで一瞬、流美の姿が脳裏を横切った。中田はそれに自嘲の笑みをこぼすと、持っているグラスを一振りし、自分を罰するかの如くぐっと一息、強い酒を煽った。
(4)
それから十日が経った水曜日のこと。中田は夜を徹した入魂のエントリーシートを仕上げるとその出来の満足感から夜中――とはいってもそれは午前三時半頃――近所の散歩に出かけた。目的地は自宅から徒歩十五分の位置にある開豁な公園。療養時、気分の良いときなどベンチでじっとり汗をかきながら二時間も三時間も背もたれに身を預けて空を仰ぐのが好きだった。ただそのときと今では昼夜は完全に逆転してるのだけど。
家を出ると空気は清涼としていて、誰もいない薄明の街路で星のように瞬く街灯が、より一層森閑の趣を強くしていた。どこの窓にも重いカーテンが掛かっていて、その奥に潜在する安息の寝息を偲ばせるかのよう。周囲はさながら眠りのための街――閑散としたその雰囲気は、どこか清浄の気配さえ漂っていて、もしかしたら俗悪の欲望にまみれた大都市東京を日々浄化してくれるのが、この時間帯なのかもしれない。
中田は寝静まる黎明の雰囲気に同調するかのように足音を忍ばせ歩いた。他人の就眠を妨げてはならない。不眠の辛苦を知る中田にとって、それは当然の配慮ではあった――最も悪目立ちを危懼してきた世代の一人としては、普遍的な心理の動向ともいえるのだけど。
途中猫の光る目にぶつかったり、ビルの狭間に覗く半月の情趣を玩味したりしているうちに、薄闇に公園が見えてきた。門口は二つの頑強そうな黄土色の門柱によって守護され、門柱からは鈍色の光沢を反射する鋼鉄の柵条が長く左右に延びている。
中田は入口まで行って中を観察し、無人であることに安堵すると――暴漢酔漢はお断り――砂利を踏みしめる音を大きく聞きながら、奥の木製ベンチに歩いていった。そして、そこに腰を下ろし、膝の上に両肘をついた。今やこの空間に意識は一つ。後方で夜明けを待つ落葉樹たちも安らかにその枝葉を眠らせている。
いい朝だ、と中田は思った。通夜の作業と成果を出した高揚感。そして、満足のうちに感じる疲労と冷却。就業中、幾度か体験した過日の思い出が想起されてくる。一度目は――そう、入社から八ヶ月目。あのときは乾さんに全面的に解決してもらったんだっけ。自分だけなら一週間はかかったかもしれない。いや、一ヶ月かも。あの後、新人が徹夜なんかするなと部長にお叱りを受けたんだよな、なぜか。で、二度目は――。そう考えているうちに小鳥が鳴き出し、全天が暁光で脱色し始めていた。人が歴史を築く新たな一日が開幕したのだ。そしてそのとき、来光を背負って公園の門口から入ってくる細い人影が一つ。彼は周囲を見渡しながら無目的の散策だと言わんばかりに緩慢の歩度で園内を歩き、中田の座るベンチのわきを通過しようとした。が、交錯する間際、急激に停止し――何か息を飲むといった感がある。
「……先生?」
思わず呟かれたその小さな清音。中田は即座に反応し、驚愕した。そこには流美――同じく驚駭の表情を露わにした流美が、新しい朝の色づきの中、立っていたのである。
「流美さん、どうして……」
「先生こそどうしてこんな所に?」
見れば流美は薄ピンクのTシャツにベージュのホットパンツ、鼻緒のないタイプのアディダスのサンダル、頭髪には変な跳ねまであり、一見して寝起きの出で立ちである。
それが中田のショートした頭脳に再度の活性をもたらした。内実を彷彿とさせる流美の格好が、可愛いくもおかしくもあったのである。
「寝起きかな? 流美さんは」
中田はそう言いながら上体を起こし、背もたれに身を預けてリラックスした姿勢をとると、右手で自分の頭の側面を差し、「ここら辺、寝癖ついてるよ?」
「あ! これは――」
流美は狼狽した様子で急いで髪をすき、しかし直らないことを悟ると恥ずかしそうに「寝起きなんです」畏縮した様子で言った。
こんな刻限の女子の一人歩きは危ない、両親の許可は取ったかなど、分別の忠告がまず真っ先に胸中に去来したけれど、中田の選んだ言句は次の一言。
ベンチの座る位置を少しずらし、「少し話しませんか?」
中田も興奮冷めやらぬ心境で、誰かと話したかったのである。
流美はなおも一度寝癖せの位置をすき、スカートの皺をのばす仕草をしてから中田の隣に座った。
「流美さんはよくこういう時間に出歩くの?」
「たまに。好きなんです、夏の朝が。暑くも寒くもないし、空が暗いうちはまだ不気味だけど、白み始めると、ああ朝が来たんだなって安心できますし。そうなると一人で出歩いても平気なんです」
「眠くて嫌じゃない? だってまだ――」中田は時計を見た。「朝の四時過ぎだよ?」
「私、早いときには夜の九時には寝ちゃうんです」
「で、昨日は九時に寝たと?」
「八時五十分です。あ、いえ、八時五十二三分頃かもしれません。電気を消す前に最後に見たのが八時五十分だったから」
「寝付きがいいんだね」
「変、ですか?」
「いや全然。全然さ。とても優れた性質だよ、眠りたいときに眠れるってことは。とても優秀な資質だ」
「でも怠け者だと非難されてるみたいです」
