ご葛
一口食べた途端、感激したようにえくせれんつと小さく叫んだマフィアに私は「そうだろう」と破顔した。
私は食べ慣れた味の為に今更真新しい感激を得たりはしないが、自分が認めた味を他人も同じように評価するというのはすこぶる愉快な事である。緑茶片手に渋く笑みを浮かべ、私は「どんなもんだ」とニヒリズムを意識した。成功したのはニヤリズムの方だったようだが、ちょっと笑い方がおかしいかおかしくないかの違いだ。大差はあるまい。
「そう、これぞ国で食べたものと同じ味。ありがとう、ここまで来た甲斐がありました」
「はっはっはいやいやそりゃよかった」
何と礼を言ったら良いかと感動するマフィアに、私の鼻は人をペテンにかけて鼻を伸ばした某木彫り人形の如き成長を見せた。後は目の前で嬉しげに餅を頬張るマフィアを海に放り込んで鯨の腹に飲まれれば完璧であるが、果たしてゼベット爺の称号を得た彼が喜ぶかどうかは微妙だ。確かにゼベットとはバファリンに並ぶ優しさ成分50%含有の代名詞だが、どうあがいてもその存在は年寄りでしかない。百歩譲ってそれが愛を籠めたニックネームだったとしても、未だ年齢二十四歳だと言う若きマフィアが「やあ爺」と呼ばれてその呼んだ奴を張り倒さない確証はどこにも無い。呼ばれた瞬間地球の皆へオラに元気を貸してくれと叫ぶ可能性の方が高いだろう。貸すかどうかは神のみぞ知るだが。
「そういえば、お国はどちらなんですか」
ふと思いつき、今日のご飯は何ですかと似たニュアンスで質問すると、マフィアは唐突にぶぐぅと咽せた。何故咽せるのか理解できず、だがとりあえず奴のグラスを手にとって差し出した。マフィアはあたふたしながらそれを受け取り、透明の液体をごきゅごきゅと飲み干していった。
因みにそのグラス、運んだ店員・紅饅頭の指がずっぽり突っ込まれていたのを目撃していたが、きっと害は無いだろう。私には。
「あの、大丈夫ですか?」
「――は、はぁ、はぁ、・・・えぇと、その」
マフィアは何とか事なきを得、だがしどろもどろと言葉を濁した。どうやら国名を聞くのは彼にとってタブーであったらしかった。奴の慌てぶりから察するに、彼へ国名を聞くのは恐らく公共の場で18禁用語を連発するのと匹敵するほどの危うさを含んでいるのだろう。何てことだ、知らぬとはいえ18禁用語を連発していたとは。
普通に考えたらそんなモン怪しい事この上ないが、私はミンチと隣り合わせにいる身の上である。己の保身第一で、不審がることなく転換できる話題を探した。
「え――・・・葛餅美味しいですねぇ!」
ははははは!と白々しい笑いを添えてもはや確認された感想を述べてみると、マフィアは一瞬ポカンとした。いかんウィットに富みすぎたかと焦ったが、マフィアはすぐに「えぇ美味しいです」と微笑んだ。やったナイス判断、これで命は繋がった。
「――ありがとう」
内心己の健闘にマッスルガッツポーズを掲げていると、ぽつりと小さく礼を言われた。いきなり何じゃいと奴を見れば、濃いサングラスの下で微笑んでいるのを感じた。
何に対しての礼だか解らなかったが、こちらこそ命が助かりごっつぁんですだ。
いや何も食ってないが。
「それにしても葛餅ってそんな珍しいもんなんですか?」
「あぁ、あなたにはそうですね」
素朴な疑問でそう尋ねると、マフィアは口に苦笑を刻んで頷いた。
「珍しいですよ、私にとっては。私の国にはクズモチがありませんからね」
食べようと思って直ぐ食べられる手軽なものではありません。
