第5話:『Second Cry-2』
「それでは、始めよう」
タブロがじゃらりと、いつの間にか手に握っていた鎖を全力で背負い引く。
鎖は先ほど打ち込まれた鉄杭に繋がっており、みちり、と音がしたかと思うと瞬く間に石棺の前面は倒れ、地面にぶつかり砕けていった。
先ほどまでとは比にならぬ轟音が室内を飛び出し、山の向こうまで響いていくのを感じる。舞った埃に咳き込むタブロ。
埃こそ届かなかったものの、御存知の通り耳の塞げない僕は耳朶を叩いた衝撃に、しばらく目を白黒させた。
「…やっぱり、もうちょっと静かにやる方法はなかったのか?」
「ケホ。私一人ではこれが限界だよ。壁を少しずつ割外すなんてこの細腕ではとてもとても…」
そうかもしれないが…前面が無くなっても中の魔素が流れでる様子はない。僕の身体とともに、ガッチリと固定されているようだ。
これなら毎日少しずつ剥がしていっても問題なかったんじゃなかろうか…まぁ間違いなく面倒くさかったのだろう。
「失礼な…空気に長く触れるとそこから魔力が漏れでてしまうんだよ」
いつものやりとり。相変わらずの読心術にもはや突っ込む気すら起きないが、何故か自然と口角が上がる。
視界の下でタブロは何か、バサバサと粉状のものを僕の足元に蒔いているようだ。時折舞い上がるそれは緑色をしている。
「この粉を溶き固めていつもの手袋にしているのさ」
つまりこの魔素にたいする分解酵素のようなものが含まれているのか。
餡かけに対する唾液のようなものか?などと思っていると、ズグズグという音が首下から聞こえ始める。
僕を5年にわたって固定した魔素が、今まさに崩れようとしていた。
「ちなみに、先ほどの魔痺針は壁の崩落に巻き込まれて折れてしまったが…構わないね?」
今更である。もう引くつもりなど無いし、二度とそれのお世話になるつもりもない。
黙って頷く俺。
もう言葉は要らない。
決意新たキッと目の前を見据える!
「あぁそうそう」
――なんだよ。軽く肩透かしを食らってたタブロを見やる。
「以前坊が私に触覚を戻してくれと言ったのを覚えているかい?」
「あぁ覚えている。あの時確か…」
頷いて答えようとした僕をみて彼女は続けた
「なら大丈夫だ。それでは…覚悟したまえ」
「は?何を言っ――」
問いかけようとした口が埋まったかと思うと一瞬で頭ごと沈み込む。
自分が溶けかけた魔素の中に埋まったのだ、と認識するよりも早く。恐ろしい早さで液状化したそれは、石棺の前面から溢れ、僕を地面に放り出した。
ゲホゲホと咳き込む。顔についたドロドロの液体を拭おうにも、相変わらず拭う手が自分にちゃんと付いているのかどうかすら判らない。
少しずつ目を開くと、歪む視線の直ぐ先に、石畳があった。
生まれて初めて見る地面であるそれに、先程まで僕の身体を包んでいた魔素が、どういう仕組みかどんどんその粘性と色をなくして、スッと地面に溶け込んでいく。
それをゆっくりと認識する暇もなく、首筋に端を発したむず痒さが、じわじわと体中を走って行く。
此処に来て僕は先程のタブロの言葉をそしてその言葉が意味することを理解した。
『全身の皮を剥いた状態で熱くて冷たい芝生に包まれるような状態になると思うが、それでもいいなら』
成る程うまいことを言う。
むず痒いと思ったのはまさに一瞬。
魔素が流れ落ちていった場所から順にそれ以外に表現のしようがない感覚が脳にめがけて走って行く。
「カッ…ア!」
本来であれば反射で仰け反るであろう身体が微動だにしない。それどころか…呼吸が出来ない!
