歯こぼれ
戦争というものは、しばしば壮大な戦略や英雄的決断によって語られる。
戦史書を繙けば、そこには名将の采配や国家の大戦略が、いかにも必然であったかのように整然と記されている。だが、歴史というものを丹念に読み解く者であれば、やがてある事実に気づくであろう。
戦局を決するものは、必ずしも壮大な理念ではない。
むしろ国家を揺るがす戦争であっても、その崩壊の端緒は、実に些細で、時に愚かしい出来事から始まることが多いのである。
オモニ要塞の崩壊も、まさにその典型例であったといわれる。
後に公国軍が尋問した捕虜たちの証言によれば、事の発端は極めて単純な出来事であった。
ゴズ王国兵が、要塞の補給物資と糧食を勝手に使い込んだのである。
要塞戦というものは補給によって成立する。
これは古来、軍事史の中で繰り返し語られてきた原理であった。
弾薬、糧食、医薬品。
それらが途絶えれば、どれほど堅固な要塞であろうと戦いは続けられない。
とりわけこの時代の戦争…技術水準が第一次世界大戦に近いこの文明においては、兵器の威力と同じほどに補給の量が戦力を規定していた。
したがって補給倉庫というものは、戦場において神聖に近い存在であった。
そこに置かれた一箱の弾薬は、前線の一小隊の命であり、乾燥パンの袋一つが砲兵中隊の一日を支えていたのである。
それを王国兵たちは私物のように扱った。
倉庫から缶詰を持ち出し、乾燥肉を分け合い、酒の代わりに保存食をかじりながら雑談をしていたという証言すら残っている。
帝国兵がそれに激怒したのは、ある意味では当然であった。
ある捕虜の証言には、こうある。
「帝国軍の軍曹が、王国兵の隊長に言ったんだ」
その兵士は尋問室で、しばらく沈黙してから言葉を続けたという。
「“それは要塞全体の糧食だ。勝手に持ち出すな”ってな」
軍人として、ごく当然の抗議であった。
しかし戦場における傲慢というものは、しばしば火薬より危険である。
ゴズ王国兵は、その抗議を侮辱と受け取った。
王国軍と帝国軍の関係は同盟ではあったが、決して対等ではなかった。
帝国軍は規律を誇り、王国軍はそれをしばしば高慢と感じていたといわれる。
そして、その場にはもう一つの感情があった。
恨みである。次の瞬間、銃声が響いた。
帝国兵は、その場で撃ち倒された。
そこからの展開は、驚くほど速かった。
要塞の内部で殺し合いが始まったのである。
軍隊という組織は、規律によって成立している。
この言葉は多くの軍事思想家が繰り返してきた格言であった。
規律とは命令系統であり、信頼であり、恐怖であり、そして慣習である。
それが崩れたとき、軍隊は瞬時に群衆へと変わる。
歴史を振り返れば、これは幾度となく繰り返されてきた悲劇である。
帝国兵と王国兵は互いに疑心暗鬼となった。
「王国兵が帝国兵を殺した」
その噂は、火薬庫に投げ込まれた火の粉のように広がった。
兵舎では銃を抱えた兵士たちが睨み合い、砲台では砲兵が互いに距離を取った。
倉庫では物資の奪い合いが始まり、衛兵は誰を通してよいのか分からなくなった。
命令系統は麻痺した。
参謀の一人が廊下で叫んだという。
「落ち着け! 敵は外にいる!」
しかし、その言葉を聞いた者はほとんどいなかった。
戦争とは、敵だけでなく恐怖によって崩壊する。
そして恐怖とは、人間同士の不信から生まれるものなのである。
そして、この混乱の最中に、さらに重大な事件が起きた。
帝国側の異世界転生者
【電磁砲】使いとして知られていたマザーハーロック名誉大佐が、王国兵によって暗殺されたのである。
この人物は、守備隊の中でも特異な存在であった。
異世界転生者。この世界において、それは珍しい存在ではない。しかし同時に、特別な意味を持つ存在でもあった。
異世界から来た者たちは、しばしばこの世界の技術体系とは異なる発想を持ち込む。
