待合室
駅のホームには、高校生らしい女の子が三人立っていて、楽しげに話をしていた。
彼女たちは三人とも、背中にはギターケースを背負っている。身長がそれほどないせいか、ギターケースがアンバランスなくらい大きく見えた。夏の暑さにも屈せず、元気な少女たちだった。
鉄道駅ホームの待合室から、私はその様子を眺めていた。
彼女たちのほかに、ホームには誰もいない。こぢんまりとした待合室には、私のほかにスーツを脱いだ若い男と茶色いシャツを着た老人がいた。対面に座る若い男は、汗を拭いながら、紺のスーツをたたんでいて、隣に座る老人は、文庫本を読んでいた。
壁に掛けられた時計を見る。時刻は昼過ぎ。電車が来るまでにはまだ少し時間がある。何気なくホームを見ると、少女たちは飽きることなく、話題が尽きることも無く、話し続けていた。
私は二十代後半の女で、貯金はいくらかあり、生活には困ってない。会社でもそれなりの待遇で働いている。仕事に不満はないとは言えないが、これからも続けていけると思っている。
けれど、私には悩みがある。
自分の勤める会社の上司と不倫関係にあるのだ。その相手は課長で、結婚もしていて二人の子供がいる。奥さんや子供との関係も悪くはないらしい。
寡黙で、誠実で、思慮深い年上の男性、家庭を持つ良き父親、というのが周りの人から見た彼の印象だ。あながち間違っていないと思う。ただ、そんな理想の父親にも隠し事の一つや二つはある。そのうちの一つが私というだけのことだ。
平日のこんな時間に待合室で電車を待っているのも彼のせいだ。家族には出張と嘘を吐いて、今朝まで私と会っていたのだ。
もうすぐ四十になる男のどこに惚れたのか自分でもよく分からない。きっかけは思い出せないくらい些細なことだったと思う。それが気付けば今の関係になっていた。
この状態を続けるのはまずいと思いながらも抜け出せないでいる。動こうにも視界は曇っていて、足は泥を引き摺っているみたいだ。思考を止めて、チョコレートのように音もなく、どろどろに溶けてしまいたいとさえ思う。
三人の少女たちはまだ喋り続けている。団扇で扇ぎ合いながら、好きなロックバンドの話でもしているのだろう。外は夏の熱気に包まれていた。
携帯電話を取り出して画面を見る。誰からも連絡はない。課長から貰った不気味な合掌土偶のストラップがひとつ、寂しそうに携帯電話にぶら下がっている。
「あの、もしかして、高橋さんですか?」
不意に、若いスーツの男に声を掛けられた。聞き間違いかと思って、相手の顔をまじまじと見つめていた。
「高橋さんですよね?」
相手も少し困惑したような表情で言った。
聞き間違いではなかったらしい。紛れもなく私のことだ。しかし、相手の顔に見覚えが無い。
「はい、そうですけど。えっと、どちら様ですか?」
「ほら、この間、『ミシェル』って飲み屋で宴会しましたよね!会社の親睦会で」
私が高橋だと分かると若者は急に明るくなった。
ミシェルと言えば、街から少し外れたところにある飲み屋だ。先週、私は会社の仲間たちとそこで飲んだ。しかし、この若者に見覚えはない。いや、いたかもしれないけれど覚えていない。
「自分は鈴木と言います。まあ覚えてなくてもムリは無いですね、派遣なんで」
鈴木。そういえばそんな名前の若い派遣社員がいた気がする。派遣とはあまり話す機会がない。あったとしても機械的な挨拶を素っ気なく交わすだけだ。
「派遣は肩身が狭いので大人しくしてるんです。あ、ちなみに自分も人の顔と名前を覚えるのは苦手な方で。でも、高橋さんはそのストラップですぐに分かったんですよ」
そう言われて自分の携帯ストラップを見た。課長から貰ったものだが、なるほど確かに分かり易い。女性で合掌土偶のストラップはなかなかいないだろう。
「ああ、これね」私は携帯を掲げて見せた。
「ええ、そのストラップのおかげで一発で分かりました」
課長がどこかの縄文遺跡に行ったときに買ってきたものだ。正直、悪趣味だが、貰い物なので、捨てるわけにもいかず、ずっと付けている。まさかそれが目印になるとは思ってもいなかった。