先ほどの咳は気づけば「カヒッ」とか細い音を喉から漏らすのみになっており、いくら意識しても息を吸うことができなくなっていた。
「いいかい!まず落ち着きたまえ。君は今までも呼吸はちゃんと出来ていた。それを思い出すんだ」
白目をむく僕の状態を察したのかタブロの声が聞こえる。
…そうだ、今まで出来ていたんだ、呼吸できるのは当たり前だ。しかしどれだけ頑張っても口から酸素を取り入れることが出来ない。
パニックになりそうな心を必死で抑え、僕は吸おうと思っても吸えないのならと、一気に息を吐きだした。
「くはぁ……ぁ…ッ」
体内の酸素の残り1ccまで余すことなく息を吐く。限界を超えて更に吐く。
潰された横隔膜が自動で戻ると同時に少量の空気が口内に取り込まれた。この流れを途切れさせないように慎重に息を吸う。
か細い流れが次第にスムーズに、太く長くなっていくのを感じる。
「そうだ。まずは呼吸だ」
呼吸と同時に少しずつクリアになっていく思考。そこにタブロの声が染みこんでいく。
「よし、いいぞ。次は呼吸をする時の心臓の動きをイメージするんだ。呼吸は心臓と、そして心臓は核と密接な関係にある。ゆっくりと、と言いたいところだが時間がない。今も魔力は坊の身体から溢れ出ている」
確かに、痺れの収まらぬ身体から何かが抜け落ちる感覚がある。
それと共にどんどん力が弱まっていく。
心臓を意識する…呼吸とともに四肢に酸素が行き渡る。
その酸素の通り道、血液を意識する。
その血液が集う場所…。僕は体内に意識を巡らせる。
はたして、反応が…二つ?
どういうことか心臓のように脈動するものを二つ感じる。
一つは前世で散々酷使した左胸に。
そしてもうひとつはこれは、下腹部だろうか?その辺りにもう一つの鼓動を感じる。
頭部から近い胸から上はかなり感覚が戻ってきているのだが、そこから離れれば離れるほど感覚は鈍いので、確固たる感触はないのだが。
「心臓が二つ…あるぞ?」
僕の問いにタブロが喜色立つ。
「もうその感覚を掴んだのかい。それは重畳。心臓ではないもう一つの感覚。それが間違いなく坊の核だ」
「どっちが…どっちだ?」
「核は起動して間もない。今まで動いていた心臓よりも素の動きは弱いはずだよ」
下半身の鈍い反応の中でなお強く感じるその鼓動は間違いなく左胸のそれより強い。
ということは僕の心臓は下腹部にあるということか?
なるほど、内臓の位置が前世と違うようだ。魔力があるような世界だからな…そういうこともあるのか。
しかしその核とやらが左胸にあるのは幸運であるといえる。
ここの鼓動を意識するのは、生前の記憶を持つ僕には幾分か容易い事のはずだ…!
左胸に存在する核。そこから何か、血液や酸素とは違うものが体中に送られていくのを感じる…。
「これが……魔力か!」
体内を流れる力を認識した途端バクンと大きくそれは脈打ち始めた。
よし!いいぞっ…そう思った矢先、今までとは比べ物にならないレベルの倦怠感が僕の体を襲う。
「あ…れ?」
「核の鼓動が強すぎる!魔力の放出量が上がっているぞ!」
どうやら目の前の彼女には僕の身体から抜け出るものが見えているようだ…僕にはさっぱり見ることが出来ないのだが…宮廷魔術師を名乗るだけのことはあるのだろう。
「落ち着いて、核の鼓動を抑えるんだ。呼吸を整えるように…そう、そうだ」
言われるままに心と体を落ち着けていく。
心なしか先程よりは幾分か楽になった気がする。
依然身体は強い倦怠感を訴えてはいるが。
「次は…どうしたらいい?」
「魔力の放出は続いている。その流れを押しとどめ、体内を循環させるんだ」
そう言われて魔力を意識しても、核から流れる魔力は放射線状に広がるだけで、核に還ってきている感覚がない。
少しずつ、だが確実に身体から何かが抜け落ちていく。
「ダメだ…止まらない」
流れ出る魔力に否応なく死の恐怖が膨らむ。
「大丈夫だ。正直に言わせてもらえば予想以上に順調だよ、ある程度うまく行くだろうとは思っていたがこれほどとは思わなかった」
その言葉はどう考えても気休めだろう…身体から抜け続ける魔力がそれを伝えている。
「気休めではないよ。君の持った障害が死と同一視されるのは"この段階に来るまで" があまりにも困難であるからだ」
タブロが続ける。