そう微笑むマフィアに、私は思わずなるほどと納得した。葛餅など私にとっては主食の米と同じくらい巷に溢れるものであるが、その存在自体が無いお国の方にとっては私にとっての世界三大珍味と同じくらいの価値があるのかもしれない。わざわざ国外から高い金出して味を求めてやってくるブルジョワ野郎の気は知れないが、三大珍味なら確かに心惹かれるものがある。斉藤家大黒柱、我が父親斉藤輝明を信じるならば、世界三大珍味とはキャビアとアワビとカズノコだ。キャビアは食ったことが無いから何とも言えないが、あとの二つは味を知っている。さすが世界三大珍味だけあって、正月にしか食えない高級食材だ。
「残念ですね。いっそ主食にしたらいいのに」
「え、日本では主食なのですか?」
誰がそんなこと言った。思わず反射で手首のスナップを最大限に活かした斉藤ツッコミセレナーデをお見舞いしかけたが、危ういところで手首にストップをかけ、肉料理として食卓に並ぶ危機を脱した。永久就職お嫁さんというフレーズは聞いたことがあるが、永久就職ミンチ加工などというフレーズは聞いたことが無い。できればそれに適用されるのは一生勘弁願いたい。
だらだらと冷や汗を流しつつ、ある種生死の狭間で固まる私を他所に、マフィアは食い終えた餅皿を楽しげに見て「日本の人はやはり葛餅を主食にしたいのですね」と言った。いやだからしたくねーよ米オンリーで結構だよ!再びひくついた手首の動きを全力で制止させた。
ああもう豚バラ肉と一緒にパック詰めされてもいいから突っ込みたい。
私の思考がちょっとデンジャーゾーンへ逝きかけている最中、マフィアは唐突と皿を持ち上げた。私は一瞬嫌な予感を覚えて奇妙な挙動で身構えたが、ただ手に持ってしげしげ眺める彼の様子にどっと安堵の吐息を漏らした。良かった、皿食ったらどうしようかと思った。
「この店は、いつもこのお皿で葛餅を出しているのですか?」
ほぅと溜息を落としていると、低い声が柔らかく言った。目を瞬きながらマフィアを見ると、皿を持ったマフィアが小首を傾げて私を見ていた。
「皿ですか?」
「えぇ。この皿、普通にお客に出しているのかなと思って」
何でいきなりそんな事をと思ったが、純粋な好奇心によるもののようだったので私は頷いた。マフィアが持ち上げて見詰める皿、それは市販の大量生産陶器とは違う少々デコボコした造りで、どうやら何者かの手作りらしい。大量生産食器の方が壊しても罪悪感沸かないので私は好きなのだが、まぁ雰囲気作りの為にこのボコ皿を使っているのだろう。見た目ボロくて分細工なので使いにくいことこの上ないが。
私は己の残った餅をぽいと口に放り込みながら、「そうですよ」と軽く言った。
「いっつもこの皿です。普通の皿は持ってないんでしょうかねぇ」
「ほう、ではサービスか拘りかどちらかなのでしょうね。この器、名工の作品ですよ」
マジで!?
「ぉぐッ!?」
途端、私の気道が閉店した。唐突と言われた言葉に驚愕し、私は息を呑んだつもりが餅を飲んでしまったのだ。
やべぇ餅が!餅が詰まった!ノーブレェェス!死ぬるぅううー!!
やばい乙女のピンチだ。途絶えた呼吸に眼球をせり出し、がっと目の前のグラスを握って命の水を飲み干した。垣間見えた川の対岸で、死んだ祖父がラメの入ったハラマキを振り回していた。――アレは生前の祖父のお気に入りだ!
「…、おぐっ…、ふぐ…ぶおおッ・・・!!」
危ういところで悶絶しながらも己の体へ生還し、私はレース後の競走馬のようにびゅうびゅうと鼻を膨らました。前方のマフィアは皿に夢中で我が変容には気付いておらず、それをいい事に私は空になったグラスをがつんとテーブルへ叩き付け、「へいおやじ、もう一杯!」――どこがオトメだこんちくしょう。
何とか息を整え、私はマフィアに様相を知られまいと厨房を向いた。
おっさんくさくても一応は女だ、マフィアであっても見目麗しい男の前で鼻の穴膨らませるのはなけなしのプライドが許さない。良かったあったのかプライド!
