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生きていること

作者: 月神樹
掲載日:2016/02/05

開幕

〈チェシャ猫の部屋〉

やぁ久しぶり。それとも初めましてのほうがいいかな?ニャハハハ。

ようこそアタシの部屋へ。

ずいぶん驚いた顔をしているね。

四方八方が本で埋め尽くされているこの部屋がそんなに珍しいかい。

ここは様々な物語が溢れている場所。

普通の人間には見つけられない場所なんだけど、キミは迷子かな?シシシッ。

えっ?もう迷子になる年齢ではないって……シシシッ。

そんなのこと関係ないさ。

ここにたどり着いた時点でキミは立派な迷子だよ。

なんの迷子なのかはあえて言わないけど。

さて、迷子のヒマつぶしに好きな本を選ぶといい。

どれもこれも実際にあった物語ばかりさ。

退屈な日常から奇妙な出来事まで……

キミは何を選ぶ?

ん?どの本も同じに見えるって。

確かにパッと見はそうだけど、よく見てみなよ。

微かに模様や色、厚さ、それにキズなんかも違うだろ。

なにより同じ名前が刻まれた本はここには存在しないんだ。

この世に同じ人間がいないように本もまた然り……ってね。

理解なんかしなくてもいいよ。最初から求めてないから。シシシッ。

おや、それを選ぶんだね。

それは『過去を変え、未来を変えようとした少年』の物語さ。

読み手を変えれば悲劇にも喜劇にもなる……アタシのお気に入りの物語さ。


もう何度目なんだろうね?


ページをめくる音がした。

チェシャ猫は物語を読み始めた。



第一幕

人間は必ず後悔をする生き物である。何かの本にそう書いてあった。後悔をしてそれを背負って生きていくことができるのが立派な人間らしい。

なら今の僕はなんだ?

後悔から逃げて、引きずってだらだらとした死にぞこないの僕は立派な人間と果たしていえるだろうか。

答えは言わずとも知れる否だ。

立派ではないが親不孝者ではないことだけは確かだ。

そこそこの大学に通っているし、運動もそこそこできる。

夏休み中は八つ下の妹の遊び相手になりまくっており、課題は手付かず。

しかし、妹は両親と遊園地に行っていない。

真夏の日曜日に遊園地に行くとは我が妹ながら勇者である。

僕なら灼熱地獄と人込みで十分で病院行きなので断った。妹は不服そうだったが、たくさんお土産を買ってくると言って出かけていた。妥当なチョコクッキーがいいと伝えたが妹の耳に届いているかは不明だ。妹は土産のセンスがイマイチおかしい。妙な味のお菓子やどうやって使用するのかもわからない変なおもちゃを好んで買ってくるのだ。

それはさておき、この家には僕しかいない。そして時刻は昼過ぎ。

つまり何が言いたいかと言うと、昼ご飯を作るのが面倒だ。

課題をやるのも面倒。

カップラーメンぐらい作れるが、冷房の入った部屋から出たくない。

人間とは勝手な生き物だ。


もし、あの人ならどうするだろうか?