「生まれて直ぐの赤ん坊に息をしろ、核を感じろ等と言っても伝わるわけがない。言葉が通じない上にそれを解する知能もないからね。核が起動していないのだから力ある言葉も届かない。そしてその赤ん坊は言葉を解するようになるまで成長できないか、もしくはその過程で発狂してしまい、正常な意思は育たない」
「賢く産んでくれた両親と意思を育んだジータ嬢に感謝したまえ。もちろん私にもだ」 早口でまくし立てた彼女がそう締めくくる。
なるほど、ワーズ・ワースとやらが何なのかはとりあえず置いておくとして、やはり僕は随分と幸運であったようだ。
なんせ前世の記憶持ちだ。このマトモとはとても言えない5年の歳月を乗り越えられたのは、ひとえにそれを認識し受け止められるだけの知能が僕にもともと備わっていたからだろう。
そしてそんな僕を生かし護ってくれた両親、僕の意思を育ててくれたジータさんと…この眼の前の変人。
これだけの要素が揃っているのだ。これ以上の条件などないのではないかとすら思える。
不幸の中の良かった探し?上等だ。探せるだけ探して使えるものはなんだって使おう。
此処に来て嘆く気などさらさら無い。そんなものは一歳の時にやり飽きている。
「そうか。じゃあ次は何をすればいい?」
僕の目に再度意思の光が宿ったのを感じたのだろう。タブロは大きく頷く。
「体内に魔力を留めるためにはまず魔力の流れを感じること。それはもう出来ているね。次はその魔力が行き渡る魔脈を、そしてそれとともに走る神経を、四肢の末端に至るまで認識することだ。そうだね、まず腕から動かしてみよう」
心臓を認識したように、6年前には散々動かしてきた腕に、意識を集中させる。
痛みの段階まで達した痺れと、気怠い疼痛の向こうに、確かに腕の、指先の存在を感じる。
魔素から投げ出された僕の身体はうつ伏せに倒れ、その両腕は後ろに投げ出されていたようだ。
指先から手首を動かすだけでも万力のような力を込めなければいけない。
なんせ身体は5歳時でも筋力は生まれたてのホヤホヤだ。運動不足というレベルではない。
それでもズリッズリッと石畳の上を引きずって腕を動かす。段々と手の痺れが薄れてきた。
腕を意識するとともに、腕から流れる魔力が留まり始めたということだろうか。
「よかった…触手じゃない…」
やっとの思いで視界に入れたそれを見て僕はつぶやく。
目の前には、細く、――静脈どころか毛細血管まで浮き出るほど病的に色が薄いが―― 確かに人間の腕が映っていた。指もちゃんと5本ある。
「自分を一体どんな珍妙な生き物だと思っていたのだね…」
「しかたがないだろう…今まで本当に腕があるのかすらわからなかったんだから」
呆れるようなタブロの声に口をとがらせる。
「…さぁ喜んでいる暇はないよ。次は下半身に力を込めるんだ。落ち着いて、慎重に。ゆっくりと…時間がないから素早く"立つ"んだ」
「ゆっくりと素早くってどんな……は?」
聞き間違いだろうか。
「聞こえなかったのかね。…さっさと立てといっているんだ」
腕を動かすだけでもこれほどの労力を必要としたのに、「立て」 だと?
「出来るわけ無いだろ!」
「…今出来なければ君の下半身は二度と動かなくなるぞ…出来なくてもやるんだ」
「無茶を言うな!
「無茶でも何でもやるしか無いんだ」
「無理だ。子供だって産まれて立つまでには1年近くかかるんだぞ!」
「何を…言っているんだ…本来であれば一週間もかからん」
一週間? この世界では一週間で子供が立つのか…こっちの子供はすごいな…。
「それにしたって1週間かかるんだろ?今の僕は産まれてまだ1時間もたっちゃいないぞ」
「確かに筋力だけではムリだろう…だが君の魔力と真脈は新生児のそれでは…ない。…それで筋…力を補ってやれば、十分…可能なはずだ」
「…?」
此処に来て、隣にいるはずの彼女の声が随分と苦しげになっていることに気づく。
声のする方向に首を無理やり曲げて見やると、タブロが僕に向かって両手を突き出した状態で、体中に珠の汗を浮かべていた。
「なにを、しているんだ?」
「何をも…何も、君が…ダラダラとしている…から君の体内の魔力がどんどん流れでて…」
そう言いながら苦悶の表情を浮かべる。
僕には見えないが魔力を放出しているのか? 額を通して入ってくるこの魔力の流れは大気中のものだけではなかったということか?