ところが。
「―――――ッ!?」
ざぁっと音がして、私の顔が土気色に変貌した。
瞬間的に血の気が引いたのは初めてである。本当に音がするのもなのかと状況を他所に感心し、しかし思い切り引いた反動で椅子が珍妙な悲鳴を上げた。だが悠長にそれを考えている場合ではなかった。
厨房へと続く紺染めの暖簾が下がる隙間、普段は気さくな店長が人好きのする笑みで顔を出すその場所に、細い隙間を割って恐ろしい悪鬼の顔をした饅頭が目をぎらつかせていたのだ。
ぎらり。放たれる眼光は殺気。饅頭が私へと向かって飛ばす気迫は、紛れも無く殺気と怨念であった。目が合った瞬間椅子蹴飛ばして走って逃げなかっただけでも褒めて欲しい。普段なら間違いなく金も払わず全力で逃走している。食い逃げと起こられるかもしれないが、店長なら何があったか何となく察してくれるはずだ。きっと。
私は蛇に睨まれた蛙の如く硬直したが、マフィアが「これ、銘は無いんですかねぇ」と呑気な声を出したのを切欠に、埴輪状に歪ませた顔を可及的速やかに奴へと向けた。危なかった、あのまま見つめていたら絶対に私は饅頭から喰われていた。あれは山を奪われた妖怪狸の怨念の目だ。
私は身の危険を感じ、ヤツの視線から逃れるべくじりじりと首の位置を動かした。頼むマフィア、盾になってくれ。大丈夫、喰われても三日は覚えてやれるはずだ。それ以降は自信が無いので保証はできかねるが無意識下で冥福は祈り続ける可能性は限りなくゼロに近いがゼロではない!
じりり、と動いた拍子に、中途半端に伸びた髪がざんばらと肩から滑り落ちた。この邪魔髪め、と私は顔を引き攣らせ、髪が離れるよう軽く頭を振りまわした。ぶん、と空を切って大方の髪は背中へと舞い戻ったが、僅かな髪が更に首にかいた脂汗に張り付いてしまった。うおお気持ち悪いと片手で払いのけたが、振り子宜しくまた同じ場所に戻ってきた。ふざけているのかこの髪野郎が。
私は内心で激昂し、やはり結ぶかスキンヘッドにすればよかったと心底に思った。だが、もしも後者を選択した場合指差されて陰口叩かれる部類に入るだろう。どうかするとヅラをプレゼントされて本末転倒になる可能性もある。それでは単なる隠れハゲだ。強風にいちいち怯える生活が待っている。
世間の何と狭量か、と私が哀愁湛えて溜息を着くと、視線の先で持ち上がっていた皿がビクリと不自然に揺れた。そして続いた、小さく息を飲む音。
あれ、と驚いてマフィアの方に視線を向けると、小奇麗な顔がすぐ側にあった。饅頭の視線を逃れる余り、どうやら近付きすぎたらしい。
「あ、あわわ、どうもとんだ失礼を」
やっちまったと謝りながら身を起こす私に、マフィアは何故か微妙に慌て、「いえ、お気になさらず」と皿を机に置いてしまった。その顔はかなり動揺を示しており、何故なのか目の端付近に朱を刷いていた。まさか紅饅頭の呪いが。
「そ―――それでは、出ましょうか?」
じろじろ不躾に観察していると、慌てたようにマフィアが立ち上がった。
私は焦った。やばい、盾が居なくなる!