ふと小さい頃、兄のように慕っていた人のことを思い出した。

暑さに構わず仕事をしているのだろうか。

それとも彼女とデートでもしているのだろうか。

そもそも仕事は何をしていたのか、彼女がいたことさえ僕は知らない。

僕は何も知らないままあの人と逢えなくなってしまった。

名前すら知らない、憧れたあの人はもういない……

もし、あの人と出会わなければあの人は希望に満ち溢れた未来があったかもしれない。

もし、あの時僕が道に出ていなければ事故は起こらなかったかもしれない。

「過去を変えられたら……」

もし、あの時僕が代わりになっていたら……あの人は。

あるいは……。

「僕が産まれてこなければ……」

あの人は僕を庇って死ぬことはなかったかもしれない。

そうだ。僕さえいなければ幸せになってたかもしれないんだ。

あの人の分まで生きようと思っていたけど、どう生きればいいかわからない。

僕には夢も趣味も何もない。

こんな何もない自分が嫌で嫌でたまらない。

いっそのこと誰か僕の心臓をナイフで止めてくれないだろうか。

そうすれば、少しはあの人への償いになるのではないだろうか。


鈴の音が聞こえたような気がした。そして、

「キミの願い叶えてあげよっか?ニャシシ」

突然の声に驚き椅子から転げ落ちながら顔を向けると、

「やぁ、後悔に縛られる可哀想な少年。初めましてかな?シシシッ」

女性というより少女に近い人物が笑いをかみ殺し、けど口元の笑みは隠さずに僕を見下ろしていた。

灰色の髪を揺らし、首元に鈴を下げ、病的な真っ白な肌とは対照的に真っ黒なワンピース姿の少女はどこか浮世離れしているが美しかった。

「いやーいい反応だね。でも在り来たり過ぎて見飽きちゃったよ。ニャハハ」

整った顔を歪めて嗤う少女。首から下げられた小さな鈴が嗤う度に心地良い音色を奏でる。

歪めた顔を片手で隠しながら僕を見る瞳は冷たく楽しそうだった。

「さて、説明してもキミは理解できないだろうから本題に入っちゃおっか。シシシッ」

スッと白い小さな手を差し伸べてきた。

「過去へ行くこと。それがキミの願い。この気まぐれな案内人チェシャ猫が叶えてあげよう」

理解するより先にその手を掴んだ。

白い光が身体を包み込んでいく。

完全に呑まれる前にある物を机の引き出しからポケットに入れた。

「さて時間旅行といきますか!ニャハハハ」

チェシャ猫が楽しそうに嗤い、僕は意識を失った。




目を覚ますと何もない部屋にいた。

白昼夢でも見てたかのように頭がふわふわする。

やけに肩が重い。

「ここは十九年前のキミの部屋。つまりキミが産まれる少し前ってことだね。シシシッ」

肩に乗っている灰色の猫が言った。首には鈴が下げられている。

声と話し方から察するにチェシャ猫だと分かる。

分かるのだが……

「人間だったり猫だったりお前は何だよ!」

言わずにはいられなかった。

払い落とそうとする手をひょいっと躱し優雅に床に着地するチェシャ猫は不気味に嗤った。

「アタシは気まぐれな案内人チェシャ猫。まあ、キミのような普通の人間には理解できないだろうね」

目を細ませて嗤っているようだが、どこか悲しんでいるようで引っかかった。

「あとはキミ次第。アタシは傍観者になることにするよ。シシシッ」

軽やかに肩に乗ってきたが振り払うのも面倒なのでそのままにした。


音をたてず、息を殺して階段を降りる。

勝手知ったる家だが何故が緊張してしまう。

一階に降りるとリビングから話声が聞こえた。

そっと覗き込むと、膨らんだお腹を愛おしそうに撫でる母さんの姿があった。

隣には優しく付き添う父さんの姿。

僕が知っているよりも若い、幸せそうな夫婦だ。

込み上げてきた思いは暖かく優しく胸に広がっていった。

けれどそれはすぐに罪悪感に変わる。

僕が産まれてきたからあの人は死んだ。

それが事実であり僕の呪縛。

変えなければいけない過去。

「ごめんなさい……」

小さく呟いて家をでた。


勝手に草履を借りてしまったが、使ってなさそうだったし問題ないだろう。

しばらく当てもなく歩く。

十九年前となると街並みずいぶん違う。

空き地や田んぼが目立つなんの変哲もない穏やかな風景。

少し怖かった。

たった十九年でこれほど変わるなんて、まるで知らない世界に来たみたいだ。

「怖がることはないさ。ここはキミが産まれ生きていく街なんだからさ。シシシッ」

励ましてくれてるんだろうか。

それにしても癇に障る笑い方はどうにかならないものか。

「なぁ僕はこれからどうすればいい?」

「自分が望むとおりにすればいいニャーア」

人が真剣に聞いているのに欠伸混じりに答えるチェシャ猫。

暑いし、重いので肩から払い落とす。

「ひどいにゃー」

と言いつつ優雅に着地する。

仕方ないからついて来いと言う目で僕を一瞥し、歩いていく。

素直について行くのが癪だったが、ついて行くとそこは公園だった。

あの人と初めて会い、会えなくなった場所でもある。

「ここに何かあるのか?」

案内してきたチェシャ猫は日陰のベンチで昼寝を始めていた。

「おい!なんでここに連れてきたんだよ!」

起こそうと身体をゆすったが「うるさい」と言われ噛まれた。

こいつ昼寝のためだけにここに来たんじゃないよな。

恨みったらしくチェシャ猫を睨んだが、構わず昼寝を続けている。

何もすることがないので、自販機で水を買いチェシャ猫の隣に腰掛ける。

水をかけたらいくらなんでも起きるよな。

そんなことしたらまた噛まれそうなのでやめた。

噛まれた手には赤い線がくっきり残っている。

真っ青な空を仰ぐと、真っ白な入道雲。耳には痛いほどの蝉の鳴き声。

まさに夏真っ盛り。

この炎天下にも関わらず子ども達は元気に遊んでいる。

どこからそんな体力が溢れ出るのか不思議でならない。

昔の僕も暑さを気にせず遊んでたのだろうか。

あの人も今の僕のように子どもの体力を不思議がっていたのだろうか。

目を閉じると昨日のことのように蘇る。




『キミは友達と遊ばないのかい?』

コクリと頷く。

『一人は寂しくない?』

少し考えて首を横に振る。

『なら、僕と遊ぼう』

独りぼっちの僕に二十代ぐらいの男性が手を差し伸べてくれた。

大きくて温かな手を握るとホッ安心した。

名前を聞くと曖昧に笑って教えてくれなかったけど、僕は嬉しかった。内気でひとりぼっちの僕に遊んでくれる初めての友達ができた。

毎日毎日、炎天下の中僕と遊んでくれて嬉しかった。

しかし、終わりは突然に現れる。

サッカーボールを追いかけて道に出たとき、劈く車のブレーキ音が聞こえた。

気が付けば身体に衝撃が走っていた。

痛みに耐え身体を起こすと目の前は真っ赤だった。

その赤の中心にはあの人が倒れている。

僕を庇ってあの人が車に轢かれたことを理解するのに時間がかかった。

車の走り去る音を聞きながら僕はあの人に駆け寄る。

何度も何度も謝った。

涙が溢れても謝ることはやめない。

そんな僕にあの人は笑いながら涙を拭ってくれた。

『―――――』

蝉の鳴き声が僕を責めているようで怖かった。

怖くて怖くて僕は、逃げてしまった。

あの人が最後に何を言っていたのか今でも分からない。

否、怖くて想い出せないのだ。

その日以降、あの人は公園に来ることはなかった。




「ユウマ!しっかりして!」

女性の悲鳴じみた叫び声で目を開ける。

砂場のあたりに先ほどまで遊んでいた子ども達とその母親達が集まっていた。

只ならぬ雰囲気に駆け寄ると5歳ぐらいの少年が母親の腕の中でぐったりしていた。

この炎天下の中、帽子も被らず水分も取らずに遊んでいたのだろう。

「熱中症だと思います」

母親に声をかけ、少年を抱えて日蔭のベンチに寝かせる。

チェシャ猫が邪魔だったので払い落とした。

救急車を呼ぶためスマホをポケットから取り出そうとするがどこにも入っていない。

「救急車に連絡をしてください」

一人の母親にそう言うと別の母親達にタオルやハンカチを借り、水で濡らし少年の身体を冷やす。

先ほど買った水を飲ませて考える。

次は何をやればいいんだ?

そうこうしている内に救急車が到着し、少年と母親は運ばれていった。

あの少年は大丈夫だろうか。

心配は残ったが僕に出来ることはもう何もない。

母親達に感謝されたが、僕は逃げるように公園を去った。

だって僕は―

「だってこの時代にキミは存在しない人間なんだからねーニャーア」

いつの間にか肩に乗ったチェシャ猫が欠伸混じりに言った。

そうだ僕はこの時代にはいない人間なんだ。

だからこの時代の人と関わりを持ってはいけない。

「あんな些細なことで未来が変わるとも思えないけど。シシシッ」

チェシャ猫はそう言うが僕はもう誰かの未来を変えたくない。

あの人みたいに―

人の命は簡単に消えてしまうのだから。


がむしゃらに走ったためここがどこなのか分からなくなった。

ひとまず落ち着くために石段に座る。

ここは周りを林に囲まれているので涼しかった。

ボーっと物思いに耽る。

僕は何故この時代に来た?

チェシャ猫は僕の願いを叶えると言った。

僕の願いは僕の存在を消すこと。

けれど僕は今もこうして存在している。

チェシャ猫は何を考えているんだ。

再び昼寝を始めたチェシャ猫の背中を撫でる。

モフモフとした毛並は手触りが良く何度撫でても飽きなかった。

気持ちよさそうに喉をならしている。

普通の猫みたいだ。



しばらくチェシャ猫と戯れていたら話し声が聞こえた。

咄嗟にチェシャ猫を抱えて茂みに隠れる。

「やっと来たにゃーあ」

チェシャ猫は欠伸をかみ殺し伸びをしながら面白そうに嗤う。

時刻は夕方。

茂みの影から覗くと見知った人影が現れた。

「母さんと父さん?」

なんで二人がここに。

「本当に一人で大丈夫か?」

「心配しなくても大丈夫よ。会社に呼び出されたんでしょ。早くいってあげて」

父さんはすまなさそうに駅に向かった。

見送りが終わると母さんはゆっくりと石段を上がっていった。

母さんの上がっていった先を見ると鳥居があった。

思い出した。

ここは神社だ。

妹がお腹にいたときよく母さんに連れて来てもらった場所。

「やっと本題に入れるよ。ニャハハハ」

なにが面白いのかチェシャ猫は嗤う。

嗤っていないときはなかったがその嗤いは今までよりも不気味に感じた。

「キミは選ばなければならない」

嗤いをかみ殺し改まった口調で話し始めた。

「何をだよ?」

そう言った僕を嘲笑うかのように上目づかいにチェシャ猫は言う。

「気づいてるくせにーシシシッ」

冷たい手で心臓を握られた気分だった。

そう、僕は気づいている。

人気のない神社。

一人になった母さん。

そして僕のポケットの中には―

「キミは自分がいなくなればいい。そう願ったんだ」

囁くのは天使か悪魔か。

ああ、そうだよ。

僕はそう願った。

ポケットからある物を取り出す。

過去に来る前に咄嗟にポケットに入れたもの。

それは折り畳み式のナイフ。

刃渡りは十五センチほど。

夕日を眩しく反射させる。

「キミの選択肢はいたって簡単。殺すか殺さないか。殺せば未来は変わるし、誰も殺さなければ何も変わらない。ああ、大人しく元の世界に帰るって選択肢もある。さて、キミは何を選ぶ?」

