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葛餅の香り  作者: 岸上ゲソ
11/13

じゅう葛

 あり得ない大企業リズメラフィス・ムーン・カンパニーの面接日、からっと晴れた太陽を背に指定された待ち合わせ場所の喫茶店にやってきた私を見た依子の第一声が「か、金ならないぞ」だった。

 蒼白になっている顔面と命より大切なノートパソコンを握り締めている姿を見る限り依子が私に対し脅えの感情を抱いている事は明白だが、親友にそんな反応をされるような事をした覚えは無い。とりあえず落ち着いてもらうべくがたがたと震えている依子へ防寒目的で装着した薄汚れた軍手三枚重ねの両手を突き出しコミカルな動きで振ってみる。

「ヤァオハヨウヨリコチャン!コワクナイヨ、ぼくドゥーラウェモーンダヨ!」

「ごっごおおおおおおお」

 裏声で腹部に設置した四次元空間から人類の欲望を具現化した道具をちらつかせ堕落を誘う某猫型ロボットを装ってみたが、それは余計依子の脅えを誘ったらしく聞いた事のない奇声を上げられた。かろうじて人体であると認識できるがもはや誰かもわからないくらいの速さで震動する依子に私は惑い、どうしようもなくなったので口元を覆っていたスカーフをはずして見せた。途端依子の震動が止まり、凄い顔で私を凝視し知り合いが痴漢行為を働いている場面を見たかのような顔をした。私が誰であるかは解ったらしいが、依子の前に着席した私にがくりと項垂れて疲労を色濃く漂わせるのは止めて欲しい。

「やーおはよう依子、ごめんよ少し寝坊してしまって」

「…おはよう椋香。そうか寝坊か…そうだったね、あんた寝坊すると焦りすぎて直前まで見ていた夢を無意識に取り入れて思いも寄らない格好をするんだった。今回は何だ、泳ぐ夢でも見ていたのか」

 溜め息混じりに言う依子に、私は何故解ったと彼女の疲れた両目を見返した。そこに呆れの色が浮かぶのを確認するより早く、見ろと掲げられた手鏡に映った自分を見て驚愕する。何という事だ、どうも電車内で視線を感じると思っていたら目には競泳用ゴーグルを装着しあまつ頭にビニールキャップをかぶっている。確かに異様に頭皮がつっぱり目元が圧迫されて酷く視界が悪いとは思っていたが、それは寝不足のせいであってまさか他に原因があるとは思いもしなかった。人からの視線もリクルートスーツを着用した私に対する「頑張れよ新社会人…!」という好意的な応援メッセージであると解釈していたが、両手を薄汚れた分厚い軍手で覆いスカーフで口元を隠し競泳用ゴーグルにビニールキャップを装着したリクルートスーツ姿の己を見る限り、あの視線の意味合いはどうも応援というより不審者に対する警戒である可能性が高い。誰にも通報されなかったのが奇跡としか言い様が無い。

 ショックを受けながらもゴーグルとキャップを外すと、髪は頭部の形に見事に張り付き目にはゴムパッキンの跡がくっきり押されて一つも可愛いところの無いパンダのようになっていた。あまりの間抜け面に何かで隠せないかと鞄を漁ると昔弟に旅行のお土産で貰った眼鏡が出てきたが、果たして両サイドに数字の2と0が連結している虹色の2000年眼鏡をかけて面接に臨んでもいいものだろうか。確かに面接とはインパクトが大事だが、このご機嫌な2000年眼鏡のもたらすインパクトは雇用主の雇用したいという気持ちを九割方挫き、残り一割でこのきちがいを通報しようという勇気を与えてしまうような気がしてならない。そしてその前に会場であるホテルへ入る前に警備員に止められる未来が見えてしまうのはどうしてだろうか。

 左右を挟まれ警察に連行される我が身を思い目頭を押さえていると、それを見ていた依子が唐突にはっとして真剣な面持ちで自分の眼鏡を外した。そして己の鞄から何かを出したかと思えばそれは両サイドに数字の2と1が連結されたまさかの翌年2001年眼鏡で、絶句する私にニヒルに笑いかけるとスマートな動作でそれをかけて見せた。何故依子が今それを持っていてそして何故今装着したのかが理解できないが、輝かんばかりの笑顔の依子にいざなわれるように私も2000年眼鏡を装着した。何故だろうか、周囲の視線は痛いほどだが依子との仲間意識は強くなった。団結の心とは時として羞恥心との戦いである。