「いやいや、僕からすれば極めて優位な資質だ。第一――」そこで中田は熱弁のせんかたないことを悟り話題を変えた。「この公園には良く来るの?」
「はい。あ、いえ」
「どっちなのさ」
「日のあるうちは結構来るんです。子供たちが仲間内で騒いでいたり、近隣のビルの高所から布団を叩く音が聞こえてきたりすると、皆自分の生活に邁進していて誰も私のことなんか気に掛けない。それが知覚されてきて、何か自由な気分になるんです。なんて言うか、意識が幽体離脱して静かで見渡す限りの茫洋とした泉の上で座禅を組んでるような。それを私は思索の泉って呼んでるんですが、なんて言うか、その感覚が好きで。でも朝はあんまり来ません。夏休みだけです」
「眠いもんね昼間。授業あると」
「はい」
「なるほど。ってことはこの早暁の出会いも、本当に奇遇中の奇遇ってことになるわけか」
「はい。だからその、なんて言うか、ちょっと戦慄しました。もしかして運命じゃないかって」
「うんめい? ははっ、運命か、なるほどな」
そう言う中田の口調には流美の少女然とした純粋さを嘲弄する向きが確かに混在していた。が、それは中田にとってもいつか来た道。笑いを含みながらもすぐに制止の手を流美に向けた。
「ごめん、流美さんの運命論をバカにしたわけじゃなんだ。いや、やっぱりバカにしていた。これは認めるし、謝るよ、ごめん。でも、多くは自分自身に対するものなんだよ。事実、僕自身運命というものが誰かの人生を揺るがす突発的な事件だと考えていた、かつては。例えば、惹かれ合いながらも反発し合っていた男女が、偶発的な事件を介して、心の隙間を埋め、素直になっていくみたいな。でも実際はそうじゃない」
「違うんですか?」
「違うよ。これはね、明確に否定しておく。運命というものは、意志や志向のことなんだよ。まあ、もっと根源的に言うと意志や志向を形成する何らかの力ということになるんだけど。というのは、人との出会いにしろ状況にしろ、その人を取り巻く環境の全ては自分の好みや選択、決断によって形成させたもので、つまり今の自分を決定付けたものは過去の自分の選択、過去の志向、引いてはそれら価値基準を形成させた何らかの力、そういったものになる。流美さんはまだ高校生だから実感薄いかもしれないけれど、これから大人になるにつれ、自分の自由意志によって決定できる事物が漸増していくはずだ」
「ぜんぞう?」
「ああ、徐々に増えてくるってこと」
「ああ、はい。そうでした」
「で、一旦社会に出てしまえば、自分を取り巻くあらゆる事項が自分の嗜好で選定できるようになる。外科手術で性別を反転することから、その日の仕事帰りに引っかける一杯のカクテルの色まで何でもだよ。なのに――」
そこまで言って中田は、自分が急に場違いな発言をしている気がしてきた。この清涼な朝の大気の中、寝癖のついた女子高生を相手に拙劣な運命論を語る。それは滑稽なことではないか。流美は中田を一心に見つめ、その論説に余念なく聞き入っているけれども、信じがたい奇跡の会遇を果たした今、それは相応しい話ではない。
「止めようか」中田はこわばった体幹の力を抜きながら言った。「小難しい話はまたいつでもできるよ、次回の講義にでも。それよりももっと別の話をしようよ、せっかくの気持ちのいい朝なんだから」
「……はい。でも先生?」
「うん?」
「私は先生との出会いを運命だと思っています。思っていていいですよね?」
この言葉は中田をひどく困惑させた。これはあなたを好きと宣言していることに他ならず、それは先週の告白の撤回と撞着することになる。一体どういう理屈なのか? しかし、中田は追及しなかった。人の心底に無思慮踏み込めば、必ず不和と衝突、心理的負傷が待っている。そこは踏査すべきでない。
「――いや、まあ、それは自由だけれども」
「はい」
すると会話は一段落。中田は首をコキコキ鳴らしながら次の会話の端緒を探し、流美は今更恥ずかしくなってきたのか、狼狽した様子で手の甲を囗に当てたり、仕切りに髪を梳いたり、かと思えば、膝をくっつけんばかりに縮こまったり。両手はもちろん膝の上だ。
中田はその様子を微笑ましく眺め、それから園内と暁闇の空の景色に視界を移した。来園時、どこか孤独で寂然としていた夜のベンチも、今は薄青の形象をぼんやり浮かび上がらせ、朝の訪れに安堵してるかに見える。そしてその脇には、終夜の労務にちょっと疲労の陰りが見える黄ばんだ街灯。これも間もなく消える。
(といってもまだ辺りは暗い。流美を一人で帰すわけにはいかんな。が、送るのも面倒で。さて、どうしたもんか……)
「先生」おもむろに流美が言った。「私って変なんでしょうか?」
「……というと?」
「パパもママも、学校の先生まで私のことを――」
が、言葉はそこで止まって、流美の視線はベンチの裏の木立の方に釘付けになっている、まるでそこに亡霊の手招きでも見たというように。すると今度はベンチの上にまで乗り出した。そしてそのまま、膝立ちの姿勢で背後の樹幹を一心に凝視している。
「先生、あれ……」