僕を試すかのように怪しげに嗤う。

引き返すなら今の内だ。

これ以上行けば戻れなくなる。

けれど、そうしてしまえばまたあの日常に戻ってしまう。

あの人を死なせてしまったことを後悔し、生きる意味を持たずただのうのうと暮らすだけの日常に。

未来を変えるんだ!

僕が存在しない、みんなが幸せになれる未来に。

ナイフを握り絞める。




石段を上がりきり、神社に手を合わせている母さんの後ろ姿に声をかけた。

「あの……」

ナイフを後ろに隠し歩み寄る。

「あら、こんばんわ」

にっこりと微笑む母さん。

罪悪感が心臓に纏わりつき息ができなくなる。

「……こんばんわ」

言うのが精一杯だった。

もう少し距離を詰めなければ。

震える足を引きずって歩く。

「無事にこの子が産まれますようにってお参りしてたの。あなたは?」

母さんは膨らんだお腹を優しく撫でる。

無駄なんだよ……

ごめんなさい母さん。

勢いよく一歩を踏み出し、ナイフを振り上げた。

ナイフは深々と母さんの心臓を貫く。

肉を切り裂く嫌な感覚が手を腕を伝い全身に広がる。

ナイフを引き抜く。

更に嫌な感覚が身体を蝕む。

母さんは呆然と僕を見て地面に崩れ落ちた。

日が沈み僕の服は赤黒く濡れている。

現実味がないけれど確実に人を殺した。

母さんを殺した。

「これがキミの選んだ答えなんだね」

目の前に座るチェシャ猫が嗤う。

真っ赤に染まった手を見ると半透明になっていた。

これで僕は消える。

これで僕はあの人を殺さずにすむんだ。

「チェシャ猫短い間だったけどありがとう」

にっこりと笑いかける。

するとチェシャ猫は首をふる。

「嫌でも近いうちに会えるよ。シシシッ」

意味深に嗤う。

どういう意味か聞こうとしたがもう声が出ない。

どうだっていいや。

僕はここで消えるのだから。




気が付くと真っ暗な空間。

上も下もない真っ暗なその場所に僕はいた。

僕は死んだはず……だよな。

「確かにキミは死んだよ、あの世界ではね。ニャハハハ」

独特な嗤い声を上げながら灰色の髪の少女が現れた。

「どういう意味だ……チェシャ猫!」

「おー怖っ。いたいけな少女に怒鳴るなよ。シシシッ」

実に面白そうにチェシャ猫は嗤う。

僕は母さんを殺した。

僕は消えたはずだ。

なのにどうして、僕はまだ生きている。

「ここは世界を繋ぐ分岐点みたいなところさ」

チェシャ猫は語る。

まるで物語を読むかのように。

「キミは確かに死んだ。あの世界ではね。でもなんで今キミがここにいるのかと問われれば答えは一つ」

満面な笑みを貼り付けて言う。

「あれはキミが本当に望んだ未来ではないからだ」

ニャハハとチェシャ猫は高嗤う。

楽しそうに悲しそうに。

言葉に詰まった。

僕がいなくなることが僕の願いのはずだ。

それが僕の望みではないとはどうゆうことだ?

「あー違う違うそこじゃないんだよなー」

呆れたように窘めるチェシャ猫。

「母親を殺すことがキミの望みではなかったとアタシは言いたいわけさ」

そう言いチェシャ猫は僕の前にキューブのようなものを出した。

中を覗くと血塗れで倒れる母さんの姿。

僕が殺したのだ。

突きつけられる現実が胸を締め上げる。

辺りが真っ暗になった頃、一人の人影が母さんに近づく。

父さんだった。

父さんは泣き崩れ母さんを抱きしめる。

厳格な父さんがこれほど取り乱す姿を初めて見る。

父さんは母さんを抱きかかえ、どこかに歩き出した。

おぼつかない足取りで向かった先は、遮断機が下り始めた踏切だった。

「なにやってるんだよ……父さん」

止めるにも手も声も届かない。

猛スピードで電車が迫ってくる。

「やめろ……やめてくれ!!」

僕の叫びを嘲笑うかのように、電車は二人を飲み込んだ。

電車が通り過ぎた後は真っ赤に染まり肉片が散乱していた。

「あっ……こんなこと……僕は望んでなかった」

嗚咽を漏らして頭を抱えた。

こんなことになるとは思わなかった。

こんな終わり方になるなんて……

僕は知らなかったんだ。

父さんがどれだけ母さんを愛していたかなんて。

こんな誰も幸せにならない世界僕は望んでない。

「これでわかっただろ?キミが選んだ選択はキミが望むものではなかったと」

チェシャ猫が満足そうに頷く。

「安心しなさい。もう一度キミに選択肢をあげる。アタシがここにいるのはそのためなんだから」

優しいチェシャの声。

「世界は無限に広がっている。パラレルワールドってやつさ。あの世界で失敗したなら別の世界に行ってみるのも一興だと思わないかい」

「チェシャ……僕はっ!」

涙を拭う。

「僕は望む!僕だけがいなくなる世界を!」

僕だけがいなくなる幸せな世界を僕は望む。


複雑にチェシャ猫は嗤い。

「ニャシシ……時間旅行にごあんなーい」

真っ白な光に包まれる。




ナイフを後ろに隠して石段を上がりきる。

こちらに背を向けてお参りする母さんの姿。

ギリギリまで近づく。

「あら、こんばんわ」

僕の気配に気づいたようで振り返りにっこりとあいさつをする。

「……こんばんわ」

目線を合わせられない。

ナイフを強く握り絞める。

「あなたの息子を殺しに来ました」

言い終わる前に母さんの膨らんだ腹にナイフを突き刺す。

何度も何度も。

母さんの悲鳴が耳を劈く。

僕を見上げる母さんの瞳は何が映ったんだろう。

僕への恐怖?