軍事においては、それが兵器として現れることが多い。
マザーハーロックは、その典型例であった。
彼女の能力は【電磁砲】。
金属体を磁力で加速させ、弾丸として撃ち出す。
それは火薬砲が主流であるこの文明にとって、遥かな未来の技術に等しいものであった。
そして王国兵が彼女を殺した理由も、単なる混乱ではなかった。
12年前の戦争。
その戦争で、ゴズ王国は帝国に敗北している。
戦史によれば、王国軍の装甲列車と重砲陣地を次々に破壊した兵器があった。
それがマザーハーロックの電磁砲であった。
ある王国兵は、尋問の中でこう語っている。
「見つけたんだ……あの女を」
その声には、奇妙な感情が混じっていたという。
恐怖と憎悪と、そして長年の怨念である。
「12年前の悪魔だ。
あいつのせいで、俺たちは負けたんだ」
そして銃声が鳴った。
マザーハーロックは、その場で撃たれて死んだ。
もっとも、この人物の存在に、小糸は以前からある推測を抱いていた。
帝国軍には、おそらく異世界転生者がいる。
そう考えたことがあったのである。
しかしそれは、あくまで推測に過ぎなかった。
確証はない。戦場には噂が多すぎる。
ただ、もし本当に電磁砲を操る人物がいるのなら、航空戦力にとって危険な存在になる。
その程度の予想をしていたに過ぎない。
そして、この時点で小糸は、もう一つの事実にも気づきつつあった。
最初の巻き戻りの世界線。
あのとき、オモニ要塞の守備兵は驚くほど抵抗が弱かった。
組織的な反撃は少なく、士気は明らかに低下していた。
当初、小糸はそれを単なる戦況の悪化によるものと考えていた。
だが今になって思えば、説明は一つしかなかった。
マザーハーロックは
おそらく、どの世界線でも暗殺されていたのである。
要塞守備隊の象徴ともいえる人物。
その存在が内部抗争によって消えれば、士気が崩れるのは当然であった。
つまり、あの弱い抵抗は偶然ではない。
守備軍は、すでに内部から崩れていたのである。
結果として、オモニ要塞は内側から瓦解した。
城壁が崩れたのではない。
人間関係が崩れたのである。
小糸は、その報告を聞きながら静かに考えていた。
直感とはいえ、中将はそこまで読んでいたのか。
中将は、小糸の報告だけを材料に戦局を推測していた。
そして攻撃のタイミングを計算していたのである。
要塞内部の騒乱が頂点に達する瞬間。
その時刻を、彼は待っていた。
やがてその瞬間が来た。
公国軍の陣地では、砲兵隊がすでに準備を終えていた。
砲弾が装填され、信号旗が掲げられる。
砲兵たちは黙って持ち場に立っていた。
一人の若い砲兵が呟いた。
「本当に落ちるんですかね、あの要塞」
曹長が肩をすくめた。
「要塞ってのはな、外から壊れるより先に中から腐るもんだ」
伝令兵が走った。
「砲兵隊、射撃準備完了!」
参謀が時計を見た。
「……今だ」
次の瞬間。
魔導砲雷撃が要塞を叩いた。
空に雷が走り、要塞上空で青白い閃光が炸裂した。
電撃は砲撃とともに降り注ぎ、城壁と兵舎を打ち砕いた。
続いて雷空機が飛来した。
三人乗りの航空機が要塞上空を旋回する。
「爆撃開始!」
爆弾が投下された。
内部で混乱していた守備兵は、もはや組織的抵抗を行うことができなかった。
部隊はばらばらに逃げ、銃声は散発的なものとなった。
やがて、城壁の上に白い布が掲げられた。
白旗である。
オモニ要塞は降伏した。
戦史家は後に、この戦いについてこう記している。
この戦いは、新兵器の勝利ではない。
時巻魔法の勝利でもない。
それは、人間という存在の弱さが生んだ勝利であったと。
小糸は、そのとき要塞を遠くから眺めていた。
煙の立ち上る城壁。
沈黙した砲台。
そして降伏旗。
小糸は何も言わなかったといわれる。
ただ静かに、その要塞を見つめていた。
まるで歴史の一頁が閉じる瞬間を、観察しているかのように。