「あああ、ちょ、ちょっと待っ・・・」
私も慌てて立ち上がり、そしてすかさず彼のレディファーストが来る前にさっさと伝票を握った。
――と、思ったのだが。
「えぁっ?」
すかっと空を切った手に声を上げると、目の前に佇むマフィアがくすりと笑った。
何事かと目を瞬けば、白い伝票はマフィアの手に握られており、私の手は間抜けに空中でわきわきしている。
「あの、代金…」
「ふふ、そうくると思いました」
外人的ジェスチャーで(いや紛う事なき外人だが)、マフィアが肩をすくめる。
「貴女ならご自分で、と言うと思ったんですよ。いけません、ここは私が払います」
「え、ええっ?でで、でもそれは、」
「――あのですね」
貸しを作ってたまるかと反駁しかけると、マフィアは困ったように微笑んだ。
「これは案内していただいたお礼と、付き合ってくださったお礼なんです。ですからここで貴女に払わせてしまったら私の立場が無いでしょう?」
そう言って、奴はかくりと首を傾げた。サングラスはつけたままだったが、浮かべられた笑みは間違いなく美しかった。一瞬それに見とれながら、ちきしょういいよな美人はよ、と心の底で「の」の字が増殖されていた。僻み根性は誰にも負けない。
私は見とれた恥ずかしさと美への僻みで俯き、「すいません…」と極めて弱っちい言葉を返した。多分顔は毛細血管に存分と血が行き渡り、猿のケツのようになっているだろう。心臓なんかどかどかと地団太を踏んでいる。ええいくそう、だから綺麗な異性は苦手なのだ。綺麗な異性同士の歪んだオハナシは大変好きだが。
マフィアは「解って頂けて嬉しいです」と本気で嬉しそうに言うと、では行きますかといいながら私の背中に手をやった。うむ、レディーファーストには一生慣れそうも無い。
「お会計はご一緒で宜しいですか?」
「はい」
「かしこまりました。全部で1650円になります」
私は先に出るのも食い逃げみたいだなと思い、マフィアが精算を済ませるのを後ろで手持ち無沙汰に眺めていた。マフィアは提示された料金に頷きながら、懐からやたらと高そうな白い上品財布を取り出した。私の持つボロ雑巾のようながま口財布とはエライ違いだが、八年もの歴史をその身に刻んでいるのだから仕方が無い。しかも近頃がま口が壊れたので輪ゴムで縛って使っている始末である。いや、新しいの買ったら入れるものが無くなるのだ。本気で。
(――あれ?)
ふとマフィアの持つ財布に模様が入っているのを見つけた。じぃっと土偶の如く目を細くして見詰めると、何か小さく紋章が入っていた。それは凹凸とかプリントじゃなく、細かな刺繍で描かれている。
は、と目を見開いた。
(な・・何だと!?)
思わず生唾を飲み込んだ。恐らく、であるが――あの財布は市販に売られている物品ではない。我が金目のものサーチアイは警告音を響かせている。あれは普通のものではない――そう、あれも恐らくオーダーメイドだ!
うわぁと仰け反りながら、しかし私はこっそり財布の中をチェックした。
「・・・―――ッ!?」
今度はうっかり叫びかけ、慌ててその口を両手で押さえる。何と我が目玉が捉えた映像は、見慣れた英世や不気味な一葉では無い、天下御免の諭吉様が約十数名在籍しておられる財布映像であったのだ。
有り得ない、あり無いだろマフィア。在籍しすぎにも程があるだろう一体どれだけのショッピングを施す気であるのだこのブルジョワは。あぁマフィア!是非とも数名の諭吉除隊を求めたい、そして出来れば除隊先はこの壊れた雑巾の如きガマ口の中にしていただけないものか!
私は目を皿にようにして財布を見詰め、更なる衝撃にぐばぁと口を開いた。――カード、そのカードは!それは有る一定以上の資産所有者でなければ所有する資格を得られぬという噂のブラックカードではあるまいか!
――実在したのかブラックカード――!!