倒れた母さんにさらにナイフを振り下ろす。

確実に僕を殺すために。

抵抗がなくなったところでやめる。

吸う息は鉄の味がし、吐き気さえ覚える。

けれど頭はいたって冷静にことの現状を把握する。

涙を流し血だらけの腹を抱え、意識を失った母さん。

返り血だらけの手は半透明に消え始めた。

これでいい。

小さく笑うと膝を付き母さんの涙を拭う。

親不孝な息子でごめんなさい。

でも、大丈夫。

十年後に妹が産まれるから、僕の代わりに妹を大切にしてあげて。

我が儘ですぐ泣くけど、嫌いになれない。僕のたった一人の妹。

「僕を愛してくれて……ありがとう」

この声が届かないことは知っている。

それでも伝えたかった。

「さよなら……母さん」

夕日が沈むように、僕の身体も消えた。




また真っ暗な空間。

なんでまた!

これも僕が望んだ未来ではなかったのか。

「チェシャ」

鈴の音が聞こえたほうに目を向ける。

「理解が早くて助かるよ。ニャシシ」

首元の鈴を弄びながら面白おかしく少女が嗤う。

「キミの消えた後の世界はどうなったでしょうか?シシシッ」

掌にキューブを取り出し、僕に差し出す。

覗き込むと腹から大量に血を流す母さんの姿が映し出されていた。

まさか大量出血で死んだりしてないよな……

悲鳴を聞いて駆け付けたのか知らない人が母さんを発見し救急車を呼んでくれた。

ホッと胸をなでおろす。

母さんは死んでいない。

病院に運び込まれたが、お腹の子は助からなかったようだ。

この世界で僕は確実に死んだ。

僕が望んだ通り。


連絡を受けた父さんが病院に駆けつけ泣き崩れる母さんを慰める。

父さんの目からも涙が零れた。

胸が痛んだ。

僕がこの二人を悲しませた。

けれど二人なら大丈夫だ。

妹が産まれれば僕が消えたことの悲しみは癒えるはず。

だから、二人ともそんなに悲しまないで。

僕のために涙を流さないでくれ。

知らないうちに涙が頬を伝った。


退院した日、母さんは首を吊って自殺した。

その死体を発見した父さんも手首を切り風呂場で自殺した。

二人が死ぬことは望んでいなかった。

「なんで……僕なんかが死んだだけでそんな……」

最後は自殺とか笑えない。


「チェシャもう一度だ!もう一度……」

次は二人を死なせたりしない。


チェシャは悲しそうに目を細め、何も言わずに僕を過去へ送った。



それから何度も僕は僕を殺した。

腹の中にいる僕。

産まれてすぐの僕。

産まれて数ヵ月の僕。

初めて母さんを呼んだ僕。

歩けるようになった僕。


ありとあらゆる僕を殺したけれど結果は変わらなかった。

母さんと父さんは泣き崩れ、そして自殺した。

何度繰り返してもその結果だけは変わらなかった。

勿論、殺し方も変えてみた。

ナイフで刺したり、首を絞めたり、火炙り、溺死、二人の目の前で殺したり、誘拐してそれから殺したり、生き埋めにしたり……

何をやっても変わらなかった。

頭がおかしくなりそうだ。

殺してきた僕は皆恐怖に引きつった顔をしていた。

今の僕はどんな顔をしているのだろうか。




真っ暗な空間で僕は絶望した。

僕を殺せば二人が死ぬ。

けれど僕が生きていればあの人が死ぬ。

八方塞がりだ。

そもそもなんで、僕なんかのために二人は死を選ぶんだよ。

鈴の音がした。頭を上げるのが億劫だ。膝を抱えて俯いていると、

「わかっただろ。キミがどれほど二人に愛され、望まれて生まれてきたか」

チェシャが優しく語り掛ける。

「そんなこと、始めから知ってた」

そう知ってて僕は僕がいない世界を望んだんだ。

僕の周りには失敗したパラレルワールドの残骸が散乱している。

「チェシャどうすれば二人は死なないのかな?」

涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げてチェシャに聞く。

「親にとって子どもは掛替えのない存在さ。それは変えようのない事実。キミはそれを受け入れ、選ばなくてはならない」

冷たいナイフで胸を抉られたような感覚。僕が殺した僕もこんなに痛かったのかな。

それは何もせずにもとの世界に帰れってことか。

そんなこと出来るわけがない。

チェシャは首を振る。

「キミはもう気づいてるはずさ。自分がどうするべきか。あとは受け入れる勇気を持つこと」

細められた瞳は僕を責めるものではなく、悲しくて暖かいものだった。


その瞳を見つめていると、あの人が最後に残した言葉が蘇った。

『僕のために悲しまなくていい。もう十分大切な人を悲しませてきたから。だからきみは僕のようにならないでくれ。僕のことは忘れて、きみはきみの世界で生きろ』


僕は……

涙を拭う。

もう逃げない。

あの人が言ってくれたように、僕は僕の世界で生きる。

たとえそれがあの人が望む世界ではなくとも……


「チェシャ頼む!」

「いい目だ」

チェシャは優しく微笑むと言った。

「これでお別れだね。アタシは……本当はキミを救いたかった」


真っ白な光が僕を包む。


「それでは最後の時間旅行にごあんなーい……ニャシシ」

湿っぽいチェシャの声が妙に耳に残った。




夕暮れ時、僕は石段を上がらずに茂みに隠れたまま時間がたつのを待っていた。

そばにチェシャの姿はもういない。

少し心細い。

それは過去に来て初めて抱く感情だった。

いつの間にかチェシャは僕にとって大切な存在になっていたのだ。

最後にお礼ぐらい言っとけばよかったかな。


『それはすべて上手くいってから言うセリフだよ。シシシッ』


風に乗ってそんな声が聞こえた気がした。




辺りが暗くなった頃、石階段を下りてくる足音がした。

見上げると慎重に一歩ずつ下りてくる母さんの姿。

膨らんだお腹を大切に撫でながら愛おしいほどに微笑む。

何度も見た光景。

そしてあと数段といったところで踏み外す。

「危ない!」

母さんが踏み外すことを知っていた僕は素早く動き、支える。


『それはすべて上手くいってから言うセリフだよ。シシシッ』


風に乗ってそんな声が聞こえた気がした。



辺りが暗くなった頃、石階段を下りてくる足音がした。

見上げると慎重に一歩ずつ下りてくる母さんの姿。

膨らんだお腹を大切に撫でながら愛おしいほどに微笑む。

何度も見た光景。

そしてあと数段といったところで踏み外す。

「危ない!」

母さんが踏み外すことを知っていた僕は素早く動き、支える。

母さんの肩ってこんなに小さかったんだな。

「あ、すみません。ありがとうございます」

母さんは深く感謝した。

そして愛おしそうにお腹を撫で話し出す。

「この子もうすぐ産まれるんです。危ないところ本当にありがとうございました」

「いえ、たいしたことは……」

やめてくれよ母さん。

僕は何度もその子を殺し、母さんを苦しめて殺してきたんだ。

「それでは」

頭を下げ家に向かう母さんの後姿に。

「あの!」

小首を傾げて僕の方を向く。

まともに目を見れず、逸らしながら聞く。どうしても知りたかったこと。

「その子の名前……もう決まってるんですか?」

優しく微笑みなながら答えてくれた。

(マモル)っていいます。誰か大切な人も護れるようにと願いを込めて名付けました」

去り際に会釈をし、

「護もあなたのように優しい子になってほしいわ」