中田はそちらを振り向いた。そこには群青に染まる桜の樹木が生えており、そのかなり下部、幹が分裂して地面に食い込む手前、何か白く清い染みが付着しているように見える。あれは――。
「蝉の脱皮ですよ、先生!」
(蝉……? なんだ、蝉の脱皮か)
それは新潟の片田舎出身の中田にとって、夏の風物詩以上の意味を持つものでない。日暮れ時、カブト虫採集で野山に分け入った中途で、二年に一度は出くわした平常のワンシーンだった。ただ東京で、というのが感興をそそりはしたが。
「私もっと近くで見たいです。見に行きませんか?」
「えぇ、僕は――」しかし、膝立ちで返答を待つ流美の目は爛々と輝いており、それはまるで初めて動物園に来た少女のよう。これは付き合ってやるのが大人の義務ではないか。何より流美は、中田と一緒に見たいのだ。「――分かった。じゃあちょっと見てみるか」
中田がゆっくり立ち上がり、流美が性急に立ち上がった。それから互いに逆方向よりベンチを回り、先着したのは流美の方。その歩調は雀躍たるもので、まるで一等席は譲らんと言わんばかり。
(なんだ。やっぱり姉妹なんだな、流美と絢乃は)
それから流美は膝を抱えるように座り、中田はその背後で起立して流美とその愛玩物を眺めた。蝉の脱皮。それは世界に遍在する平常の些事であって、なのにこの眼前の少女は張り付く背中のTシャツに下着の形状が露出するのも忘失して、目前の事物に没頭している。これではまるで保護者と子供。中田は急にしみじみとした気持ちになった。かつてプラスチックの虫かごの前で、寝そべって昆虫の生態を観察していた少年時代、それを祖父は慈顔のまなこをもって見守っていた。その祖父と同じ立場になっていることに、中田はこのとき気付いたのである。
(俺も年を食ったんだな)
そして、本来ならば実子を見守っていておかしくない歳でそうできていない悲しみがチクリと一刺し、中田の心裏を突っついた。それを飲み込み観察を開始した。
蝉は殻を抜けた直後らしく、翅が縮こまって溶けたプラスチック片みたいになっていた。両目は黒く、全てが黒目。漆黒の真珠が二つ、滑らかに輝くよう。他は人間の花嫁みたいに――いやきっとそれよりも――神聖な白色の無垢に染まっていた。それから広域の眉間と収縮したか弱い腹部の段々に淡いレモンイエローの粉末を一吹き。清涼で、清新な生命の門出そのもののようで、どこか宗教儀式の厳粛ささえ漂っていた。
だが、そんなものより中田は流美の関心の集中に興味を覚えていた。流美の頭は今や眼前の驚異で一杯。宇宙より飛来したUFOが瞬間、この薄明の天蓋を強烈な閃光で満たしても気付かないのではないか。中田からは流美の詰屈した後ろ姿が見えたが、それはまるで相手と根比べしてるかのように微動だにせず、流美の無我と夢中を伝え、どこか鬼気迫るほど。だが、中田は急激に孤独の寂寥感を感じてきていた。中田が鈍重な大人の感応を待っている間、流美はその鋭敏な感性の赴くまま、己の関心に走り出していた。流美はもう手元にいない、すぐ目の前にいるというのに。
(この子にとって世界は新しいのだな。……いや、古くなったのは俺の方か)
そしてこみ上げる苦笑をかみ殺すのである。
観察は続いた。彼は――いや彼女かもしれないが――まるで全生命力を背にそそぎ込んでいるみたいに、本当に徐々に翅を伸ばしていった。その間、流美は幾度か振り返って中田を仰ぎながら都度感じた印象を報告していった。
「この子にとって私たちはどう見えるんでしょう?」
「でもよく考えたら蝉って、死の間際のおじいちゃんなんですよね。地中に七年もいて、あと生きれるのは一週間だっていう」
「翅があるってどういう感覚なんだろう。鳥は巣穴でも羽をばたつかせれば、体の浮遊を何となく感じることができる。でも蝉はずっと甲殻に覆われていて、明かりのない冷えた地中をさまよって、それでいきなり地上に出てきて空気の中を自由に行き来できるものなのでしょうか?」
それから肩を怒らせ、翅のように腕をばたつかせるはしゃぎぶり。中田は思わず頬をほころばせた。
(大学に入ったら)中田は思った。(この子はきっとモテるんだろうな。こういう姿を見せられるようになって)
そして流美から二歩の距離を取り、泰然と諸手をポケットに突っ込み立っていた。まるでこの場に手を伸ばして掴み取りたいものなどないと言うように。
それから三十分程で蝉の翅は伸びきったが、流美は立ち上がって――屈伸の姿勢に疲れた――、まだ観察を続けていた。そして朝日が夜の群青を飲み込み、その燦然たる発光で地を焼くにつれ、蝉は徐々に日焼けしていき、ある瞬間、昏睡から今覚醒したというように慌ただしく空へ飛び立った。二人はそれを同時に振り仰ぎ、それが朝日に溶けて消えてしまうと、ゆっくりと互いの顔に視線を移した。
「鳥に食われないといいけどな」
「酷いですよ、先生」
「だな」
でもそれだけ。疲労感と達成感から中田の口は重く、その先は続かない。
それに気が付けばもう朝だ。公園の門口には女性のきびきびとした歩く姿が見えるし、ベンチには口をモゴモゴ動かす老人の安穏の着座が見えている。もう流美を一人帰しても平気ではないか?