私は衝撃と輝きと欲に目がくらみ、ふらふらと目頭を押さえた。
ああ、輝きが眩しい。我が貧乏アイには眩しすぎる。
私は疲労を覚えながら、しかし確実に理解した。
こいつは―――マフィアは。
(・・・金持ちの規模が尋常じゃない・・・)
私の常識による「カネモチ」。それで説明できる範囲を、彼は超えていた。
恐るべし常識外カネモチ――カネモチ片仮名表記にするとコマネチに似ている。
「お待たせして済みません」
「、!」
精算が済んだマフィアがそう言って微笑みかけたとき、私はもうまともにマフィアの方を見ることが出来なかった。気付いてしまった事実に怖くなって。
「あの、どうかなさいましたか?」
どうにかなりたい気分だよ。
不思議そうに尋ねるマフィアにうふふと首を振り、「いいへ何もございまへん」と答え、私はちどり足で店を出た。マフィアが相当困惑しているのは気配で解ったが、ブラックカードの威力は俺は旗本の三男坊と言い張る上様の「余の顔見忘れたか」と同等の効果を私の頭蓋にもたらしたのだ。何と恐ろしいことであろう、その言葉を出されたら絶対己の悪事を全部事細かにバラす仕組みになっているのだ。私はまだ何も喋らないぞ!――そうだ、だからこのマフィアにはこれ以上関わるべきじゃない。
私は本能的にそう思い、危険信号を発するノミ心臓に歯を食いしばった。
私は忘れかけていた。こいつは、裏社会で暗躍する犯罪組織の一員――マフィアなのだ。
たぶん。
店を出て、バス停に行く途中の交差点で私は最後の勇気でマフィアを見上げた。
話すときは人の顔を見て話すのが礼儀であるし、何より奴とは後にも先にもこれきりなのだ。是非ともこれきりになって貰わねば困るのだ。もう人の弁当のおかず取り上げたりしないからこれきりにしてほしいのだ!
「・・・それじゃあ、この道を真っ直ぐ行って、右に曲がったところがバス停ですから」
「――え」
突然だったので驚いたらしく、マフィアが虚を疲れたように言葉に詰まった。
私は首を傾げ、「いや、もう戻られるのでしょう?」と尋ねると、慌てて「あっ」と声を上げる。
「えぇそうですね、戻らなければ・・・。どうも、ありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ葛餅を奢って頂いてありがとうございました」
おかげで昼飯が豪華に食えます。そんな含みを隠しつつ笑うと、マフィアはそんな、と言いながら照れたように微笑んだ。その微笑が少し寂しげに見えるのは、私の目の錯覚か、あるいは葛餅屋の水に幻覚剤でも入っていたかのどちらかであろう。紅饅頭ならやりかねない。
「――では、道中お気をつけて」
「はい、・・・本当にありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ」
私は微笑み、早々にズラかろうとした。
その時だ。
「―――危ない!!」
急にそう叫ばれ、何だと思う間もなく私は強く後ろに引っ張られた。唐突に動いた視界はぐるりと反転し、バランスを崩した体が背中から何かに抱きこまれる。その瞬間に私が今まで居たその場所を、青い車が凄いスピードで疾走していく・・・残像を、見た。
―――ヴォン!
残されたのは、轟音と、凄まじい風。
紛れもなく、そのまま立っていたら私の生涯はその場で終えていた。きっと空高く舞い上がり、赤く弾けて「たーまやー」の声とともに観客の目を喜ばせていた事だろう。――ってふざけんな、弾けてたまるかどちくしょう。
「・・・お・・・・・・・・」
喉がひきつり、掠れた声が漏れた。
(………――何?)
―― 一体、何が起きたのだろう。
訳が分からず、私はただ呆然と目を見開いていた。きぃいんと耳鳴りがして、思わず後ろから回されている腕に何も考えず両手で縋る。
………何なんだ、何なんだ…!