「さて、椋香の面接までまだ時間あるけど。何で早く来いっていったのかっつーとね、これ見せたかったから」

「ん、何これ…外人?」

 互いの眼鏡には一言も触れず用件を話し始め、私は差し出された二枚のA4用紙に視線が釘付けになった。何だかとても品のいい、青年から初老にかけての賢そうな外人の写真が五人分、そのプロフィールと共に並んでいる。金回りがとてもよさそうな事だけはその顔立ちと肌艶で良く解る。

「これ誰だい?どういうつもりで生きてるんだい?」

「何だよ生きてちゃいけないのかよ。それはエストリフス王国レイディック王子の側近で、多分今日の面接官のメンバーだと思うよ」

「え、マジで?面接側近がすんの?側近何食って生きてんの?私と仕事どっちが大事なの?」

「知らないよ旨い物食ってんじゃないの!側近だって人間だよどっちも選べないんだよ!」

「側近のバカ!どんなに忙しくてもドラッグだけはしないって!しないって言ったじゃない!どうしてやっちまったの側近!」

「側近ストレス溜まってたんだ!どうしてもあの空を飛ぶ感覚が忘れられなかったんだ!側近は仕事に殺されたんだ!」

「側近!側近!やめて死なないで雑巾!」

 大掃除に大活躍だぁあああ!と二人で叫び、立ち上がったところですごい顔の店員に睨まれたので静かに着席した。ついいつもの調子で会話していたが、ここは松須瑠の個室でもなければ自宅でもない。都会のど真ん中にある上品な喫茶店である。騒いでよい環境ではない。唯一うんこという単語を口にしなかったのが不幸中の幸いではあったが、私たちを見る店員の目が正にうんこを見るようであるので言わなくてもうんこそのものとなっているのは明白だ。依子はおほんと咳払いして眼鏡をもとの眼鏡に戻した。私も黙って2000年眼鏡を外し一つも可愛いところの無いパンダへ戻った。そういえば化粧もしていない。人前での化粧はマナー違反だが緊急事態だと己に言い聞かせ化粧ポーチを取り出した。大企業の面接にスッピンで挑む勇気は流石にない。

「で、その側近だけどね。リスト一枚目の一番上にロマンスグレーがいるでしょ。そいつじゃね?椋香がこないだ言ってたやつ」

「はてロマンスグレー?そんな人間は私は知らな…はっ!」

 並ぶ外人のプロフィールデータの一番上に、シルバーの髪にブルーの瞳を持つ初老の男がきりりとこちらを向いている。今でさえこの顔だ、若い頃は相当女性に担ぎ上げられ付き纏われ撫で回されたであろう。

 けれど私が注目したのは、その顔立ちよりも彼をあらわす氏名の方だった。紙を持つ両手がぶるぶると震え、目一杯下唇をかみ締めた顔で依子を見た。

「よ、依子…!」

「ふふ、解ったか。そう、カイザス氏さ。彼こそ王子の第一の側近だ」

「第一の側近…!ドクター・カイザス…!」

「ドクターじゃねぇよ、側近だよ」

 馬鹿な!私はぶるぶるしながらパウダーファンデーションを手に取り、塗りたくった。恐るべき事態が起きている。気が動転していた私は誤って口紅ではなくコンシーラーを唇に塗り、鏡に現れた妖怪にぞっとした。依子が化粧落としシートをくれなければ、恐らく私はこの顔で面接に臨む決意をしていただろう。化粧を手抜きをするといっそしないほうが何倍も良かったと言われる顔立ちになるからちゃんとやれとは常々周囲から言い聞かされ、特にアルバイト先ではとても怖い、子供達が恐れていると遠まわしに注意される事項だ。

「依子。これは事件だ、面接でなく私には事件がおきるかもしれない」

「何言ってんの椋香、あっ待てそれも口紅じゃない。違うそれはアイライン、あ、あああ」

「いいかい、カイザスとは伝説のドクターなんだ。ドクターは恐らくこの側近という立場こそカモフラージュに違いない。真の姿は町民のおすそわけを横領しマジカルステッキを作って別れた妻のレオタードに身を包むカツサンドが好物な魔女っ子だ。眼球戦隊アイカラーズの長という立場すらも彼にとって魔女っ子への布石に過ぎない…!」