「……帰ろっか」
「え、あ、はい、そう……ですね。分かりました。あ、そうだ先生」
「ん?」
「今日のこと、きっと一生忘れません。私。いいですよね?」
中田はそれに少時の考量をし、それから決然と顔を上げ、こう言い切った。
「ダーメ!」
(5)
二週間が経って今日は八月の最終週。中田はそれなりに上機嫌で流美宅へと向かった。というのも、応募した企業から面接の招致があったから。来週が一次面接で、再来週が二次面接、それを突破すればついに念願の安泰が獲得できる。人生が再開するのだ。
エレベーターに乗って耳がおかしくなるくらい上昇し、寂寞とした通路を歩いて呼び鈴を押すと顔を出したのは流美だった。
「あれ? 春子さんは?」
「所用で外出中です」
靴を脱ぎ掃除と整頓の行き届いた家中を進んでいくと、講義で常用するダイニングに出る。絢乃は既に待機していて――と言っても椅子を並べて腹這いにタブレットを閲覧していたが――準備は万端といった様子。
「行儀悪いよ、絢乃」
「ハァーイ」
そして講義が励行される。
「……先生。コンパイルエラーが取れません」
授業が始まって二十分。流美が該当の箇所を指差しながら言った。中田は肩を寄せて画面をのぞき込み、エラーの文面とコードを交互に見て寸時の間、思案した。問題は流美にどれくらい考量させるか。
「ここは前々回にやったとこだよ。テキストを見直してみて。で、十分試行して駄目だったらまた声掛けて。OK?」
少し考える仕草をして流美が「分かりました」
で、十分後。
「先生。やっぱり分かりません」
「うん。ここはね、この変数がこの部分で定義されてるから怒られてるの。この大括弧以外では無効ですっていって。変数にはスコープがあって、もし括弧の外でも使用したいなら定義は事前にしておかなければならないって、教えたの覚えてない?」
「……そういえば」
「うん。じゃ、この行をこの括弧の上に持って行って、もう一度やってみて。それでできるはずだから」
「分かりました」
それから数秒後。カチャカチャと指摘を反映した流美が、画面を見たまま中田を呼んだ。
「……先生」
「ん? できた?」
「教えてもらった所は。でも別のエラーが出て」
「ちょっと見せて」また中田の身体が流美に寄っていき、それが停止する頃、両者の肩は軽く接触さえしている。でも流美は避ける素振りすら見せない。
「……なるほど。どう? パッと見、手間取りそう?」
「いえ大丈夫です。分からなくなったらまた聞きます」
「ん。そうして」
「先生?」
「ん?」
「ありがとうございます」
「ん」
そして交わる視線と視線。でも忘れてはいけない。この場にはもう一対、意思ある瞳が同席しているのだ。
「ハア」と大袈裟に吐き出される溜息。それからペンが放り出され、ノートを叩き転がる音。呆れたもうやってられないという態度の絢乃である。
「あのさあ……」が、そこまで言ってまた溜息。顔には苦々しい笑みさえ浮かべていて「もういいや」
「どうしたの? 絢乃」
「なんでもない!」
そしてペンを取って猛然と解答を書き出した、何か鬱憤でも晴らそうとするように。その理由に中田も思い至らない。
それから小一時間が経って、流美の学習に小憩が訪れたとき、今まで容喙したことのなかった絢乃が突如ダイニングに顔を出した。が、見えるのは首から上だけで、その角度は、彼女の機嫌を宣言するかのように斜めに傾いている。
「ちょっと話があるんですけど先生。いいですか?」そして強い視線が移って「お姉ちゃんも。先生借りるけど、いい?」
二人は呆然の顔を見合わせ、同時に「いいけど」
中田は立ち上がって絢乃に従い、蟻の巣穴のような家内を移動した。ダイニングを出て左に曲がり、そこを突き当たりまで進むと右折、今度は最奥まで四つのドアノブ――左側に三つ、右側に一つ――があって、そのどれもが金色の煌めきを浮かべている。壁紙は白で、ニスの光沢浮かぶ廊下は、さながらボウリング場のレーンのよう。そしてやはり、ここにも塵一つ残っていない。
絢乃は左側の真ん中のドアノブに手を掛け中に入っていったが、中田を招き入れるとそっと外をうかがい、
「よし」
どうやら流美には秘匿したい話らしい。
中田はその間にさっと各所に視線を滑らせた。少女漫画の並ぶ本棚――そのうち数冊は天地が逆転している――、雑然と積まれた机の上の教科書に、起床時にはねのけられたままと思しきベッド上のタオルケット、枕はなぜかベッドの中央に放り投げられている。整頓の努力は見えるが、それでいてこれ――間違いない、ここは絢乃の部屋。
静かにドアを閉めると絢乃はドアノブを後ろ手に振り返った、希望の品を手にするまで帰さんとの気迫を双肩にみなぎらせて。
「先生はお姉ちゃんのこと――」が、絢乃はそこでちょっと思案を挟み、「違うな。えっと、お姉ちゃんは先生――、これも違うか、ええと、お姉ちゃんと――、違うなあ。あーもうどうしたらいいの。ホンット面倒くさい!」
それは一人で苦悩の演目でも演じているような迷走ぶりで、中田は笑いがこみ上げてくるのを感じつつ、しかしその意図は判然と伝わってこない。が、それもここまで。
「あー、もうこれでいいや」そして、絢乃は毅然と顔を上げた。「先生。先生には付き合ってる人いますか?」
(あれ。なんだ、そういう話か)
つまり、先程の組み手の変更は全て流美への配慮であって、中田に真意を隠匿した上で望む情報だけを引き出そうとした結果。失敗には終わったが。
(さて、どう答えたもんか)
相手は小柄ながらも突進力のある雌の猪、それも蹄をかきかき、今にも突進してきそう。でも相手は顧客、マタドールみたく、ひと突きにその息を寸断してはいけない。活殺の双方を同時に封殺せねば。老獪に。
「いないよ」中田は言った。「まあ、いたとしてもいないと言うけれども。ただまあ好みはあるかな。明確に」
「どんなですか?」
「まず歳は二十五以上であること」これは先制攻撃。「それから堅実な職業に就いていることで」これは子供の知見を凌駕するため「それから気性が穏和であること」で、極めつけはこれ。「で、あとは胸が大きいこと。ま、巨乳ってやつだな」
もちろん最後は冗談であったが、絢乃はこれに最も過敏な反応を――露骨な嫌悪の表情を――した。が、それも中田の算段。どうにか題目を転じられれば成功なのだ。
「先生サイテー」
「でもないさ。恋愛だって詰まるところは雄しべと雌しべ。生物界では普遍的で、それを人間だけは高尚だなんて胡麻化しちゃいけない」
「先生はお姉ちゃんが嫌いなの?」
「嫌いじゃないが」いきなり話が飛んで中田は失笑の面持ち。「でも人間の好悪って二種に大別されるものじゃないからね。もっと多様に分類される」
「つまりお姉ちゃんのことが好きじゃない――」
「ある観点から言えばさ。親愛や友愛の情なら持っているよ」
「お姉ちゃんはね」と神妙な顔で絢乃は言った。「頭が良すぎて他の人と話が合わないの。いつも独りぼっちで、クラスで孤立していて。いじめには会ってないみたいだけど、いつも空ばかり見てるって、ママが担任から聞いて心配してた。パパはあんなだし。昔はあんなじゃなかったんです、先生。もっと一杯笑ったり喋ったりして、もっと――何て言うか、お姉ちゃんらしかった」
(やはりそうだったか)そのとき頬杖も突かず教室の窓から青空を見上げる流美の姿が中田の脳裏をよぎった。
「先生、お姉ちゃんを助けてください。先生が来てからなんです、お姉ちゃんが昔みたいに感情を表現するようになったの。なんでお姉ちゃんじゃダメなんですか? 年齢なんて関係ないと思います。胸の大きさとかも。だから先生、お姉ちゃんと――わっ!」
「絢乃!」そのとき寄りかかる絢乃を押しのけ、流美が突然、ドアをこじ開け現れた。その顔には、まごう方なき憤怒の表情。そしてそのまま、よろめく絢乃を一心に睨みつけている。「アンタには関係ないでしょ!」
「だってお姉ちゃん――」
「だってじゃない!」
そして乱暴にドアを閉めると、ドスドスとくぐもった足音を響かせ、足早に遠ざかっていった。沈黙と停滞と呆然。が、そこはさすがの絢乃。
「先生!」
「ん?」
「追いかけて!」
「は?」
「追いかけて! お姉ちゃんを!」
(えっ、なぜ俺が? 何のメリットで?)