その微笑が脳裏から離れなかった……

母さんが立ち去ってから僕の膝は力がなくなり崩れ落ちた。

目からは大粒の涙が溢れだし止まらない。

いつからだろう……

忘れてしまっていた……

その時、改めて僕は自分がしてきた愚かさを知った。

僕は最低だ。

あんな……あんなに僕のことを愛してくれている母さんを悲しませることを今までしてきたんだ。

胸が苦しい。

息が上手くできない。

自分で自分を殺したくて、でもそれすらもできなくなって……

でも、僕にはまだこの世界でやるべきことがある。

チェシャ最後まで見ていてくれるかい。

これから僕は自分で選んだ未来を進む。

もっと他に方法はあるのかもしれないけど、僕は僕がしたい選択をするよ。

たとえチェシャに愚かだねと嗤われることになっても。

僕は後悔のない世界を選ぶよ。




五年の歳月が過ぎたある夏。

公園で一人の少年が砂場で遊んでいた。

「キミは友達と遊ばないのかい?」

少年はコクリと頷く。

「一人は寂しくない?」

少し考えて首を横に振る。

「なら、僕と遊ぼう」

差し伸べた僕の手をぎこちなく少年は握ってくれた。

「きみ名前は?」

「護!大切な人を護るって意味なんだ!」

先ほどまで俯いていた少年はどこか誇らしげに自分の名前を言う。

「お兄ちゃんは?」

僕は微笑み誤魔化した。

あの時あの人がそうしたように……


  

幕間

〈チェシャ猫の部屋〉

やぁ、おかえり。それとも、ようこそかな?シシシッ。

迷子のキミにはどれも似つかわしくないな。

そんなことより今回の物語はどうだった?

アタシはキミの感想が聞ければそれで満足さ。

アタシ結構、少年のこと気に入ってたから救いたかったな。

少年の願いは叶えられなかったけど、これが少年の選び望んだ未来ならアタシには文句を言う資格なんてない。

無論、キミにもね。

アタシからするとこれはよくある……在り来たりな話しさ。

そろそろキミも帰るといい。

迷子になったからには帰る場所が必ずあるはずさ。キミが自覚してないだけで。



さて、アタシは次の物語を捜しに行くとしますか。

では、また機会があったら会いましょう。ニャシシシ。




本を閉じる音がした。

チェシャ猫はどこかに消えてしまう……はずだった。




「そんなの私は認めない!」



第二幕

夕方。

「ただいまー」

私は急いで靴を脱いでお兄ちゃんの部屋に向かった。

可愛いイラストが描かれた缶箱と今日の楽しかった思い出を抱いて。

今日は遊園地に連れて行ってもらった。本当はお兄ちゃんとも行きたかったが、面倒くさいと言って来てくれなかった。口ではそう言っているが本当は行きたかったはずだ。夏休みに入ってからずっと遊んでいたから宿題が溜まっているから面倒くさいを言い訳にしたのだ。全く仕方のない兄である。

今日はそんなお兄ちゃんの分まで楽しんできた。お土産もすっごく悩んだ。コンソメ風なめたけ梅干し味のクッキーに心惹かれたが、チョコ味がいいと出かける前に言われていたので断念した。その代り一番カワイイ缶箱を選んだ。

お兄ちゃん喜んでくれるかな?

ノックもせずにお兄ちゃんの部屋に飛び込んだ。

「ジャーン!見てよ……お兄ちゃん?」

部屋には誰もいなかった。

クーラーの電源は点けっぱなし、椅子は何故か倒れている。

コンビニにでも行ったのかな?

せっかく行けばよかったって思うぐらいの楽しい話をしようと思ってたのに。

全く仕方のない兄をもつと大変である。

お兄ちゃんの帰りを玄関で待つことにした。

お土産の缶箱と楽しい話も忘れずに抱えて。


けれど、お兄ちゃんは帰ってこなかった。晩ご飯の時間になっても、お風呂に入る時間になっても、寝る時間になっても、次の日も、また次の日も一週間してもお兄ちゃんは帰ってこなかった。

なんでお兄ちゃんは帰ってこないの?

お父さんとお母さんが警察の人と話しているとき、私はお兄ちゃんの部屋にいた。傍らにお土産の缶箱を置いて。

「早く帰ってこないとお兄ちゃんの好きなチョコクッキー食べちゃうよ!」

帰ってくる言葉はない。

缶箱を開けて中のクッキーを口いっぱいに頬張る。

「あーおいしいな!お兄ちゃんのためにチョコ味買ってきたのに!本当はコンソメ風なめたけ梅干し味が食べたかったのに……」

ポタポタ床に滴が落ちた。

目から大粒の涙が溢れて止まらない。

「お兄ちゃん帰ってきてよ。クッキー全部食べちゃうよ……もう我が儘言わないから!いい子になるから……お願い帰って来てお兄ちゃん……」



それから月日がたち私は兄と同じ大学に通い、同じ年になった。

兄の部屋はあの日のまま残っている。

中身が空になった缶箱を抱えて兄の部屋にある椅子に座って膝を抱える。

何故あの日、兄がいなくなったのか誰も分からない。

わかっていることは、兄がいなくなって私の中にぽっかり穴が開いたような感覚。兄がいなくなって私は生きることが辛くなった。いなくなって初めて気づいた大切な兄の存在。面倒くさがりで優しい私の自慢の兄……だった人はもういない。もう十年以上行方不明のまま、この世界では兄は死んだことにされてしまった。

私は兄が死んだなんて思ってない。きっとどこかで生きているはずだ。

「じゃあ、なんでキミの兄は帰ってこないんだろうね」

微かに鈴の音がした。

「そんなの私か知りたい……ってえ?」

当然の声に驚いて勢いよく振りかけたとき椅子ごと倒れてしまった。

「兄妹そろって同じリアクションとはニャハハハ」

そこには少女が私を見下ろしていた。

灰色の髪に病的な白い肌。黒のワンピース姿に首から鈴を下げている妙な嗤い方をする少女。

「なっ!あんた誰?今兄妹そろってって!お兄ちゃんを知って」

「おっと、そんなに急ぐことはない。時間は有限だが世界は無限に広がっているのだからねシシシッ」

 妙な話し方で私の言葉を遮った少女は不気味に嗤い私を見つめる。

「キミの知りたいことを全て教えよう。何故かって?それはキミがそう願ったからさ」

わざとらしく語る不気味で美しい少女。

「アタシは気まぐれな案内人チェシャ猫。どこかの風の噂では願いを叶える猫と言われている。キミの兄を知っているかって?答えはイエス!キミが望むなら案内してもいい」

「お兄ちゃんの所に連れて行って!」

迷わずに答えた。

怪しいとか不気味だと思ったが今まで誰も兄の居場所は知らなかった。その手掛かりが今目の前にあるならばどんなことだってする。

「いいだろう。案内してあげる。でも覚悟がいるよ?キミの求めていることは、決して望んだこととは限らないんだから……シシシッ」

チェシャ猫の言っていることはよく分からないがこれだけは言える。

「覚悟ならある!」

兄がいるから私はこの世に生を受けた。その兄を取り戻すことが私の願い。

「いい目だ!まずキミには全てを見てもらう。キミの兄が何故キミのもとからいなくなったのか。そして今どうなっているのか」

チェシャ猫が差し出した手を握る。

「追憶の旅にごあんなーい」

白い光に包まれた。

「キミなら少年を助けられるかもね」

意識を失う間際にそんな言葉がチェシャ猫から零れた。




目を覚ますとそこは古ぼけた神社だった。目の前には、兄の姿。突然のことに言葉が見つからない。あんなに求めていた兄が今、目の前にいるのだ。三十路間近の兄は私と同じ年ぐらいに見えるのは錯覚だろうか。