「椋香待つんだ、違うそれはチークじゃないアイブロー、あああっ頬が茶色にああああ」

「恐ろしい、恐ろしい事だよ依子!ドクターは私の目の色を変え何か色を与えるつもりではないか!いいかい私の目は黒だ、この黒が面接後に一体何色に変わるというのか…!レッド!イエロー!グリーン!ジョナサン!ブラック!そもそも眼球戦隊アイカラーズに何故ジョナサンがいるのか解らない!ジョナサンは色じゃないのに何故いるのかが解らない!」

「椋香っそれは口紅、アイブローじゃない、うわ、うわああああ」

「依子!私は何かとても巨大な陰謀に巻き込まれてい、うわあああなんだこれ何だこの顔うわああああ!!」

「あの、申し訳ありませんお客様、もう少し静かにうわっうわあああああああ!」

「ああああああああ!」

「ああああああああ!」


 そうして己自身のみならず店中を震撼させ恐怖に突き落としたその顔は、その日店内に居た誰かに撮られていたらしく後日ツイッターに上げられ晒し者にされるという悲惨な末路を辿った。

 自分の顔を作るって言う繊細な作業はさ、人と会話しながらやると手元おろそかになって手順間違えるよね。店の化粧室で一からやり直しながら、さすがに今回ばかりは化粧の仕方を見直そうと反省した。

 


 * * *



「えっと、あの。今日の13時から八階フロアで面接をして頂くことになっている斉藤と申しますが、このまま行って大丈夫ですか?」

「ありがとうございます、リズメラフィス・ムーン・カンパニー様で本日13時より面接をされる斉藤様ですね。承っております。ご案内致します」

 面接に指定されたホテルフロントで涼やかな口調による美人にそういわれ、私は玉袋の変わりに胃袋がきゅっと縮む感覚を味わった。今だ嘗てこのような豪華ホテルに足を踏み入れた事が無い私は、この場に立っているだけでも失禁カウントダウン五秒前である。私がなじみあるホテルフロントの光景といえば、立派なスーツに身を包んだエリートではないサラリーマンがこなれた仕草で会社名の領収証を所望している光景であって、こんなセレブ色に溢れた人類が闊歩しているやたらだだっ広く天井に巨大シャンデリアをぶら下げた光景ではない。場違いも場違い、ジャケット・スカート・ワンピースの三点セットで諭吉一名にも満たない金額だったリクルートスーツを装備する私の目の前を、優雅な足取りで今歩いていく婦人に抱かれる犬が着ている服の方が恐らく高いだろう事は明白だ。場違いだ、死んで詫びてもなお追いつかないくらい場違いだ。何故こんな貧民の面接をこんなところでやろうと思ったのかエストリフス王国。私をここへ呼んだ首謀者が誰なのかは知らないが、今心の底からばかやろうと言いたい。

 背筋の伸びた美人の背後をひたひたと追いながら、私は心の中で見知らぬ首謀者に呪詛を唱えた。まず間違いなく我が斉藤家より余程広く豪華な長い廊下を通り、乗り込んだエレベータからは海が一望でき爽やかな風と程よい緑が配置された黄金比率の景観が見下ろされていたが、私はむしろ人や車の行き交う街のど真ん中にあるいわゆる風呂場浴槽の壁に熱い涎を垂れ流す獅子やモアイなんかがついていない感じのサラリーマン利用率100%ホテルの方が余程安心できる。上がる階数と反比例して私の気持ちは下がって行ったが、たどり着いた八階のフロア入り口で美人がにっこり微笑み「こちらでございます」と扉を開けたその瞬間、私の我慢ゲージはMAXを振り切った。振り切った結果、その弊害で歌いながら回れ右して逃げ出した。

「さ、斉藤様!?」

「おかーをこーえー行こーうよーっくちーぶえーふきつーつっ」

「斉藤様ー!?」

 美人の狼狽した声が聞こえはしたが、私は顔面蒼白で歌いながら驚くほど高速なスキップで逃げ続けた。私が逃げ出したのは、部屋の内装が豪華すぎたとかいうそんな簡単な理由ではない。いやそれもない事もないが、むしろ部屋よりそこにおわす面接官と思しき方々の人数が問題だった。―――想像してみていただきたい。面接と聞かされた状態で指定された部屋の扉を開け、そこに二十名を超える長身の外人重役風集団が椅子から立って己を注目している光景を。特に何の活躍も名声も得ていないただの一般の小娘、一般のくくりに入れるには思考が若干ずれている事は認めるものの斉藤家という平々凡々とした父輝明を筆頭に下品きちがい変態の名を欲しい侭にする我ら斉藤一家のホープたるこの私が、テレビでよく見るあの「椅子から立って偉い人出迎える整列」を受ける筋合いは誰が何と言おうと断じて無い。これはもう間違いない、あそこへ戻れば私はまずこの体をミンチにされる。