が、眼前には頑として厳しい表情の絢乃。そしてその力んだ指先は、外部を示して揺るぎそうにない。中田はこれを無視した場合の得失を考え、
(ここは……、大人しく随従した方が得策か)
「わかった。行こうじゃないか」
そのとき、玄関の戸の閉まる音が聞こえてきた。流美はどうやら戸外に出たらしい。が、これは中田にとって歓迎すべき事態ではないのだ。仮に留守中、春子が帰着するようなことがあれば、労働の放棄と見なされてしまうかもしれない。
が、さすがに姉妹、躊躇の気配を見て取った絢乃が、その素因を機敏に看破した。
「行って先生! 春さんにはうまく言っとくから!」
中田は愉快な気持ちで部屋を出た。が、門戸を開けたとこで春子に遭遇した。
「おっと!」
「まあ中田さん」春子は喫驚して後ずさったが、その顔は急にドアを開けるなんて非常識、そう言いたげだった。「どちらへ?」
「えっと」が、うまい言い訳が出てこない。「すいません、急ぎますので後日」
「さっき流美ちゃんも出てったみたいですが?」
「え? ええ、そうなんですが――、すいません」
そして春子を振り切った。
それから頭を切り替え、流美の行方を推量した。さて、流美ならどうするか? 春子は流美とすれ違ったと言っていたが、それはエレベーターでの降下を意味せず、その先の非常階段でうずくまっている可能性だってある。
(非常階段か屋外か。……いや、そうか、要は人気のない場所を探せばいいわけだ)
となると非常階段はない。そこは十階下の跫音でさえ高く反響させる人気の濃密な箇所。到底一人になれる場所ではない。
(外だな)
中田はエレベーターに乗ってロビーに降り、怪訝に思われない程度に左右を見回しながらエントランスを通過した。そして宵闇に飲まれるマンションの出入口付近で、再びの思案をした。
(まあ――。見つからないなら見つからないで構わないが)
マンションの前の道は緩やかな傾斜を為していて、左は軽度な下り坂、またその先には繁華な駅通りが控えている。他方右方は、人目の少ない閑静な住宅街であって、足の向きやすいのは下る左方だが……。
(いや、ここは閑静な方だな)
中田は右の小径を登り始めた。そして緩くうねる道を行進しながら突然冗談みたいな思考がわいたのに驚いた。この方角、この道を登った先には、先日流美が胸躍らせたあの蝉の公園が控えているのだ。もしかしたら流美は、そこにいるのではないか?
(ははっ、まさかな)
が、中田は行ってみることにした。それは流美の発見を念頭に置いたというより、自分の突飛な考えの的中を確かめたかったから。
細い坂を上がりきると平坦な住宅地で、たまに古色蒼然たるボロアパートの疲弊した踏ん張りは散見されるものの、多数は無個性な中層マンションか、瀟洒な三階式戸建て、または繁盛度合いの不明なガラスや木材などの工務店――午後八時過ぎでは、それらどれもが眠り支度をしだしている。粗雑な塗りの塀から突如真っ黒な影がボトリ――この界隈を根城にする黒猫の雄姿だ。途中ダンボールを値札にした古式の八百屋があって、その看板を照らす照明の灯光が、蛾や羽虫の熱愛を一心に集めていた。そこを過ぎると見慣れた分岐で、左に進めば中田の住居があり、右は例の公園。
中田は右に曲折して歩みを進めた。そして視界の突端に、かの公園が徐々に見えてきた。開かれた門口、鈍色に煌めく鉄柵の垣根、茫漠とした園内の敷地。果たして流美はここにいるのだろうか?