「……お兄ちゃん」

やっと出た言葉がそれだった。

しかし、兄はこちらを見ようとしない。

「ねえ、私よ!成長して分からないかもしれないけど……お兄ちゃん」

手を伸ばして兄に触れようとしたが、その手は兄から通り抜けてしまった。

「えっ?」

何度手を振っても兄の身体を通り抜けてしまう。

「これは記憶。起こってしまった過去の出来事。こちらからは一切関与することはできないさ。シシシッ」

隣に立つチェシャ猫は首元の鈴を弄んでいるが、事の成り行きを静かに見守っていた。私もそれに従う。今は見ることしかできないのだ。

私と同じ年の兄は苦しそうな顔をしている。いったい誰にそんな顔を向けているのか、兄の視線を追う。そこには若い母の姿。膨らんだお腹を撫でながら神社を参っていた。

有り得ない。母の年齢から考えると兄がこの年でここにいることはあり得ないのだ。しかし、本当に信じられないことはここから起こった。

目を疑った。突然すぎて頭が理解できなかった。兄は母をナイフで刺したのだ。

「なんで……お兄ちゃんがこんなこと……」

「キミの兄はある人を事故で失い自分を責めた。そして願ったんだ。自分がいなくなる世界を。だからアタシがその願いを叶えようとした」

兄がいなくなった日、兄はチェシャ猫と出会い過去へ来たのだ。そして母を、自分を殺した。

「なんで……なんで!」

理解できずにその言葉しか出てこない。事故で死んじゃったなら仕方ないじゃない。なんで兄が罪悪感を抱かなければならないの。そんなのおかしい。そんなことで母を、自分を殺していい理由なんてならない。

「これはほんの一部でしかない。さて、次の記憶を見ようか」

理解が追いつく前にチェシャ猫は私を次の記憶に連れて行った。

記憶は全て兄が自分を殺すものだった。自分を殺す兄はとても苦しそうだ。もう見ていられなかった。それでも記憶は続く。

「チェシャ猫もういい……もういいよ」

涙が次々と溢れてくる。

もう見たくなかった。こんなことを繰り返してるなんて辛すぎる。

こんなことをするまで悩んで苦しんでいたなんて私は知らなかった。いや、知ろうとしなかった。兄は時折悲しく暗い顔をすることがあった。それを私は気づかないふりをずっとしていたのだ。あのとき何か言ってあげていたらこんなことにはならなかったのかもしれない。

「目を逸らすな。これがキミの兄が選んだ未来なんだ。きっと次でキミの考えは変わるはずさ」

チェシャ猫は嗤ったままだが、妙に熱を持っている言葉な気がした。



そこは公園だった。兄が自分を殺さずに数年がたった世界。

この世界は初めてただ。

その世界で二十を過ぎた兄と五歳ぐらいの少年が遊んでいた。少年と遊んでいる兄は私の知ってる優しい顔をした兄だ。もう自分を殺すことを諦めたのかとほっとしたところで、少年がボールを追いかけて道に飛び出した。

「危ない!」

私の手は声は届かない。そんなことわかってはいるが手を伸ばし、叫ばずにはいられない。

目を覆いたくなった。少年を庇って兄は車に轢かれてしまったのだ。泣きながら謝る少年に兄は微笑んで何かを言っている。少年が立ち去った後に私は兄に駆け寄った。兄の身体は半分消えかかっている。

兄は何か言っているが私には聞き取ることができない。

「なんでお兄ちゃんはあの子を助けたの?」

問いかけても返事はない。

「昔自分がされたみたいにあの子を助ければ罪悪感がなくなると思ったの!」

「それは少し違うかな……シシシッ」

こんな時でもチェシャ猫は嗤う。

「あの少年はキミの兄なんだよ。つまりキミの兄は自分を助けた。ただそれだけさ」

なによそれ。頭はもうとっくに理解することを放棄していた。

「キミの兄はこれを永遠に繰り返している。事故から助けられ罪悪感を抱えて生き、アタシと出会い過去を変えようと自分を殺す。そして最後には自分を救い死ぬ。そして助けられた少年はまた罪悪感を抱いて生き……はい、無限ループの完成ってわけさニャハハハ」

私はチェシャ猫を睨む。

「あなたさえいなければお兄ちゃんはこんなことにならなかった!」

悲しそうに嗤いながらチェシャ猫は首を振った。

「例え、アタシがいなくてもキミの兄は自ら命を絶っていたよ。だからアタシが少し希望を持たせてあげたのさ」

「そんなことない!お兄ちゃんが私を置いていくわけがない。あなたが持たせたのはただの地獄よ」

涙が抑えきれず溢れる。涙の理由はもう分からない。私には分からない。私は兄の様に頭が良くないから。

兄は私の我が儘を聞いてくれたのに、私は何かを返す前に兄は私の届かない場所まで行ってしまった。兄が望んだから私が産まれてきたのに、そのお礼すらまだ言えてない。

「何故泣くんだい?」

チェシャ猫が不思議そうに問いかける。

あなたには人の感情がないのか。そう言ってやりたかったが喉が痙攣して言葉にできない。

「キミは何か勘違いしている」

チェシャ猫は胸を張ってこう言った。

「アタシは気まぐれな案内人チェシャ猫。誰かが願えばその願いを叶えることができる。アタシはそういう存在さ」

言い方がまどろっこしくて理解できない。否、始めから理解などしていなかった。

「分かりやすく言ってよ……」

やれやれと言ってようにため息をつかれた。「やっと本題に入れるよ」

コホンとわざとらしく咳払いをする。

「キミはただ願えばいい。さあ、言ってごらん。キミの願いをさ」

私の願い……

「キミには聞き取れなかっただろうが、少年は最期にこう言ったんだ。『チェシャ……最後に妹から僕の記憶を消してくれ……僕がいなくなると泣くだろうからさ。泣かせるぐらいなら記憶からいなくなったほうがいい』てさ」