「斉藤様!お待ちください斉藤様!」

「ともに手ーをー取ーりーらーららーららららら」

「斉藤様、斉藤様ー!」

「あひーるさーんガァガァガァー」

「Ms.Saito!Please wait!」

 あひるさんガァガァではない。突然、英語で名前を呼ばれ私の目は白目を剥きスキップステップは加速した。来た、外人が来た。恐慌状態に陥った私はもはや己の足の動きも良く解らないほどの速さで廊下を駆け抜けていたが、それを上回る速さで隣を抜けた男性が目の前に立ち、思わず足を止めた。止めたというか、それ以上進めないのでその場でスキップしていた。いつまで動き続けるのかこの足は、もはや己の意思とは関係なくスキップしている。

 目の前に立つ外人は、ぜぇぜぇ言いながらも立ち止まった私に安心したような表情を浮かべていた。金髪碧眼の整った面差し、均整の取れた体を包むダークスーツ、三十代半ばくらいだと思うがこれまた素晴らしい美人である。美人ではあるが見たことが無い。依子の資料にも無かった人物だ。

「What is the matter? Since you shut and left the door, it was surprised.

――Please return together with me if you please.」

 低い落ち着いた声でソフトに私へ話しかける外人。声はその顔に大変マッチして素晴らしいとは思うが、私に外人の言っている意味など一つも理解できていない。分かったのは最初はどうやら疑問文ということだけだ。

「…Ms.Saito?」

 ――日本語はなせますかとは英語で何て言うのだったか。どうしよう、一番簡単な英文すら今は頭に出てこない。一言も発さず蒼白でスキップをし続ける私に外人が不安そうな顔で名を呼んだが、その不安は私の動向によるものか返答がないことによるものかどちらなのか訊きたい。

 だがしかし、今はとにかくこの難所を乗り切らねばならない。私は使用頻度の少ない埃被った左脳をフル回転させ、最近見た英語を一生懸命探した。

 ――は!

 ぴん、と小気味いい音を立て私の脳が一件英文をはじき出した。

「オ、オーケェエエイ。アー、アー、I was gay.」

 浮かんだまま口にすると、外人が呆気にとられたような顔をしたので私は何かを間違えたと悟った。悟ったが、完全に動きを停止させた外人にチャンスを見出した。

 ピンチをチャンスに!今だ必殺、二足歩行!つまるところ走って逃げるというあれだ!

 はっと我に返った外人が動くよりも早く、私は近くに開いていたエレベーターへ巧みな前転と後転を使い分け転がり乗った。そして高橋名人をも超越する下行きボタン連打を披露した後に扉はすぐに閉まり、若干突き指して痛い人差し指を握りながら床にべしゃりと座り込んだ。酷使した足は勿論の事、体中恐れで震えている。怖かった。本当に怖かった。もう少しで死ぬところであった。しゃがんだまま私はエレベーターの隅に移動し、鞄を握りしめて溜め息をついた。緩んだ尻から放屁しそうな気配がしたが、この密室で行うと己が大ダメージをくらうので懸命に尻穴を閉じる。

「あ、あの…」

「フゥ―――!」

 バブーと閉じたはずの尻穴からは屁が飛び出し、私の口からは甲高い悲鳴が漏れた。飛び上がって振り返るとどういうことだろう、さっき私を追い掛けていた外人がいる。瞬間移動か、瞬間移動したのか外人!お前さてはその金髪人種によるものでなくスーパー性を発揮する感じのあれだな!?いや違う、よく見れば彼のスーツの裾が扉に挟まっている。ギリギリセーフで滑り込みやがったのか!何と言う悪夢、もはや私の命もこれまでだ。

 私は口からぶくぶくと泡を吹きながら、とにかく恐ろしくてエレベーターの隅に背中からへばりついた。もう限界だった。訳の分からない連中に身辺をうろつかれ、バイト先まで電話を掛けて面接に来いといい、挙げ句行った先には外人の集団。脅えるなと言う方が無理だろう。