「高橋さんて、課長と仲いいですよね」
どきりとした。何気なく言った言葉なのだろうが、私と課長の関係を見抜かれたような気がして落ち着かない。
「同じ会社の人間だから、それなりには」
それなり、なんて領域はすでに踏み越えてしまっている。引き返すタイミングはずいぶん前にもう逃してしまった。このまま今の関係をずるずる続ければ、いずれ酷い目に合うのだろう。そんな未来が容易に想像できて、うんざりする。
「あの時は初めて課長たちと飲んだんですけど、面白かったです。話してみると絡みやすい人ばっかりで、気が楽でした」
ミシェルでの飲み会の記憶を引っ張り出そうとするが、ぼんやりしている。つい先週の出来事なのに。
多分、相当飲んだのだろう。私は酒に弱く、飲みすぎると記憶が飛ぶ。悪い酔い方の典型だ。その日もそうだった。
「私、何か余計なこと言ってなかった?」
不安になって鈴木に尋ねていた。
「余計なこと?うーん……高橋さんは普通だったと思いますけど」
鈴木の言葉で少し安心する。覚えてないというのは本当に恐ろしいから。
「あ、でも。課長は問題発言多かったですね」
一瞬安心したのが一気に冷めた。蒸し暑いのを忘れてしまいそうになるくらいに。あの人が変なことをいうのは珍しいとも思った。
それにしても、課長はいったい何を言ってくれたのか。
「浮気が奥さんにばれたとか明るく言ってましたね」
ゴン――。
思わず体が反応して、後頭部を窓ガラスに強打した。痛い。
「大丈夫ですか!?」
鈴木が心配そうに声を出した。私としては、心配なのは課長の発言のほうだ。
「大丈夫。それより、課長がそんなこと話したの?」
心穏やかではいられない。いったいどうなっているんだ。
「あ、高橋さんは途中で帰りましたよね。だから知らないんだと思います」
そういえばその日は具合が悪くて、すぐに帰ったような気がする。曖昧な記憶の中で微かに思い出した。
「酔いが回ってからは課長も陽気になって、凄まじかったですね。まあ、意味の分からない発言が多かったんですけど」
鈴木は思い出し笑いを堪えるようにして言った。
「具体的には、どんなことを言っていたの?」
すでに私の許容範囲を超えた事態にある。が、ひとまず状況を知らねば何もできない。どんな驚愕の事実にも冷静に立ち向かわなくては。
「昔、奥さんに浮気がばれて大変だったって話ですよ」
その言葉をしばらく反芻して、私はほっと息を吐いた。私のことでは無さそうだ。
「いやー、あの堅苦しいイメージの課長が浮気なんて、信じられません。まあそうは言っても、課長のこと、そんなに深くは知らないんですけど」
鈴木は愉快そうに話している。あの課長のことだ、そう見えるのだろう。実際、私も初めの頃は、まさか課長と今のような関係になるなんて思ってもいなかった。
「へえ、あの課長がねえ」
他人事のように相槌を打つ。あの人が私以外に女を囲っていたって、不思議じゃない。だからって、全然平気なわけでもない。私だって嫉妬くらいする。
とりあえず、私との浮気がばれたのではないようなので安心した。時計を見ようと視線を上げたら、老人と目があった。しわの多い顔が微笑んでいるような気がした。電車の時間まではもうあと数分と言ったところだ。
「そういえば、課長も昔はギターやってたらしいですよ」
鈴木の視線の先には、ギターケースを背負った女の子たちがいた。
「あの人がギター?」
これまた私の知らない情報だ。ギターなんて全く似合わないのに。
「ロックが好きだ、って言ってましたよ」
私の知る課長はクラシックしか聴かないと言うような頑固な男だ。
しかし、私は所詮あの人の一部しか知らない。全体像は未だに掴めていない。彼は自分のことをあまり語ろうとはしないから。
「あと、酔っぱらった課長が裸になろうとしたものだから、みんなで抑えるの大変でしたよ」
ガンッ――。
驚いて左手を椅子にぶつけた。痛い。
「だ、大丈夫ですか!?」
