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わずかな囁きと手の振りだけで、小さな合図が交わされているだけだった。人は多いが、活気は無いに等しい。
倒したテーブルで囲われた舞台には、物憂い、盛り上がりに欠ける空気が流れていた。にこやかに手を振る打帆には誰も応えず、師範代の動きも緩くて覇気は見えない。
付き添う者もなく、待つ者もない。だが二人はそれを気にする素振りなく、一歩の距離を挟んで足を止めた。
打帆が先に突き出した拳に、師範代が軽く顎を引いて拳を合わせる。
そのまま、互いに半身に構えて後ろ足を引く。
一発鳴らされた、鐘のぼんやりとした音が消えても。二人はしばらくその場を動かず、視線を逸らさなかった。
合わせているだけの拳が、小刻みに揺れ始めていた。師範代の足指がゆっくりと床を噛む。打帆の踵がわずかに浮いて膝が落ちる。
そんな些細な動きは、ほとんど見て取れない。だから二人は、構えも姿勢も変えたようには見えないまま。
それなのに、いつの間にか半歩の距離と向きを変えていた。
初めて、師範代の表情が動いた。
体中から力が抜け落ち、最中に打帆の体が前に傾いた。
捻られた拳が、触れていた打帆の指を巻き込む。
逆に返された手の甲が、流れた腕を真下に打ち落とす。
押し込む肘が打帆を泳がせ、叩きつける肩の裏が更に間合いを潰す。
一連の動作は滞ることなく軽やかに、だが最後の一撃だけは空を切った。
師範代はうずくまるように体を前に投げ出し、受け身をとって立ち上がる。
「<武士>っぽいのに、<散打>に<靠>って。……なんで!」
胸の前で左腕を抱えた打帆は、目を輝かせて吠えて、惜しげもなく拍手を送った。だが師範代は無反応で、全く頓着しない。
「むー、色々納得出来ないんだけどー ……これは本気で楽しみ」
打帆の呟きを、師範代は完全に無視する。左手を腰に添え、左足を下げながら徐々に体を前に傾けていた。握った右手が左手に添えられ、上体に隠れて死角に消える。
腰に得物は無かったが、それは<居合い>の構えだった。冷めて平たい顔には何も浮かべていない。白刃を納めた鞘のように、殺気はおろかその意図すら隠し通す。
打帆が後ろ足と腰に引いた拳をそのままに、前に出した足先に向けて拳を下段に払う。師範代は、まだ二歩は先に立っている。
足指で寸毫の間合いを詰めていた師範代が、足形を残して消えた。
打帆の後ろで風が鳴る。それに割り込むように、床を割る音が続けて二つ響いた。
「よりによって! <歩法>持ち!」
三歩目も床を踏み割った師範代は、打帆の背後から裏拳を振り抜いていた。
延び切る前に手首が返され、平たい握りに形を変えて袈裟に叩きつけられる。
踏み込みは足を狙い、続けて顎を目掛けて掌底が伸び上がる。
そのまま開いた手が視界を塞ぎ、間髪入れずに肋へ肘が捻り込まれる。
愚直に拳を振るって間合いを詰め続ける師範代を、だが打帆は全てをかわし続けた。目は焦点を定めぬまま、構えらしい構えも取らず、それでも顔から歓喜の笑みを絶やさない。
申し合わせた様な流れを断ち切ったのは、唐突に動きを止めた師範代だった。
掠めて飛んだ裾の欠片が宙で鳴り、小さな飾り鈴が衝立まで飛ぶ。打帆はそれを目で追いながら、それでも大きく一歩、後ろに跳ぶ。
師範代は一拍遅れて、だが打帆が足を付く前に、左腰に溜めた手刀をその場で斬り上げていた。
それまでと違う、白銀の煌めきが飛ぶ。
打帆の喉を深く抉ると、だが傷も残さず消えてしまった。
「--!」
打帆の無音の驚きを、師範代の<散打>が追った。構えた拳を叩き落とし、開いた距離を踏み込み、逃げる顎をかち上げる。
だがそこで師範代が背を向けると、打帆が突然跳ね上がった。襟を掴まれ肩口に担がれ、打帆は胸を支点に逆さに宙を舞う。
そのまま背中から落ちると、打帆は襟を絞められ地面に縫い止められた。
そのままは呆然と口を開くが、声が全く出ず、何も伝わっていないことに気付いて。軽く師範代の腕を叩くと、気の抜けた笑顔を浮かべて両手を挙げた。
まばらな拍手の中、無造作に立ち上がった師範代が打帆に手を差し出した。
「<百舌の速贄>は確かに効いた。なら、仕掛けは鈴か?」
「それもあるけど違うー <効果時間>が切れただけ…… だと思う?」
師範代は聞かれても困ると返すが、全く表情を変えなかった。声も小さく低かったが、そこに屈託は全く無い。
「見事な手際だった。少し話を聞いても、迷惑では無いだろうか」
打帆は差し伸べられたままの手と、師範代の無愛想な顔を何度も見返してしまう。
だが師範代が無言できびすを返す前に、その手にぶら下がると、慌てて引き留め快諾した。