中田は入り口で園内を点検してみた。左方のベンチ、左奥のベンチ、右奥の砂場に中央の墓苑の如き寂寞の空間(が、そこは目を凝らすまでもなく無人の荒野)
(やはりいるわけが――)
いや、いた! 右端の鉄棒の区画、無骨なホッチキスの地面に刺さる辺りに、欄干に寄っかかって沈思するように鉄棒に寄り添うか細い女の影が一つ。流美に酷似している。
中田は一瞬見なかったことにしようかと逡巡し、しかし己の怠惰を叱咤すると少女の輪郭に近づいていった。これも大人の務め、忌避してはいけないのだ。そしてそれは確かに流美で、その流美も接近する形影に気がつき顔を上げた。ハッと息を飲んだのが中田にも感取できる。
「先生……」
「ダメじゃないか流美さん」中田は用意してきた一言を言った。「ちゃんとパソコンのある場所にいてくれなきゃ。ここまで電源コードは延ばせないよ」
「そうですね」すると憂色の相貌が微かにほころんだ。
「さ、戻ろう。流美さんには論理の山と格闘する大役が待っている」
「はい。あ、あの先生」
「ん?」
「先生はその――、どう思ってますか? 絢乃の言ったこと」
不明瞭ながらも瞬間考え、「……というと?」
「私と先生がその、付き合う、みたいなことです」
(ああ、そのことか)
中田は迷った。流美の問いに直言すべきか。過日の告白は取り消されていても、それが虚偽であるのは中田にも分かっていたのだ。流美は想いを残している。その無益な恋情を一挙手に寸断してやることこそ、大人の責務ではないのか。たとえ、それが自利に逆行する行為だとしても。また、それこそ流美の人生に裨益する行いになろうというもので、中田はずっとその自分の曖昧な態度に、後ろめたさを感じてきたのである。
「……分かったよ」中田は言った。「あのね流美さん。じゃあ良い機会だから率直に述べさせてもらう。僕と流美さんが恋人になることは、まずあり得ないことだと思っている。僕は今年で三十六になるオッサンだ。そのオッサンの目からすれば、君は可愛い容姿をした子供。つまり、庇護と慈愛の対象ではあるけれど、男女の対等な恋愛を築ける人間じゃあない。君だって小学生や中学生に恋愛感情は抱けないだろ? それと同じで、あと理由はもう一つ、他にある。それは僕が恋愛を逃避に利用してはならないと考えていることだ。失礼だけど流美さんは高校で孤立していると聞いた。それで僕は流美さんが孤独の救済を僕に求めているんじゃないかと思ったんだよ、申し訳ないけれど。で、僕はそれを認めるわけにはいかない。恋愛は人生を豊かにするものであって、決して苦境からの逃避に利用すべきものじゃない。僕は流美さんにそうしてほしく――」
そこで中田の脳裏は真っ白になった。中田の言説を聞き入っていた流美が、静かに指の腹で目を拭き取る仕草を三度――右を二回、左を一回――繰り返したのである。
「私は」涙に震える声で流美は言った。「私は悔しいです、先生。私は確かに一人です。クラスでも家でも、でもだからって先生を好きになったんじゃない。私は先生に甘えたいんじゃないです。私はただ楽しかった、先生と話していて。先生との議論が楽しくて楽しくて仕方がなかった、ただそれだけなんです。でも、それが不健全なのは分かっています。私が子供に見えることも、先生の迷惑でしかないってことも。だからあのとき、忘れてくださいと言った。でもきっと理解してもらえない、私の覚悟なんて。私はそれが悔しい。自分がそれを信じさせられるだけの年齢でないのも、その幼さを証明するように今、泣いてしまったことも」
そして一瞬、遅疑するような仕草をして「すみません、失礼します」
そして顔を伏し、中田の横を走り抜けていった。
一瞬の間があって、呆然としていた中田は意識を取り戻し、小さく笑った。
(これは――、傷つけちゃったかな?)
が、内心で茶化してみても中田の脳裏には今しがたの流美の面相――まつげを濡らしながらも毅然と冷静に自分を正視してくる端麗の相貌――が、くっきり消し得ぬ美質を持って浮かび上がっていた。
そしてその幻影は、なおも鮮明になおも印象を強くして、中田の心情を誘惑してくる。
(おいおい、相手は子供だぞ)
「嘘だろ」中田は愕然と呟いた。この感情、それは先刻明確に否定した可能性のはずではなかったか。
だが、その心象は帰宅した後も続いた。(中田が斎藤家に戻ったのが八時五十分過ぎだったため、その日の講義はお開きになった)
それは中田を苛み、同時に幸福感をもたらしもしたが、自分が流美の何に魅了されたのかの把握によって、中田を自由の野に解き放った。中田の心緒を惹いたもの――それは流美の抑制と気品の美。
それはただでさえ青春の懊悩募る中高時代に、孤立した状態にありながら他者への配慮を喪失しない理性と自尊心の表れ。そういえば流美の弱音を聞いたことがない――と中田は思った。声を濡らし涙を拭いながらも、必死に尊厳を保とうとするその自我のあり方こそ、中田の心魂を強く揺さぶったのだ。
すると、中田の脳裏にはある過去の一幕が蘇ってきた。それは流美が好意を撤回したあのエレベーターでのシーン。あのとき流美は、去りゆく中田に可愛らしい理性の笑みを送っていた。
(では、では、あのとき流美はどんな気持ちで……)
そう、あのとき流美は、自己の救済に手を振っていたのだ。人間への絶望をひた隠しに隠して。
(ああ、そうか)と中田は思った。(彼女は女性なんだ。まだ年端はいかずとも一人の女性なんだ)
そのときから中田の世界は一変した。
あらゆる色彩が復活し、あらゆる物体が命脈を持って息づいているかに見えた。さやかな緑樹からは、生命の香気が漂っているように感じられ、電線で羽をついばむ雀たちからは、日々を謳歌する充足の雰囲気が放散されている。蒼穹は昨日までの蒼穹ではなく、大気は単なる酸素と窒素と二酸化炭素の混合物ではない。そこには華やげる歓喜の予感が、潜在しているのだ。
それは諦めの閉塞感に咲いた一輪の可憐な花。再起のため、毎日職場と自室を往復する無彩色の励行も苦痛ではなく、徒に浪費される若さの実感に痛嘆することもない。生活の一刻一刻が躍動のリズムをもって進捗し、仕事にしろ家事にしろ、あらゆるものに活動の基本色が宿っている。世界は光輝に満ちている、まるで万華鏡のように。長かった荒涼の旅は終わりを告げ、ずっと前に死滅したと思っていた青春のロマン的心情が、壮麗に中田の胸臆を押し広げたのである。
それは縮小の予見された現代社会において、唯一無限に拡張できる領域。中田はその濃密な生命の香気を目一杯吸い込んだ。そして自分の心中を内省した。この微細な煌めきが万物に宿って見え、呼吸の度に未知のエネルギーが絶えず供給されてくるような豊満の感覚、これは――。
(恋だな)
恋! それは中田当人にも自嘲を催させる認識で、実際に笑いもした。が、嫌な気分ではなく、どこか清々しかった。
(運命――、いや、これこそ運命か!)