鈴木がまたも私を気遣ってくれる。
「大丈夫じゃないかも……」
左手を抑えながら、弱々しく言った。もう冷静でいられないような気がする。さっきから動揺してばかりだし、衝撃の事実の連続だ。何だか私の知っている課長とは別人のように思えてきた。
「気をしっかり持ってください!」
鈴木君、別に死ぬわけじゃないよ、と突っ込みたくなるがそんな余裕もない。課長、いったいどうしたんですか。そればかりが頭の中で繰り返される。
「すみません。今日は何曜日でしたかな?」
それまで文庫本を読んでいた老人が急に声を掛けてきた。
「今日は水曜日です」
鈴木が、はきはきとした口調で答える。
「ありがとうねえ。年寄りになると今日が何曜日なのかも、よう分からんようになってしまって。困ったもんですわ」
老人は笑顔でそう言った。話している相手は鈴木だが、その目は私に向けられていた。しかしそれも一瞬の出来事で、私は老人の意図したことが分からなかった。単に私のほうを向いただけかもしれない。が、どうもそんな偶然ではないような気がする。老人は私に何かを気付かせようとしているような、そんな目をしていた。それにこの老人とはどこかであったこと会あるような気がする。
何事かを探ろうと思い私が老人のほうを向いた時にはもう、彼は文庫本に目を落としていた。そういえばこの老人を、私はどこかで見たことがあるような気がする。
「そろそろ電車が来るんじゃないですかね」
鈴木が時計を確かめながら言った。
ふと、私はある仮定を思いついた。老人のくれたヒントのおかげでもある。ただ、もしそうなら酷く間抜けな話だ。とにかく確認しなくてはならない。
「鈴木君、今更なんだけど、その親睦会っていつの話?」
鈴木はきょとんとした。それからいつもの明るい調子になって言った。
「やだなー。高橋さんまで日付を覚えられなくなったんですか。二週間前ですよ」
「やっぱり……」
私の仮定はあっさりと確信に変わった。つまりはそういうことだったのだ。
「どうかしたんですか?」
「……鈴木君。私が宴会をしたのは先週なの」
「えっ」
鈴木の表情が一瞬止まった。おそらく彼の中でこれまでの会話を思い返しているのだろう。そして、答えはすんなり出てくるはずだ。
「鈴木君、もしかしたらこれは…」
私が言い切る前に、鈴木は勢いよく立ち上がった。
「タイムパラドックスってことですか!?」
私はぽかんとした。
「時間のずれが起こっているわけですよね。確かに、どう考えても不思議ですよ」
何を言っているんだ、この若者は。
「あの、鈴木君」
「ああっ、もしかしたら、パラレルワールド?とてもよく似た別の次元かもしれないのか!」
私が口を挟もうとしたが、聞いていないらしい。映画や漫画の見すぎではないか、と突っ込みたくなった。暑さも相まって苛々してきた。
「鈴木君、とりあえず落ち着いて」
少し間を置いて、私は言った。
「えーと、はい」
彼は頭を抱えていたが、話を聞く準備は出来たようだ。
「簡潔に言うとね。君の話していた飲み会と、私の飲み会はどうやら別物らしいの」
「ええ、そんなことってあるんですか!?」
起こってしまったのだから、あるのだろう。単純で奇妙な話ではあるが。
「高橋も鈴木も、よくある名字だからね。間違ってもおかしくはないわ」
「だって、高橋さん。合掌土偶のストラップ付けてるじゃないですか。そんな人、他にいませんよ」
それは、確かにその通りだ。そして、それを説明するのは私にとって苦いものがある。
「とにかく、その別人説だって曖昧ですよ。証拠も証言もない」
鈴木は是が非でもSFな意見を尊重したいらしい。
困ったことに私にはもう策が無い。そして面倒くさいとも思い始めていた。この若者に好きに喋らせていても、構わないかなと。倦怠感のせいか諦めが早くなった。
そんな私たちを老人はにこにこしながら眺めていた。文庫本はもう閉じられている。私はそこでやっと、この老人が誰だったかを思い出した。
「証言ならあるわ」