ニャシシと嗤うチェシャ猫の瞳に私はどう映っているのだろう。

チェシャは何故、私にお兄ちゃんの最期の言葉を教えてくれたのだろう。何故チェシャ猫は最期のお兄ちゃんの願いを叶えずに私をこの世界に連れてきたのだろう。何故今になって願いを言えなんて言うんだろう。

願いなんてとっくに決まっているのに。

「お兄ちゃんとあの日に帰りたい!」

あの日に帰って一緒にクッキーを食べたい。

心からの叫びに満足したのかチェシャ猫が手を差し伸べてきた。迷いなくその手を握る。

白い光に包まれた。

「では、自らの消滅を望んだ少年の願いを壊しに行きますか。シシシッ」

実に嬉しそうにチェシャ猫は嗤った。




五歳ぐらいの少年がボールを追いかけて道に飛び出そうとしたとき、私は少年を抱きしめた。

こんな悲しい世界なんて無くなってしまえばいいんだ。だから……


「こんなの私は認めない!」


私は叫んだ。


世界が壊れる音を聞いた気がした。



第三幕

〈僕サイド〉

五歳になる僕がボールを追いかけて道に飛び出そうとした。ここであの僕は事故にあって死ぬ。だから今の僕が身代わりになるのだ。そのために今、僕はここにいる。小さな背中を追いかける。助けた後は僕のことを忘れるように言おう。これが僕が選んだ答え。きっとこれでいいんだ。これでみんなが幸せになれる。

心残りはもう妹に会えないこと。それが寂しい。僕がいなくなったら妹はどうなるのだろうか。泣いたりしないでほしいな。叶うなら妹も僕のことを忘れてほしい。そうすれば悲しむ必要もないのだから。

『お兄ちゃん』

最後にもう一度声が聞きたいな。忘れてくれと願う僕がそんなこと思っていいはずがないのに……。

『遊園地のお土産楽しみにしててね』

あの笑顔がまた見たいな。

視界がぼやけて上手く前が見えないけど、やることは変わらない。

幼い僕に手を伸ばそうとしたとき。




「そんなの私は認めない!」




道に飛び出そうとした幼い僕をひとりの女性が抱き止めた。




僕の世界が壊れ始めた感覚がした。



〈私サイド〉

私は未来を変える。事故でお兄ちゃんが死ぬ。そんな未来なんか破り捨てて、書き換えてやるんだ。

幼いお兄ちゃんがボールを追いかけていく。

道に飛び出す前に止めればお兄ちゃんは死ななくてすむ。

「過去を変え、キミの兄を救えたとしよう。そうしたらキミは消えてしまうよ。シシシッ」

チェシャ猫は嗤う。

私の選択を興味深く見つめて。

「ここでキミの出生のことを教えてあげよう。キミの兄が事故での罪悪感に囚われ心にポッカリ穴が開いている姿を見たとき、母親は勘違いしてひとりが寂しいと思ったんだろうね。キミを産んだんだ。母親の身体は普通に子どもを産める身体ではなかった。二人目を産めば死ぬかもしれない。数年後、見事キミは生を受け、母親は奇跡的に命を落とすこともなかった。ここまで話せばわかるだろ。アタシが言おうとしている意味が。シシシッ」

お母さんからもお兄ちゃんからもそんな話聞いたこともなかった。全部チェシャ猫の作り話なんじゃないかとさえ思えた。でも、チェシャ猫の目は嘘を言っているようには見えない。話しているとき、顔は嗤ってたけどなんだか苦しそうだった。チェシャ猫の目は何かを訴えている……そんな暖かさがあった。

「私は、お兄ちゃんの死の上で生きてるってこと」

無言でチェシャ猫は私を見つめる。

「だったらこの命はお兄ちゃんのもの。お兄ちゃんのために使う。たとえ私の存在が消えるとしても」

チェシャ猫を追い越して、道に飛び出そうとする幼いお兄ちゃんを抱きしめる。

お兄ちゃんが死ぬそんな未来なんて。

「そんなの私は認めない!」

突然抱きしめられた幼いお兄ちゃんは驚いていた。当たり前だよね。

「お姉ちゃんだれ?」

私は知らない人なんだもん。でも、それでいい。背後で車が通過する音がした。私はお兄ちゃんを助けられた。それだけで嬉しい。

「私は……お兄ちゃんの妹だよ」

きょとんとする幼いお兄ちゃんは可愛くて愛おしくて。

「お姉ちゃん泣いてるの?」

助けられて本当によかった。




アカリ

懐かしい声で呼ばれた。

顔は上げられなかった。だって涙でぐちゃぐちゃになった顔なんて見られたくないもん。

「お兄ちゃん、このお姉ちゃんなんで泣いてるのかな?どこか痛いの?」

声変わりすると低くなるって本当なんだな。なんて場違いなこと思ってしまった。

「きみは家にお帰り。私は大丈夫だから。車に気を付けて」

上手く笑えていただろうか。小さな背中が見えなくなるまで手を振った。


「灯」

もう呼んでくれないと思ってた声で私を呼んでくれる。私の大切で大好きなお兄ちゃん。

「助けに来たよ。感謝してよね。お兄ちゃん」

涙を拭って誇らしげに胸を張って振り返った。そこには懐かしいお兄ちゃんの姿。あの日より少しだけ年を取ったけど、私の知っているお兄ちゃんがすぐ目の前にいた。

手を伸ばして抱きしめる。通り抜けたりしない本当のお兄ちゃんだ。

これが最後だとしても私は後悔しないよ。



〈僕サイド〉

「灯」

目の前にはもう二度と会えないと思っていた妹がいた。十八ぐらいだろうか。成長してずいぶん綺麗になっていたから始めは分からなかった。でも、何故こんなところにいるのだろうか。夢ではないだろうか。

「助けに来たよ。感謝してよね。お兄ちゃん」

飛びついて来た妹は、本当に僕の妹だった。

なんて言葉をかければいいか分からずただ抱きしめた。もう二度と会えないと諦めてしまっていた妹が今、僕の腕の中にいる。死のうとしていた僕に何故このような幸福を神様は与えてくれるのだろう。これでは未練が残ってしまうではないか。