「君の…核は、随分と…大飯ぐらいだ…此処5年、君の魔椎と魔脈を広げるための治療を行ってきたが…広がりすぎだ…よ、全く」
「そんなことを僕に言われても…大丈夫なのか?」
「もちろん…大丈夫だとも…私はこの国に名だたる天才…魔術師…さま、だよ?」
「大丈夫なようには全く見えないんだが…」
「…そう…思うなら…さっさと…立ちたまえ!」
鬼気迫る彼女の表情に、「あぁ」という返事も惜しんで腕で行ったように意識を脚に巡らせる。
しかしやはり、心臓を意識した時にも感じたが、下半身の感触が上半身の比ではないくらいに鈍い。
しかし彼女の弁が本当なら、このままでは僕の足は一生動かなくなる。
ここまで来てそれは無いだろ! なんとしても、なんとしても立たなければ。
僕は必死で足の存在を認識する。そして足が動いていた頃を”思い出す”
相変わらず感触は鈍いが、そこに足があるはずだと思い込み、腰から太ももにかけて力を込めるイメージを行う!
ズッ と上半身が前にずれ、石畳を擦った。
いいぞ…間違いなく足がある!
僕は動き始めたばかりの腕を胸元に持ちやり、肘を立てて上半身を起こそうと試みる。
ある程度動くようになった腕とはいえ、いくら力を込めても上半身はピクリともしない。筋力が足りないのだ。
タブロの言葉を思い出す…筋力は足りない。それを、魔力で、補う。
意識を魔脈に集中する。
体内を走る血液とは違うもう一つの流れ。
それが四肢に満ちるイメージ。
ドクン、と腕が一瞬脈打った様に見えた途端、腕に力が満ちる。
同時に太ももから膝に、膝からふくらはぎに力を込めると、僕の身体が持ち上がる!
「よし…い…ッ」
そのままの勢いで起き上がろうとした瞬間。想像以上の重みが腕にかかり、つんのめったまま僕の顔は石畳にたたきつけられた。
「…ッ~~~~」
生皮を剥かれたような触覚の今の僕には、強烈すぎる刺激が脳内を駆け巡る。
ただ倒れただけだというのに、全速力ですっ転んだような痛みが肌を刺す。
しかし、この痛みも、今まで感じられなかったものだ…生きていることの証であると思えば、このくらい、なんだというのだ。
気力を振り絞り、意識を足に向ける。
先程は想像以上に下半身が重かったのか、腕の力が足りなかったのか。そのどちらかは判らないが、立とうとする力が後方にスッポ抜けて潰れてしまった。
今度はそうならぬ様、もう一度足に力を込める。
相変わらず下半身の感触は曖昧だが、足はたしかにそこにあるのだ。
立てる。
そう自分に言い聞かせ、手を地面につき、核から流れる魔力を四肢にみなぎらせる。
もはやタブロを見る余裕もないが、横から聞こえる荒い息遣いに、限界が近いであろうことは容易に知れる。
立つ…立つんだ。
『核の胎動は人の意志によって大きく左右される』
先ほどのタブロの言葉を思い出し。
ありったけの思いを核に込める。
僕のが為に前線で命を晒す父を。
父に代わり家を守る母が泣きながら僕に許しを請う姿を。
折れぬよう育んでくれたジータさんを。
今も横で息を切らし、いざとなれば僕を殺す覚悟までしてくれた彼女を。
そして、生まれてくる新たな家族を。
僕が、この手で。この足で守らなければいけない家族を!
核が今までにないほど大きく脈打ち横でタブロが苦しげにうめき声を上げる。
僕の体内にあるありったけの魔力が魔椎から核を伝わって体中を駆け巡っていくと同時に次、これ以上の魔力を込めるのは不可能だ、と本能が悟る。
「ぁ…く…ぁああ…」
手に、両足に。あらん限りの魔力を滾らせ、空に吠えるように上半身を跳ね上げる!