私はそう言って、老人の方を向いた。この人なら確実に知っている。でなければ、私たちの会話を笑って見ているはずがない。
「お願いします、店長。先週と、その前の週の店でのことを話してもらえませんか?」
私は軽く頭を下げた。老人は全てを見透かしたかのような、いや、事実見透かしていたわけだが、とにかく含みのある顔をしていた。
「店長?まさか、ミシェルの」
鈴木もようやく気付いたらしく、はっとしたような表情になった。そんな中、老人はもったいぶって話し始めた。
「どうも、居酒屋ミシェルの店主ですわ。お二人ともうちの店に来てくれて、ありがとうね。さて、時間は限られてますんでね。牛歩のように長々とのんびりべらべら話していたのでは、せっかくの待ち時間に電車が来てしまいますんで、手短に、よく短足だとは言われますがね、手短に話そうかと思います」
店主、前置きが長い。敢えて突っ込まないが。
「まず、鈴木さん。あんたは二週間前に来ましたね。会社の親睦会で」
「ええ」鈴木が神妙に頷いた。
「そいでですね。その時、高橋という女性がいたんですよ。今ここにいるあなたとは別な人ですがね。不思議なことに、その人の携帯にも合掌土偶のストラップが付いてたんですわ」
そこは私も引っかかる。ただ深く考えたくなかったので、変わった趣味の人もいたものだと無理にでも納得しておく。
「そしてですねえ、高橋さん。先週、あなたが来たときには、鈴木という若い男がおりましたわ。この若者とはまた別人なんですが、どこにでもいそうなこのスーツの色はよく似てますな。まったく、人生というのは奇妙なものでね。まあ、鈴木や高橋なんて名前の人は日本国内に何百万人もおるわけですから、そういう偶然もまた必然の一つに過ぎない。これは、ありふれた、ありきたりな、よくあるそんな話だってことですな」
老人は朗らかに簡潔に語ってくれた。分かってみれば、なんともくだらない話ではある。私と鈴木は示し合わせてもいないのに、同時に溜め息を吐いた。
「はあー、何だかすみません。全くの他人なのに、馴れ馴れしく話しかけてしまって」
鈴木が少し恥ずかしそうに謝ってきた。
「気付けなかった私も悪いから」
本当によく気付かなかったものだ。自分でも吃驚だ。関わりのない人間と勘違いではあるけれど、こうして話をしたのは、不思議な感じがする。
無意識のうちに表情が緩む。鈴木も似たような心情なのだろう。思い出し笑いを堪えていた時と同じ顔をしている。
それから、今度課長にあったら、あの悪趣味な合掌土偶のストラップをいくつ買ってきたのか、聞き出さなくてはならない。
「また、会えませんかね。この偶然の出会いを記念、というのも変な話ですが、酒の肴にでもして」
鈴木は明るく言った。少しだけ、その若さというか青さが眩しく見えた。
「会うかもしれないわよ。どこかの居酒屋で」
私も笑顔で返した。そう私たちは同じ街にいるのだから、そのうちにまた会うかもしれない。
「土曜日にうちの店で、ちょっとしたジャズライブをやるんですがね。もし暇なら、若い子たちも頑張ってるから、見に来てくださいよ」
居酒屋の店主は顔の皺をくしゃりとさせ、にっこりと笑った。そう言われたら、もうその先の展開は決まっている。
「じゃあ、もしかしたら偶然会うかもしれませんね。その時はジャズでも聴きながら飲みましょう!」
鈴木の声は明るかった。
「偶然、会えたらね。そろそろ列車が来るわ」
ふとホームを見るとギターケースを背負った少女たちが、こちらに向けて手を振っているのが見えた。
「あれ、店長じゃないですか」
「本当だ。何でこんなとこに」
「てんちょー、愛してるよ!」
振り返ると、居酒屋の店主は笑顔で彼女たちに手を振っていた。
そして、電車が駅に着いた。音を響かせ、ゆっくりと停止する。降りてくる人はまばらだった。リュックサックを背負った少年が出てくるのが見えた。
私は立ち上がると、待合室を出た。
まだ夏の初めだったが、今年は暑くなりそうだと思わせる暑さだった。遠くで蝉が喧しく鳴いていた。