「お兄ちゃん」

生きたいと思ってしまうではないか。

「チェシャ猫から聞いたよ。お兄ちゃんのこと、私のこと」

妹の声は震えていた。

「お兄ちゃんを助けたいと思った。だからここに来たんだ。本当はあの日に帰って一緒にクッキー食べたかったけど……」

すすり泣く声で妹は言う。

「それじゃお兄ちゃんを助けられないから。私の命はお兄ちゃんからもらったものだから、だから返すね……バイバイ」

泡のように腕の中から妹の姿は消えた。

「灯……?」

名前を呼んでも返事は帰ってこない。

辺りを見回しても、影も形も、どこにもいない。

やっと会えたのに。

「あっ……ああああああああああああああ!」

ぐにゃりと世界が歪み、僕は真っ暗な空間に放り出された。




「やあ、久しぶりだね少年。待っていたよ。シシシッ」

少女の姿をしたチェシャが僕に嗤いかける。

「チェシャ……灯は?灯はどこに……」

再会に喜んでいるヒマではなかった。

僕の妹は今、どこにいるのか。それが知りたかった。

「キミに妹なんていないよ?ニャシシ」

実に面白そうに嗤うチェシャ。

言っている意味が分からなかった。

僕に妹はいる。名前は灯。十歳年の離れた妹が確かにいるはずだ。

「いたかもしれないけど、今はいないよニャハハハ」

腹を抱えて嗤うチェシャ。何がそんなにおかしい。僕は本気なんだぞ。

睨みつけるがチェシャは自分で気づきなよという目をこちらに向けてくるだけ。僕には全く理解できない。

「あの事故が世界から無かったことになった。キミの妹はそれを願い、見事叶った。それだけさ」

ため息をこぼしながら話すチェシャは寂しげに嗤う。

「キミは救われ、キミの妹は存在しない。世界はそうなった。アタシの想定外をキミの妹は起こしたんだ。天晴としか言いようがないよ……シシシッ」

透明な涙をチェシャ流している。目には見えないが、確かに泣いている。僕にはそう感じた。

「事故がなくなればキミの妹が産まれるきっかけがなくなる……聡明なキミならわかるだろう?」

淡々と話すチェシャの姿はただの年相応の少女にしか見えない。

「何故……灯を連れてきた!灯は関係ないだろ!」

「アタシはあの子の願いを叶えた。ただそれだけさ。それと……」

ため息を零して続けた。

「あの子からの言伝だ。『私のことは忘れて』だとさ。皮肉だね……シシシッ」

僕は、また選択を間違えた。

妹を犠牲にしてまで生きようだなんて思わないのに……今生き延びてしまっている。どうしようもない現実。大粒の涙は止まることを知らず溢れ続ける。

「あの子の願いを酌んでやんな」

僕に背を向けどこかに向かうチェシャ。

その背を見続けながら僕はあることに気が付いた。

「きっかけならある……」

チェシャが振り返る。その言葉を待ってましたというように嗤う。

「あのとき……帰ってから母さんに言ったんだ」

蘇る過去の記憶。

チェシャの瞳は暖かく僕を見つめている。

「あの人に妹がいて羨ましいって思ったんだ。だから……」

妹に会いたい。名前はあの人の妹と同じがいい。そう思って僕は母さんに言ったんだ。

「キミの願いを言ってごらん」

白い手をチェシャが伸ばしてきた。

迷いなく握りしめて言う。

「妹に……灯にまた会いたい!」

冷たくて優しい。白い光に包まれた。


「本当に……いい目をしているよ……キミたちには敵わないな……シシシッ」



第四幕

「ただいまー」

靴を脱ぎ棄てて、急いで階段を上がってくる音がする。

「見て見てお兄ちゃん!このクッキーの缶箱可愛いでしょ?お兄ちゃんが好きなチョコ味ちゃんと買ってきたんだから。本当はコンソメ風なめたけ梅干し味がよかったんだけど……って聞いてる?」

部屋に飛び込んできた妹はマシンガンの如く話し始めたが、寝起きの頭には全く入ってこない。

「聞いてる聞いてる」

欠伸をしながら適当に答える。

いつの間に寝てしまったのだろう。長い夢を見ていた気がするが思い出せない。机の上の課題は手付かず。椅子から倒れそのまま気絶してしまったのだろうか。そもそもなんで椅子から倒れたんだっけ?

わずかに痛む頭をさすりながら妹に目を向ける。

「もー絶対聞いてなかった!いいもーん。このクッキー私一人で食べちゃうから」

クッキー缶を開け美味しそうに頬張る。その姿がなんだか可笑しくてつい笑ってしまった。

「……お兄ちゃんなんで泣いてるの?」

「えっ……」

笑っていたはずが、目からは涙が溢れてきた。それは拭っても拭っても治まることはなかった。

「なん……で?」

「お兄ちゃん?」

妹が心配して手を伸ばしてきた。

僕は、その手を取らずに妹の身体を抱きしめた。よく分からないが無性に抱きしめたかったのだ。強く強く……

あのときみたいに泡になって消えてしまわないように。

「変なお兄ちゃん」

笑いながら妹もぎゅっと抱きついてきた。

「おかえり……灯」

チョコクッキーを口に入れられたが涙のせいで味はよく分からない。

小学生の小さな妹。僕の大切で大好きで、かけがえのない僕の妹はここにちゃんと生きている。そのことが嬉しかった。だから妹がおかしなことを言っても何も言わなかった。


「おかえりなさい。お兄ちゃん」


「やっと一緒にクッキー食べられたよ」



終幕

〈チェシャ猫の部屋〉

おかえり。今回の物語はどうだった?

最初に謝っておくけど、今回の物語は当初からキミに見せる物語じゃあなくなっちゃったんだ。

まさか物語に介入しちゃう子が出てくるなんてアタシには想定外だったよシシシッ。

この物語は最初の物語とは全く異なる物語になってしまったよ。

だから物語はたまらなく面白い。

おや、本に紙が挟まっていただって?

なになに……『願いを叶えてくれてありがとう』か。

なんだいその顔は。何か言いたそうな顔をしているね。

アタシが嬉しそうだって?

そりゃアタシが想定しなかった面白い物語が見れたからさ。嬉しいに決まっている。

……それだけではなさそうって。

何のことやら……シシシッ。


そろそろ帰るといい。

長くここにいると帰れなくなるよ。

キミにも大切な人がいるだろ。

ほら、思い出してごらん。


さて、アタシは次の物語を捜しに行くとしますか。


では、また機会があったら会いましょうニャシシ。



本が閉じる音がした。

チェシャ猫はどこかに消えてしまった。




幕外

「家に帰ってきたらお兄ちゃん妹がほしーなんて言って驚いたわ」

遊園地の帰り。父が運転する車で母が昔に起きた不思議な話を聞かせてくれた。

「手術のことは話してなかったのに、何で知ってたのかしらね?」

よく分からないが灯は黙って母の話を聞いていた。

「まだ性別が分からないのに、『早く妹に会いたい』って言ってたのよ」

クッキー缶を抱いて一応相相づちを打つ。

「あなたが産まれたときには『また会えたね灯』って秘密にしてたあなたの名前をいい当てたのよ。今思い返しても本当に不思議だわ」

「そうだねー」

興味ないと言う風に受け流す灯に母は何か言いたげだ。そもそも灯が「お兄ちゃんどうしてるかなー?ひとりで寂しくないかなー?」などとしつこく聞いてきたためにこの話を聞かせたのにもかかわらず、当の本人は他人事のように話を聞き流していることに母は不満げだ。何か言いかけるより先に灯が口を開いた。

「私もお兄ちゃんのこと、産まれるずっと前から知ってた気がする」

ギュッとクッキー缶を抱きしめ車窓から覗く夕焼けに目を向ける。


母の不満は疑問に変わり、やがて不思議な出来事がまたひとつ増えたのだった。



〈fin〉

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