あまりの事に言葉が出てこず、私は真っ青になって唇を戦慄かせた。あと、あと一秒でも遅かったら。
そう思ったら急に恐怖が襲ってきて、膝からガクンと力が抜けた。慌てて縋る手に力を込めると、回されている腕にも優しく力が込められた。あぶねぇ・・・!まだフォルダにパス設定していないのに死ねないよ・・・!
「・・・驚きましたね。大丈夫ですか?」
場違いな安堵をしていると、頭上で低い声が聞こえた。声は背中に振動として直接伝わり、回された腕がぐっとまた強まる。
(え?)
そこまできて、私はやっと気付いた。
「どこか痛めたりしませんでしたか?」
心配そうな声。
低く穏やかであるが、それは耳元で聞こえる。
「・・・どうしました?」
そう、直ぐ横の、私の耳元で。
(――――な・・・!)
ぼわぁっと頭に血が上った。
何ということであろう、私はマフィアに後ろから抱きしめられていたのだ。
しかも、自分自身で思い切り縋り付いて。
「だっ――だだだだだ大丈夫ですっ!ほんとすんません失礼しホワチャアッ!?」
「おっと」
大慌てで彼の腕から体を離そうとしたが、膝に力が入らず転けそうになった。
唐突の事だったので女らしい悲鳴など用意できず、どこぞでドラゴンを燃やす上半身裸の格闘家の如き奇声でマフィアの腕に舞い戻った。わァいオカアサンただいま!誰だよ!
「力が抜けているんでしょう?離れると転けますよ」
「す、すすっすいませっ」
「いえいえ」
マフィアは朗らかに笑ったが、私の内心はわけの解らない錯乱と同時に「すんませんいやもうマジですんません」と情けない謝罪を繰り返していた。葛餅奢ってもらった上に縋りつくなど、あぁ何とアホな女であろうか。
格好良く去ろうとしたのに何と言う体たらく。おおタイマシンよ、そちはいづこにありや!
私がどっぷり自己嫌悪に浸かっていると、マフィアが唐突に「ちょっと失礼します」と言った。
何が失礼なものか、むしろ失礼は吾輩である名前はまだ無いと私は言いかけ――
「――でぇ!?」
ふわりと浮いた体に、やはり若い女らしからぬ悲鳴を上げた。何の奇跡が起きたか、我が肉体はライト兄弟を出し抜いて宙にぷかりと浮いたのだ。おお神よ何てこと、玉を七つ収集すれば願いを叶えてくれるあの世界、努力すれば人間でも飛べるあの世界へ私もついにきたのね!
な訳が無くて。
私は何と、マフィアに横抱きにされていたのだ。そう、所謂オヒメサマダッコという未知なる領域のアレである。間違っても捕まった宇宙人ではない。
「あああああわわ、わ!なな、何を・・・!!」
「あぁ大丈夫です、力は強い方なんですよ。落としませんから安心して」
「重いですから!ヘヴィーですから!」
「え、軽いですよ?」
「いいえ!それはこれから」
段々重くなりますと反論しかけ、妖怪か己はと口を噤んだ。アレだ、夜中に通行人へ声をかけちゃあ「子供を抱いてください」と赤ん坊を差し出して、しかし実際抱くとこれが段々重くなって気が付いたらでかい石になってたりしてその重さに耐えると怪力を授けてもらえるとかいう――え、ってことは私石か?石コロかい?
思考をまたもやぶっとばしていると、マフィアがすたすたと歩き始めた。
「あああ、あの!」
「そこに公園がありましたね、そこで少し休憩しましょう」
「しし、しか、しかし!」
「あ、本当だ鹿がいますね」
ちげーよ、ってあれ出やがったよマジで!
林の向こうから顔を出した鹿に帰れと内心で怒鳴り、現状を表現したいんじゃないといいたかったが己の態勢があまりに恥ずかしく、私は結局ただ巨大岩として黙って抱かれているしかなかった。公園まで耐えた暁には、マフィアはマッスルボディーになっているに違いない。