プロローグ
「りょうかぁああああ!椋香―!朝だよ―――ッ!!」
それはまだ、夜も明けていない真冬の朝六時の事。
福岡県某田舎に居住する我が一般家庭斉藤家、その母、斉藤智子のモーニングシャウトが静寂に包まれた近隣住宅街に響き渡った。
そのいっそ清清しいまでの近所迷惑一切無視ぶり、両隣のお隣さん達はもはや慣れて仕方ないと諦めてくれているが、実は斉藤母は近所迷惑を無視しているのではなくただ気にしてないだけである。何故なら斉藤母は斉藤母でしかなく斉藤母であるからだ。つまり母は己の声が外に漏れているとは米粒ほども解っていないし、解っていてもミジンコ程度だって気にはしない。びりびりと響き渡った凄まじい咆哮に、あぁ私も将来ああなるんだろうなとか哀愁交えて考えていたら、我が部屋の扉がどかんと破壊寸前の勢いでぶちあけられた。
今蝶番が聞いた事ない音を立てたような。
「りょう……!」
「はいおはようおかん!何でそういつもあれ、破壊的なのか気になるけれど!起きてるよ!」
起きてることを覚えてよ!と寿命近そうなと扉を見ながら朝の挨拶をすると、当の母は拍子抜けしたように目を瞬いた。
「なんて起きてんの?」
何でって何なの。何故残念そうにするの母。さも起きてちゃ悪かったようなその顔は一体どういう了見で浮かべているのか。
「いやだからさおかん、いつも言ってるけどこの時間は早朝なんだからさ。近所迷惑を考えて叫ぼうって言ってんじゃん。あと私いつも起きてんじゃん、気づいて頼むから」
「やーだ、何言ってるのこの子は、聞こえてないわよ、起きてるっけ?」
「何言ってるのこの母は!聞こえてるから恥ずかしいから!起きてるから!みえてないの!?マジで私の存在よくみえてない!?」
「だってさー、あんた小さい声じゃ起きないじゃないの。起きないわよね?」
「起きてるじゃ!ないか!いつも!!いつも五時半に!!起きて用意終わってるじゃないか!!」
「あれぇ」
あれぇじゃない。起きているのを毎日見ておるはずであろう母。もしかして私は本気で母に視覚されていないのだろうか。普段の私は彼女の中で空想上の人物とされているのだろうか。まさかと思うがそこまで存在感ないのだろうか。
…ま、まぁそれはともかく、いい加減この会話も日課になりつつある。分かっているのかいないのか、十中八九後者だが、母は涙ぐむ私をスルーしていつも通り「早く降りてきな」と捨て台詞を残しどすどすと一階へ降りていった。階段の寿命も心配だ。近いうちに床が抜けるかもしれないしむしろ抜けてしまえばいい気味だ。
私は一つ溜息をつくと、うんざりとカレンダーを見上げた。
表示してある日付は、十二月二十日。
「…あー、今日は打ち上げがあんだっけな…」
めんどくさいなと呟くこの私、そういえば名乗り損ねていたが名を斉藤椋香、短期大学に通う善良な女子大学生二十歳である。とっても心優しく気立てのいい素敵な乙女で執事のセバスに傅かれ日々を過ごしている。嘘だ。
ということで私はそこらへんの石ころと同じ何の変哲も無い大学生な訳だが、本日は我が学校は前期最終日であった。そのため大学のゼミ生だけで打ち上げがあり、決して仲の良いとは言えない人間連中とわざわざ金払ってまで一緒に居なければならないのである。タダならまだしも金払ってだ。何故金払ってまで愛想笑いを浮かべに行かなければ行けないのだ。バチか。バチがあたったのか。この前お供え物として祖母の家に置いてあった仏壇の饅頭食ったからか。神仏の癖になんて心が狭いんだ。
まぁそれを置いておいたとしても、実を言えば私はこの学校を選んだことを後悔していた。いや選んだという表現には少々誤りがある。高校の進路決定の時期、将来の展望も夢も全く無かった私は、目に付いた学校名を罰当たりにも適当に進路調査票へ書いた。そうしたらそれがどうも推薦枠が空いていたらしくトントン拍子で話が進み、言われるがまま面接に行かされ筆記試験を受け学部さえ良く確認もしないまま合格は成されてしまった。もう少し調べる暇もあれば学部くらい何とかなったかもしれないが、書いたその日が書類締め切りの最終日で、しかも説明が記されたプリントの裏には異様に筋肉質な某猫型ロボットの絵が描かれていた。何も話を聞いていなかったという動かしがたい証拠がそこに鎮座していた。
つまるところ自業自得なので誰にも文句は言えやしないが、そのせいで辞めたいと思ったことは一度や二度の事ではなかった。このことを私が両親に言わないのは余計な心配をかけたくない、とかそんな訳も無く根性無しと思われるのが嫌だったからだ。何せ我が両親は人をおちょくる事に心血を注ぐ人間だからである。特に父には昔からくだらない嘘ばかり吹き込まれ方々で恥をかいた。(アグリッパという古代ローマのなんか偉い人の胸像を指差し、幼い私に「あれはアゴが立派だからアゴリッパっていう名前なんだよ。おもしろいだろ」と教えたのもこのロクデナシだ。信じた私が中学で笑いものになったのは当然の結果である)
「うーん、今回も二次会に及ぶ前に帰るか…」
何はともあれ逃げねばなるまいと薄目で、ぐるぅりと部屋を見渡しながら思案する。いつもこのような飲み会やらに嫌々ながらも空気読んで一応参加はするが、二次会に突入しようかと言う瞬間私の姿は消えている。しかも誰にも気づかれる事なくふいに消え、それは一重にこの類稀なる存在感の薄さが
「―――うん分かってる。存在感ないよね私」
おかんにまでスルーされるしなと自分で言ってしまった私は背中に哀愁を背負いため息をついた。そして登校の用意をすべく寒々しいわが部屋に灯っていた電気ストーブのスイッチを足で消した。足で消すのはあれだ、癖だ。乙女の癖だ。