中田は愉快に笑い、そして「今度会ったら訂正してやらねばならんな」と楽しそうに呟いた。
それから数日、中田は流美をルノアールに呼び出した。
中田の当日の算段はこう。まず軽快な世間話――プログラムや学業のことなど――からスタートし、次に主用件たる運命の議論の展開――流美への誘いはこれを口実にしていた――、それからその運命観の転変を語って聞かせ、そこに至った契機について話題を転じてやる。転変の契機――流美との出会いだ。
そして、その流美がやってきた。流美は白とオレンジのチェックのシャツと七分丈のジーンズ、革の小さなポシェットの様相で、中田はその精一杯の華美を嬉しく思った。が、服飾の観賞もさることながら、中田は流美の表情の奥底に潜在する一つの期待に着目していた。それは中田を発見した瞬間の微かな双眸の変化にしろ、椅子を引いて淑やかに腰を下ろす態度にしろ、各所に表出していて錯誤の余地がない。流美は自分を好いている。中田は想いの成就を確信し、当初のプラン通り事を運んだ。そして話が運命論の変節にまで到達したとき、中田は落ち着いた冗談のにじまぬ口調でこう告げたのである。
「もしまだ僕に気持ちを残しているのなら、僕と付き合ってみませんか?」
流美は瞠若の目で中田を見つめ返し――しかし、その顔下半分は、両手で覆われ視認することができない。が、できないまでも、その瞳のまま、その驚喜のまま、YESの返答が首肯によって何度も示されてくる。
中田は安堵し、何か言い掛けようとして――そこで言葉を失った。二つ離れた席にいたマラソン姿の男が素早く立ち上がって、流美に近づき、その背後から腕をつかみ上げたのだ。見ればそれは斎藤氏。
「え、お父さん?」
「帰るぞ、流美!」
中田は立ち上がり掛けた――が、その機先を制すが如く、斎藤氏が鋭い牽制の視線と言葉で中田を縫い付けたのである。
「あんたもいい大人なら、これが異常だと分かるだろう!」
そして抵抗する流美を強引に引き、店を出て行こうとした。
その途中、引きずられながらも流美は、自分を見つめる背後の視線をしっかりと捕らえ、最後の抵抗にこう叫んだのである。
「先生連絡して! 絶対連絡して!」
二人は出て行った。
中田はいつの間にか立ち上がっていたが、ズルズルと椅子に身を沈め、それから索然とした心持ちで、真夏の繁華な往来を眺め続けた。が、脳裏で見ていたのは別のこと。まず真っ先に流美の先の顔が浮かび、そのときの叫喚が木霊する。
「絶対連絡して!」
が、その直後には天をもつんざくような霹靂の大喝が、情意一杯に轟くのである。
「あんたもいい大人なら、これが異常だと分かるだろう!」
それは社会の叱責そのもの。圧倒的な絶望が心中を支配し、自分は衝撃を受けている、愕然としている、そんなことすら自覚できなく、もちろんそのショックの根源など思い至ろうはずもない。
……数時間が経って、中田の対面に若い活発そうな女の子が立った。アルバイトの女性店員だ。
「あの、お客様。そろそろ閉店になりますが?」
見れば周囲は閑散。外には夜のとばりがすっかり落ちている。
「ああ、すみません」中田は慌てて立ち上がろうとして――、それからふと思い付いて店員を呼び止めた。
「あの」
「はい?」
「つかぬことをお聞きますが、もしも――、もしもですよ? 僕があなたと付き合いたいと言ったら、あなたはどうしますか?」
「え?」が、その顔は明確に引きつっていた。「いや、ちょっと……」
つまりはそういうことなのだ。
中田は自嘲的に小さく笑って、その笑いを収めると愛想良く言った。
「いえ、いいんです。ありがとう。ごちそうさまです」
(6)
メインストリートを外れて少し、小道の奥にライトに照らされた瀟洒な木製の扉が鮮鋭に浮かび上がる。中は安穏の個室。緩慢のジャズミュージックが掛かって、照明が優美な暮色の光量に押さえられている。天井には四拍子のファン。その羽の回転に合わせて、向かい合う男女の姿が一組――スーツの中田とエプロン姿の店主――が、羽の隙間から隠見する。
あれから五週間。ここは深夜のバー。
「――でね、思うわけですよ。これからもうちょっとしたら地方の再見が起こるんじゃないかって。現在の都会のメリットは人がいて仕事に溢れ、多くの遊興が氾濫していることだと思うんです。で、中でも重要なのが娯楽。これまでも在宅ワークと称する職務と職場の分離はあるにはあった。でも、都会からの離脱は起こらなかった――なぜか? それは地方には商店がない、娯楽がない、教育がない。欲しいときに欲しいものが手に入らず、遊びたいときに遊べる場所がない。その不便さが巨大なデメリットとなって、地方移住を尻込みさせてたんです。でも、それも間もなく覆される。ネットが娯楽も教育も果ては医療さえネットが提供し、実商品は配送によって大都市と大差なく享受できる。その配送も、いずれはドローンによる空輸か、自動運転による陸輸かで、人手を介さず実現されるでしょう。そうなればもはや混雑を極める大都会に居住するメリットは皆無。特に僕たち情報処理を主業務とする者には、在京のメリットなんてなくなるわけです。政府は地方再生としきりに唱ってますが、いいんじゃないですか、プログラマーだけの村」
中田はぐでんぐでんに酔っぱらっていた。それもそのはず、一次会でビールを一リットル飲み、二次会で焼酎を三杯、解散後に寄ったこの三軒目では、既にウイスキーを二杯も引っかけている。そして今が三杯目。
この日は週末、一次会とは中田の歓迎会のことで、中田は見事意中の企業に入社を果たしたのだ。
「いいですね」女店主は愛想良く言った。「でも、ちょっと寂しくなっちゃうな、中田さんが移住しちゃうと」
「その分お店の儲けが減っちゃうから?」
「バレました?」
「とうぜん。でも大丈夫、きっとドローンが無事配送してくれますよ」
「新潟まで、ですか?」
「ええ、しかも、チルドで。ただ、届くのが翌日の昼間になりそうですが」
「でも、そしたらちゃんと飲んでくれます?」
「どうでしょう? それは困るし、面倒だから、次からは樽ごと注文すると思いますよ、氷付きで」
「それじゃ私のお店に注文する意味ないじゃないですか」
そこで笑いが起こって、会話は一段落。中田は次の話題を探索し――が、思案が漂着したのは前々月末のこと。
(今頃)と中田は思った。(流美はどうしているだろうか?)
