いち葛
「ほい、飯。はよ食え」
「はーい、さんくす」
母に感謝の言葉を口にして、差し出された茶碗を受け取った。朝食というのは一日の気力を養う大切な食事だ。しっかり食わねばなるまいよと結構な大盛りのそれらを手に握り、私はテーブルに行きながら足の親指で通り道のテレビのスイッチをばちこんと入れた。
「こら椋香ぁっ!」
「悪いとは思ってます!」
母の怒声に元気良く反省のかけらもない言葉を返すのは朝のやりとりのちょっとした仕返しだ。そうしていつものように、お馴染みのニュースキャスターがお馴染みでないニュースを読み始めた。ニュースがお馴染みだったら大変だよね。
「むっしゃむっしゃ、うーん今日の日本は平和かな」
『―――昨夜、エストリフス王国の皇子、レイディック・エストリフス皇子が来日されました』
口いっぱいにほおばった米粒を噛み潰していると、この日本では聞きなれない「おうじ」という言葉に耳が反応した。おうじとはあれだ、たまごに点が無いやつだと妙な漢字変換をし、みそ汁の具に集中していた顔を上げてテレビのブラウン管を見る。
『皇子は日本とエストリフス王国の国交を良くする目的で来日されており、これから一週間程滞在される予定です。しかし今日は体調が思わしくないとの事で、皇太子様との会食は明日に延期になりました』
続いてこれから3日のご予定やら皇太子様の様子やらをキャスターが話す。
そしてテレビに映った皇子とやらの顔を見て、私は思わず動きを止めた。その画面には、金髪の綺麗なツラした外人が、無表情にこちらを向いて映っていたのだ。何と言う美人。これCGですと言ったら信じるよ私。
「ちょいと母さん、見てごらんよ!」
「え、何ー?」
「どこぞの皇子サマが来たらしいよ。スゲー美人!CGという可能性もあり得る!」
言いながら、私は箸でテレビを指した。その箸先端にワカメがびちびちとぶら下がっていたが、特に気にせず振り回した。
「ホラあれ!目が緑のこの外人!人外ではなく!」
しぴぴぴぴ。
振り回した反動でワカメが汁を撒き散らしながら飛んだ。あ、と叫ぶ間もなくワカメはびちりとテーブルクロスに華麗な着地を果たし、どうみても嫌な模様を布に染み渡らせた。私の記憶が正しければこのテーブルクロス、昨日買ったばかりだ。見なかったことにしよう。
「おおー、格好いい外人だわね。どこの国だって?」
「ん、国の所は聞いてない。長すぎて耳が拒否したよ」
「あんた長すぎに関わらず横文字は全部拒否するよね。初めて聞く名前?」
「えーと、あ、そうそうワカメ合衆国だと思う」
「嘘つけよ。何でワカメだ」
「だってワカメって将来性感じない?なんたって飛ぶんだよワカメ。げに尊きは海からの賜り物よ!」
「なんでワカメが飛ぶのよ!もういいから早く食っちまえ朝飯!」
だって今飛んだ、と言いかけ自分で首を締めている事に気づき慌てて飯をかき込んだ。いけない、全ては無かった事になったのだ。私はテーブルクロスのワカメを見ないようにしながら食器を片づけた。すでにこの瞬間には見知らぬ外人の事など頭から消えている。
化粧も用意も終わり歯を磨いた後私が玄関へ向かおうとすると、母が徐に千円を差し出した。
「ハイ昼飯代。弁当つくれなかったのよね、あったはずのおかずが冷蔵庫になくて」
「わぁい、千円だ!おかずって、もしかしてハンバーグ?」
「そう……ってさてはあんた!」
「あっはっはっは行ってきます!」
「待て!待ちなさいこらぁ!」
母から千円を頂くと、私は脱兎の如く家を飛び出した。深夜に腹が減ってつまみ食いしたあれがまさかそうだとは予想外だ。
自転車に乗るべく車庫へ行くと、多分弟の所業であろう、見事に将棋倒しにされた自転車があった。まぁ悪い子と言いながら真ん中の我が自転車を引き抜くと、私は他のを行儀良く蹴飛ばして中央に移動させた。そしていざゆかんと気合を入れ颯爽とサドルに飛び乗ると、尻が落下したその瞬間ぷしゅうごちんという屁の様な空気音と衝撃音がして、我が尻(主に尾てい骨)に凄まじい衝撃が走った。
「あああああああッ」
痛みに叫びながら引けた腰で飛び降りて見ると、何と前輪のタイヤがパンクしている。私はケツを両手で握り締めて、思わず唇を噛み締めた。
「お前、貴様!この自転車野郎!そりゃ私に対しての嫌味か!嫌味なのか!」
確かに太った。最近目を見張る成長振りを我が腹や臀部はしている。でもだからといってパンクすることはないだろう、しかも乗った瞬間に!衝撃が何のクッションも無く臀部に襲い、心も体も痛いこの私の気持ちが分かるのか?尻に青痣が出来てこの歳でもうこはん?と笑われるこの私の気持ちがわかるか、そこのパンク自転車よ!!
