最初の取っ掛かり
薄く小さく狭い視界を、何かが通る。
左手に乗る器は、その重みを変えない。
右手が掲げた鈴が、わずかに音を立てる。
『実感したのは初めてかもー うん、考えるしか出来ないって、ちょっと楽しいー』
目の前に止まった塊が、こちらに向けて伸び、そして縮む。
左手の器が、かすかに重みを増す。
それに応じて右手の鈴が、先ほどとは異なる音で鳴る。
『何だか分からないのは不安だけど…… でも手応え同じなら仕方ないかー』
影が流れる。
鈴が揺れる。
その視界は暗く、鈴は己の意思では動かない。
『きちんとお礼が出来ないのも残念ー <祈呪>は効果も薄いんだしさー』
身体に降りた古き神々が、願う者に授ける本当に小さな奇跡。
それは<冒険者>を通す故に発現し、それ故にわずかに世界を歪ませる呪い。
だから代償には己の一部を差し出す必要があり、それは日頃の糧に代替される。
『<托鉢>かー 流石に小石は無理だし、混じった砂を避けるのも大変だけど。見た目も酷いし、味は惨い…… 止め止め、邪念は意識を濁らせますよー っと』
唐突に生じる、何かが逃げてゆく感覚。
確かに感じていた色と、確かに見えていた音が、急激に薄れて散ってゆく。
知覚には枷が填められ狭まり、代わりに光が差し、色が付き、形を取って意味が現れる。
目の前の景色は何かを失ってようやく、ありきたりで作りものの<日常>として認識できるようになる。
「お勤めご苦労様ー、自分。それからお布施ありがとー、親切な人たち?」
合掌の途中で、鈴の音が小さく乱れた。
頭で揺れていた笠がずれ落ち、顔から胸元を覆っていた。
小さな鐘を握った右手が笠の縁を手探り引っ張ると、くぐもった声が上がる。
それでも碗を乗せた手がゆっくり胸元から離れると、笠の裏側からつばが掬いあげられた。
掲げた二の腕の細さ白さが、ぴったり張り付く臙脂の旗袍に際立っていた。
逆に襟元から頬、額まではほのかに朱に染まり、そして小さな鼻は天辺がすりむけている。
涙に潤んでいても、瞳の藍は澄んでいた。
「ちょ……、良い角度で入りすぎっ……」
打帆は顎に掛かった紐を緩めて放ると、笠は突き出た石柱に引っかかり、くるりと一周回って落ち着く。
濡れた黒髪をかき上げてから目をこすり、胸元をくすぐる細い三つ編みを耳に掛けて流す。
「随分派手に降ったんだー 笠は嬉しいけど、ちょっと手遅れだったかなー」
手のひらとむき出しの二の腕、それから濡れそぼった旗袍を払いながら、辺りを見回す。
冷たい雨は、まだ降り続いていた。
無骨な四角い塔が空を狭めているが、雨宿りの役には全く立っていない。
道は至る所で草が芽吹いて根が張り出していた。
水たまりは出来ていないが、代わりに所々、座り込んだまま動かない人影があった。
物々しい金属鎧も、古めかしいローブも、廃墟に馴染むというより同化している。
何事もなかったかのように笠を被り直すと、打帆は左手の碗を軽く揺すった。
無骨な手捻りの黒い碗には、米や麦など雑多な穀物が半ばほどまで山形に盛られていた。堅い木の実や茸のようなものが、幾つか覗く。
「量は十分だけど…… まあ、物は試しってことでー」
鐘を腰のポーチに仕舞いながら、足を振って水を払う。
膝上まである白絹の靴下に、旗袍の長い裾がぴったりと張り付く。
「さっさと帰って着替えよー 風邪引いたら洒落にならないし。……あ、でも<風邪薬>を試してみる絶好の機会だったりして」
見上げた空に、光はない。
それでも、この世界には|<異世界>《エルダー・テイル》を定義する意志が存在して。
そして確かに正邪を問えない<恩寵>が存在するのだった。