あの後中田は斎藤氏に呼び出され――しかもそこは因縁のルノアール――解雇の通達を拝受した。そしてその際、一枚の念書にサインをさせられた。それは流美との今後の一切の接触を禁止する誓約書。中田はそれを読みもせず署名した。が、その間、軽蔑に絶えないといった冷視の視線が、伏した頭頂部の近辺に鋭く突き刺さるのを感じ取っていた。今顔をあげればきっと生の嫌悪にぶち当たる。でもそれは不当でもなんでもなく、甘受せねばならぬこと。
書き終えたのを見計らって斎藤氏が言った。
「判子は持ってきてますか?」
「いえ」
「ではこれを使ってください」それは中田と彫ってある印鑑。「で、印が名前の端に重なるように捺印してください」
中田は指示通りにした。
すると斎藤氏は紙を取って顔の位置まで持ち上げ、内容を再検し始めた。手持ちぶたさな時間が流れ、そこで中田は、つい流美の動静を聞いてしまった。
「あの、流美さんは元気でやっていますか?」
が、応答はなかった、少なくとも口頭では。というのも斎藤氏はそのとき、念書の横から片目だけをチラッと覗かせ、そこに思念を込め送ってきたのだ。一秒足らず、でもじっと、呆れと侮蔑と嘲笑を暗然と込めて。
確認が終わると斎藤氏は紙を三つ折りにし、ジャケットの内ポケットに仕舞った。そして、ある一言を言い残し足早に立ち去っていった。
「やはりいい歳した独身の男はダメだな。春さんには感謝しなければ」
それはつまり、斎藤氏の出現に春子の関与があったということ。中田はこの一言をこう解釈した。
(春子はつまり、講習の監督者ではなく、俺の無分別への監視者だったってわけだ。あの日、斎藤氏が喫茶店に現れたのも、春子の報告をもとに探偵でも雇っていたのに違いない。恐るべきは金権の力、それと親の保護意欲か)
以来、斎藤家とは接触を絶っている。全ては終結したことなのだ。にも関わらず、中田の脳裏には、あのときの斎藤氏の言辞、あのときの目の輪郭が、まざまざと悔しさを伴って想起されるのである。そしてそれは、このときも。
(俺だって)と中田は思う。(俺だって好きで一人でいるんじゃない)
中田は残りの酒を一気に飲み干し、それから誰にともなくこう話し出した。
「最近ね、よく思うんです。僕は一体何のために生きてるんだろうって。結婚も子供も将来も望めず、ただ起きて出勤して、返ってきたら酒を飲んでそしてまた寝て。ただその繰り返しに、一体何の意味があるんだろうって。労苦も恥辱も誰かに継承できず、誰とも共有できないのに、一体誰のために生きてるんだろうってね、さいきん、そんなことばかり考えるんです」
(ああ、意義が欲しい。この生を見送るだけの人生に何か、意義が)
そして空のグラスを回し続けた。
店主はしばらくそれを困惑の微笑で眺めていた。が、それから大仰に手を打った。「そうだ!」
そして背後の棚の中段にある飴色の瓶を手に取って、「甘めの華やかなウイスキーが手に入ったんです。どうです? 一杯。就職記念に半値でサービスしておきますよ」
が、気を引いたのは一瞬だけ。中田は一瞥の後、再び沈思の谷に落ちていき――、が、その視線が急調に戻ってきた。
「前のやつ」
「え?」
「前のやつを下さい。以前おすすめいただいたやつです。確かスコッチで――グリーンの瓶の」
「えっと、ラフロイグですか? でもあれ、お口に合わないんじゃ――」
「いいんです。あれを下さい」
店主はしばらく呆然としていたが「……分かりました」
酒が注がれた。中田はそれを受け取ると少しの間薫香を嗅ぎ、ゆっくりとグラスを傾け、それから少量、口に含んだ。
くすんだ芳香、暗色がかった軽い苦みが鼻孔一杯に広がり、熱が五臓の隅々にまで染み渡ってゆく。心の中までも。
「……やっぱりお口に合いません?」
「いえ、美味しいです」中田はグラスを眺めた。「人生の味がします」