心で叫び、指を突きつけるが奴はただ車輪をからからと動かしただけだった。それが笑い声に聞こえ、何て嫌味な自転車だよと涙ながらにふと腕時計を見ると。
「おおぉ!?」
時刻は電車発車前十分を指していた。この自転車、パンクしただけでは飽き足らず私に駅まで走れと言うのか。最近運動不足で体脂肪増加中そして筋肉は衰退中のこの私に、走れと!何て仕打ち!
嘆きつつ、私は駅まで全力疾走を覚悟して靴紐を締め、ようとして紐が無い事に気づいて屈伸をした。動作に無駄は無い。そして打ち上げがあるのを言ってない事を思い出し車庫から出ると、家に怒鳴った。
「おかん、今日は打ち上げで遅くなるから食べてくるけどうちの夕食も夕食で食うから!」
「わかったー、え、待って両方食うの!?」
「食うに決まってんだろー!いってきまーす!」
気をつけなよーという威勢の良い母の返事を聞くと同時に、私は門を足で開け放って疾走した。後ろで母が足で開けるなとかいったような怒鳴り声が聞こえた気がしたが、残念ながら今日はそういう言葉が聞こえない日だった。そして多分明日も聞こえない。日曜日っていい言葉だよね。
ところで明日からは冬休みだ。電車に今遅れそうであっても、私が明日から冬休みなのは変わらない。さあ遊んで怠けてごろごろ生活!夜更かししろと手が唸る!怠惰生活まっしぐら!
…と言いたい所だが、哀しいことに我が学校は短期大学だ。未だ就職先の決まっていない私は口を開けている就職活動の渦へ飛び込み溺れて死ぬ必要がある。いや死んではいけない。しかもその渦の中には不況という名の嵐も漏れなくついてくるのだ。嵐の中にゼベット爺さんの一人でもいれば心強かろうが、実際いるのは妖怪とかチンピラでさ、唾とか吐きかけられるんだきっと。日本古来の諺にある「捨てる神あれば蹴落とす神あり」まさしくその通り―――おかしいな、救いが一つも見当たらないのは何故だろう。こんな無慈悲な諺だっただろうかこれって。
「……は…うっ!」
無意味にそんな事を考えながら全力疾走していたら、運動不足で衰退の一途を辿る我が肉体は早速限界が訪れた。まだ5分も走っていないのになんてこった、若者気取りでいたのに。
ぶひゅぶひゅ言いながら鼻息荒く再び腕時計を確認すると、何と電車発車まであと3分になっていた。この地点から駅までの距離を考え、私の疲労度を足して所要時間を考える。
「……ははっ!」
無理!
パァと周囲に大輪の花を咲かせて自分にグッジョブと笑顔を撒き散らせた。間に合うわけがないだろバーロー、諦めたよ!そうさ私は無理ならしない、やればできるなど詭弁だ。やれる訳ないのにしても疲れる分無駄と言うものだ!
…と、そういう結果であるので、私は奇跡が起きる以外道はないと判断した。車掌さんが今すぐ盲腸でも起こせば間に合うと思うが、そういう発想はいわゆるロクデナシなので自重する。さてじゃあこれからどうしようかなと思いながら私は顔を上げ、そこで視線を止めた。
進行方向に、外人が地図を睨んで佇んでいたのである。
今の時代、別に外人が居ても何の違和感も無いと言えば無いが、ここは天下のド田舎だ。外人が来れば注目し、三歩歩けば人だかり、町内回れば神仏扱いだ。拝まれ供物を捧げられること請け合いである。うん、注目以外は全部嘘だが、私も例に漏れず田舎者根性で外人を注視した。遠慮?しないよ、だって田舎物だもの。
外人は、多少整いすぎている感のある容貌をしていた。髪はプラチナブロンド、瞳色はサングラスで不明、しかしまるで陶器の人形かのような美しさだ。あれでデメキンみたいだったら笑うけどそんなわけないだろう。しかも、服装・漂う雰囲気から察するに金持ちである可能性が高い。貧乏人の僻みがこもった洞察力、名付けて「金目の物サーチアイ」は百発百中だ。そしてどうやら様子からして外人は道に迷っているようだった。
これはもう、私の後の行動は決まっている。
こんな時の為に、先人はとても良い言葉を残している。そうまさに、今の私のためにあるような言葉、『触らぬ神に祟りなし』!