グァン!と跳ね板のように背中が反り返り、視界が一気に上昇する。
そしてその反動のまま倒れそうになる身体を、下半身に力を込めて全力で維持する!
「ぁ…がぁ……ぁあああ!!」
喉を裂くような咆哮が、狭い石室に木霊した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ドッ…ドッと、早鐘のように鼓動しているのは心臓だろうか、核だろうか。
おそらく両方であろうそれをゆっくりと抑えながら目の前を見る。
一気に頭の位置が上がり血流が下った所為か、めまいが起こり倒れそうになるが、歯を食いしばりこらえた。
「立て…た…」
呆然と呟く僕の言葉に答えるように、ドサリ、と目の前のタブロが膝をついた。
見るとあれだけ掻いていた汗ははいつの間にか消え失せ、肌は血の気を失い青白くなっている。
「タブロッ!」
駆け寄ろうとするが、下半身がうまく動かず転びそうになる。
それをやっとの思いでこらえると、タブロが右手を僕の前につきだした。
「大丈夫だ…少し…魔力を使いすぎた…じきに、良くなる」
肩で息をしている彼女を見て僕は言う。
「立てた…立てたよ!」
「あぁ…はは。まさかここまで上手くいくとはね…半身不随で御の字、位に思っていたのだけれどね…」
そう言いながら彼女は笑う。
瑞々しかった唇はカサカサに乾き、目の下に大きな隈ができている。
ここまで消耗しながら、僕に魔力を送り続けてくれていたのか…
普段は皮肉と嫌味と奇言と妄言に溢れた彼女の本当の姿に、胸が熱くなるのを感じる。
「タブロ…ありが」
「しかし…せっかく用意した毒薬が、無駄になってしまったじゃないか…自信作だったのに」
…
うん。気のせいだった。
「お前…なぁ…もうちょっと、こう、さぁ?」
「なんだい? よくやったね。と、優しく抱きしめて欲しかったのかい? でも残念だね… さすがにそんな元気はないよ。今立ち上がれば君の方に倒れこんでしまうだろう。それとも何かい?そうなったら優しく抱きとめてくれるのかい?」
正直先ほどまでであればそれもやぶさかではなかったのだが…
「でも、そんな生まれたての子鹿のように震えたままじゃ、いかにスリムな私とは言え受け止められるとは思えないね…一緒に地面にキスする趣味はないよ」
この変人を少しでも見なおしかけたことがバカバカしくなった。タブロはタブロだ。それ以上でもそれ以下でもない。
それにしたってもう少し言いようってものがあるだろう。
確かに気を抜けば倒れそうになるが、『生まれたての子鹿』はないだろう。そんなにプルプル震えちゃ居ない。
ちゃんと力強く地面を踏みしめ…え?
此処に来て初めて足元を見やると―― 一気に高くなった視界に、一瞬めまいを起こしそうになるが―― それよりもその先に…
え?
腹から下の部分が黒い毛で覆われている。毛深いというレベルではない。
そして腕に比べると何倍も逞しい両足の先端には、見慣れぬものが。
その見慣れぬ"足"に意識を向けるとカッカッと硬い音を響かせながら地面を鳴らす。
…え?
ぎりぎりと、視線を”後方の”下半身に向ける。
首をひねった先には大きく突き出た、やはり毛むくじゃらの尻と、もう一対の足…いや脚が。
……
尻の先端にはつややかな長毛が生えている
…混乱する頭のままそれに意識を集中すると、 クイッと動いた根本に連動してパサリと動いたそれが、まだ付着していた魔素の粘液を地面に振り落とした。
…は?
この瞬間僕はすべてを理解した。
上半身と違って下半身を認識するのに手間取った理由を。
あの日父さんに付いてきた謎の人物の正体を。
――あの日、父さんは部下なんか連れてきちゃ居なかったのだ。
…はぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?
この日。
僕ことリヴィロ=フリーザンはこの世界に本当の意味での生を受けた。
魔力で満ちたこの世界に。
フリーザン家が長子の――ケンタウロスとして。




