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碗と水筒を抱えた打帆が滑り込んだのは、アキバの外れにある廃墟の一つだった。
くすんだ臙脂の旗袍が、小さな踊り場を折り返し、狭い階段を軽やかに昇ってゆく。わずかに裾こそ揺れるものの、濡れた靴跡以外は音も形も残さない。
「雨水を集めるって、ありかなー」
淀みない所作が唐突に止まった。見上げる天井は崩れていて、そのまま空に繋がっていた。雲は厚くて途切れなく、しばらく雨も止みそうにない。
かき上げただけの黒髪が、目を覆って鼻先に張り付く。
「こんなとこにも髪飾りの影響ー ……切るのもありかな、今後を考えると」
頭を振って軽く髪を揺らすと、打帆は目の前の扉を肩で押し開けた。
暗く短い通路は、小さいけれども狭さを感じさせない部屋に続いていた。
正面の天井にある窓には透明なガラスが嵌められていて、空は灰色だが開放感がある。
奥行きは十歩も無いが、目に入るのは折りたたまれた毛布一揃えと、片手鍋を載せた七輪が一つだけ。床は所々剥がれていたが、瓦礫どころか塵一つ落ちていない。
打帆は部屋を横切って片手鍋の前にしゃがみこむ。しばらく眉を顰めて止まったものの、結局は一息に碗の中身を鍋に空ける。
続けて水筒の栓を抜いたところで、突然辺りを見回し始めた。
「この音、聞き覚えのあるー えーと…… 着信?」
『やっと反応あったぁ! うっちゃん、今まで何してたん! どこにおるん?!』
何かに思い至ったように動きを止めた打帆は、まぶたの裏を見るように目を眇めるのも束の間、大きく首を傾げて宙に答えた。
「えーと、さっきまでお布施集めしてて、これからご飯ー 場所はいつもの<庵>、屋上が崩れてる方ー」
『……分かってたはずやのになぁ。どうしてうっちゃんは、いっつもそんななん? うちの方が阿呆みたいやんか』
打帆はしばらく動きを止め、目を瞬かせる。
だが何事もなかったかのように、水筒の水を鍋に注ぎ終えると背負い袋をかき回し始めた。
取り出した松明を床に置いて、その真上で両手に構えた石を打ち鳴らし始める。
「奏羽は、もうご飯食べたー? 少しくらいなら分けても良いけど、早く来ないと食べちゃうからねー」
『そんなんはいらんけど! うちが行くまで、ぜったいにそこ、動かんといてや?!』
打帆は鍋に浮かんだ苺に気付くと、口に放り込んでにんまりと顔を綻ばせた。
MMORPG<エルダー・テイル>には、<托鉢僧>と呼ばれるサブ職業が存在する。
実装に先立って「民衆に尽くして功徳を積む修行僧」という設定が公開されたが、それは様々な噂や憶測に沸かせることになった。
『坊さんってんだからさ。<神祇官>みたいな結界系スキル、使えるようになるんじゃね?』
『ありえないっしょ、そんな破格の性能』
『レベルはやっぱ<托鉢>で上げるんすか?』
『広場に突っ立ってお布施もらって、そんでちりーんって鈴鳴らす? ……ちょっ、それは無いわー』
実利を求めるもの。キャラクタークラスの地位変動を危ぶむもの。宴会芸を楽しみにするもの。単に新しい物が好きなもの。
徐々に熱意が高まる中、公開・実装されたのは三つのスキルだった。
基本にして前提となるのが<辻瞑想>。
人前で組む禅の一種という設定で、使用すると一定時間<MP回復率>が上昇する。
そこから派生するのが、人が通る度に鈴を鳴らす<柏打つ鈴>と、回復アイテムと引き替えにわずかな祝福を与える<俗なる祈呪>の二つ。
どのスキルも修得条件は緩く、特別な使用条件もない。
だが<辻瞑想>には<行動制限>という縛りがあり、いつ何が起こるかわからない野外活動で使うには致命的に向いていない。
<柏打つ鈴>は音色を変えられるようになるものの、視覚効果は一切無い。
<俗なる祈呪>は<持続時間>の優秀な支援呪文に分類されたが、いかんせん効果が低い上に、補助する能力値を選べない。勿論、能力値上限を越えることもなく、効果が切れるまで上書きすることも出来ない。
一通り検証が終わった後にくだされた結論は、『直接戦闘に有用なスキルはなく、間接支援としても効果は薄い』。
その風評を聞いてまで<托鉢僧>で志す者は少なくなり、そのまま修行を続ける物好きも極少数に留まった。
ユーザによる淘汰はいつものように厳しく、そしてそれは自然な流れとして定着していった。