いやね、確かに困っている人を放って逃げるなんて、とは思うよね。うん。でもこれは例外だ。なぜならば困っているのは外人。外の人なのだ。外の人は日本の人ではないのだ。私に外人語など操れるわけがない。金も無い。
金はともかく、何を隠そう我が英語力の悪さは桁外れなのである。それなのに小学生時代英語教室に通っていたという、言った方がむしろ恥になってしまう信じられない経歴の持ち主だ。以前友人にこの事がばれて「じゃあ英語結構得意だろ」と言われた事があった。その時、私は黙って笑いながら成績表を見せた。自慢じゃ無いが、私は英語のテストで50点以上とったことがない。しかも急に話せと言われてハロー、シェイシェイと口走ったのは私である。「こんにちはありがとう」とは又全く意味が解らない。そしてシェイシェイは英語ではない。友人は一通り成績表を見た後、悪かったと真面目に謝っていた。
それに致命的な話し、私は極度の方向音痴だった。方向音痴と言う言葉で済ませていいのだろうかと言う位酷かった。一種の才能かもなといわれた事すらある。地元で迷子などまかしとけと胸張って言える。言った瞬間馬鹿呼ばわりだろうが。
それに相手はサングラスをした長身の美形金持ち外国人。もうマフィアに違いない。ポケットに絶対銃を携帯している。日本では銃刀法違反で捕まるのに奴はそれを掻い潜って握っているのだ。この田舎には抗争に疲れて逃げ込んできたのだ。亡命だ、亡命に決まっている。捕まったら絶対内蔵ばらされて売られる。しかも麻酔使わずに!怖!
以上の根拠一つ無い危険点を踏まえ、私は全力で外人の横を走り去ることにした。
が。
「あ、すみません!」
―――あ、死んだ!
まさに通過しているところで声をかけられ、瞬間で私は生に別れを告げた。白目を向いて奇妙なポーズで立ち止まり、ただ死への序章にちびりそうになった。我が心境も知らず外人は足を止めた私に安堵の表情を浮かべ、ほっとしていた。それは私が高校の時に数学のテストの点数が悪くて頭を抱えていると友人のテストの点数が更に悪かったと分かった自分の表情と酷似していた。どうしよう、心が狭いというより根性が悪い。
「あの、道をお尋ねしても宜しいでしょうか?」
よろしいことがあるか、私は今死んでいる。
柔らかい、でも少し不安そうな笑顔で低い声に尋ねられ、心で反論しながらぎしぎしと振り返った。同時に言葉を理解する自分に疑問が沸いた。わぁすげぇ、私外人語マスターしているよとだんだんおかしくなる頭が「違う、奴が日本語で話しているんだ」と囁きやっと冷静に戻る。まさか流暢な日本語が飛び出してくるとは予想外の展開である。しかもその日本語は近年の若者が話すことができないという敬語。
このマフィア、ただものじゃない。首領の一人息子――目に入れても痛くないんだ!(推測)
勝手な妄想を膨らまし、「しかしマフィアの力と金も私が方向音痴であることは見抜けなかったか」と内心勝ち誇った気分で居た。実際はどう贔屓目に見ても負け犬だった。遠吠えすら出来ていないかわいそうな負け犬だった。雑巾の可能性もあった。
私は気を取り直し、緊張しながら口を開いた。
「どどど、どこ、どこです?」
落ち着いた外人とは対照的に、三度も舌を噛んだ上にどもった。この短い文章で三度も舌を噛むとはある意味逆に器用かもしれない。才能だ。新しい才能だ。
いらんわこんな才能と嘆いた私に、外人は不審がることなく微笑んだ。(良い人だ)
「えぇと、申し訳ありません道に迷ってしまって。この場所はどうやって行けばいいんでしょうか?」
「ん、……え、ここ?」
「はい」
「ここか…」
外人が笑顔で肯定した場所に、私は思わず頭を抱えたくなった。
「…えー、ここはですね、向こうのバス停からバスに乗って――、」
「はい。どこで降りたらいいんでしょうか」
私は極度の方向音痴だが、同時に、恐ろしく食いしん坊でもある。
外人の示した場所は、大変美味いもので溢れかえっている場所だった。つまり、私は何度も足を運んでいる。むしろ庭だ。
早い話、そこだけはやたらと詳しかったのである。食いしん坊なのが災いした。しかし私は道の説明が下手だ。小学校時代など地理のテストで百点満点中三点を取った事がある。場所の説明を今ここで口頭で述べる事は無理だと思った。述べたが最後、ひょっとするとニューヨークあたりにこの外人は着くかも知れない。ありえない話ではない。マフィアの首領が目に入れても痛くないほど可愛がっている今は亡き愛する先妻とのたった一人の愛息子(推測)をそんな風に扱ってみろ、絶対私はミンチにされる。丸めてミートボールにされる。そして食卓で出される。しかも不味いと捨てられる!せめて食えよ!!
私は結論を出し、決意した。生ゴミに出されるよりはいい。覚悟するしかない。
私は不安げな表情を浮かべる外人を見上げると、言った。
「私、今からここに行きますから、ご一緒しましょうか」
「Really!?助かります!」
喜んだ外人が私の両手をぐわしと掴んだ。
そうしてぶんぶんそれを振り回す外人に私は白目を向いて「ははははは」と笑いながら、リアリーでもトイレタリーでも何でもいいから、ミートボールは勘弁してほしいなと思った。