 私は外人から顔を背けながら、首をぶんぶんとふった。

「あ、あぶぶ、ぶぶぶくくく…もーいやだ…っ!こわいっミンチこわいっ…ぶぐぶぐ」

 英語だ日本語だとか考える余裕もなく、私は泡を吹きながらながらあっちいけを繰り返した。

 隅で泡を吹きながら泣き始めてしまった私に、外人はしばらくおろおろしていた。しかし思い直したようにしゃがみこんでいる私に目線を合わせるように座り、扉に挟まっていたスーツが破れるのもいとわずとても優しい声でそっと言った。

「……すみません、怖がらせるつもりは無かったんです」

 控えめな声が喋ったのは、耳になじんだ日本語だった。一瞬ぎょっとしたが、思わず顔を上げる。困惑しきった青い瞳とにらめっこ宜しくしばらく見詰め合っていたが、ふと強ばっていた体から力が抜けた。

 何となく、理解した。相手を「外人」ではなく、「人間」だと認識したのだ。

「…大丈夫ですか?」

 がくりとうなだれた私に、彼は遠慮がちに声をかけた。私は溜め息混じりに顔を上げると、目をちゃんと見て軽く頷いた。

「はい、済みませんでした。その、あまりにも英語に馴染みがない生活をしているものでどうも気が動転してしまって」

「いえ、こちらが考慮不足でした。怖がらせて、本当に済みません」

 私の落ち着いた様子に微笑み、彼は私を立たせるとそう言った。面接も受けずに歌を口ずさみながら高速スキップで逃げ出し、あまつ追い付いてみれば密室で放屁した挙げ句泡を吹きながら泣くという暴挙をフルコースした私に対しこの対応、あまりに心がひろすぎる。柔らかい微笑みと声でさぁ部屋へ戻りましょうと促され、酷使した脚が生まれたての小鹿か耄碌寸前の老婆のごとくぷるぷる震える私の手を取り歩く美形はまさに紳士の中の紳士である。思うにあの日マフィアと思っていた王子が言っていたジェントルマンとはこのような生き物の事をいうのだ。何というジェントルぶり、確かにこれが彼らのデフォルトなら私の言った日本男児は信じられない暴漢だろう。しかしそのジェントル文化圏に含まれない育ちの私にはこの扱い、大変尻の穴が痒い。

「本当に先程は申し訳ありませんでした。…思えば確かに、人種の違う大勢の男性に突然出迎えられれば驚きますね。我らの配慮が足らずあなたにご不快な思いを抱かせてしまった」

「え?あ、いえ、はぁ」

「どうか今一度、我らにあなたと話すチャンスを頂けないでしょうか。何卒、どうか…」

「いえあの、のっほぉおおっ」

「どうか、今一度…!」

 おおおお、と私は今だかつてないへっぴり腰で顔面に埴輪を降臨させた。場所はさっき逃げ出した部屋の扉の前、ふと立ち止まったかと思えばこのジェントル、何を血迷ったか私の手を握って顔を寄せて来たのである。近いよあんた近すぎるよジェントル、頼む離れてくれ、このままでは私は背筋の限界に挑戦せねばならない。

「Ms. Saito…!」

「おっおおおわっわかっわかったわかったわかりましたったっ」

 ひいいぃと全身を仰け反らせて頷いた私に、ジェントルはとても嬉しそうに微笑んだ。そしてその微笑みのまま扉を開けると、あまりのスキンシップに一気に老け込んだ私を先程の外人ご一行様が見、ほっとした表情とあたたかい拍手で迎えられる。どういうつもりなんだこの外人集団、もしや歌を口ずさみスキップして去った私をコメディアンか何かと勘違いしているのではあるまいか。

 まさかの一発芸披露の可能性に真っ白になり、カクカクしながらジェントルを見上げると彼はその美しい顔に大変麗しい笑顔をにっこりと浮かべ、こう言った。


「改めて紹介する。こちらがミスリョーカ・サイトー。我らがレイディック殿下の心を救って下さった女神であり、殿下の唯一無二な大切な女性だ。リョーカ様が学舎をご卒業なさればリズメラフィスの日本支店に迎えさせていただく事になっているので、皆そのつもりで居てくれ」


 その場で私が卒倒しなかったのは、もはや奇跡ではないかと思う。

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