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曇天

 この数か月、小糸は会議と演習、そして戦略検討に没頭していた。作戦は重層的に練り上げられ、部隊の動き、補給線、砲兵配置、魔法兵の支援範囲まで、微細な点に至るまで検討された。新大陸歴514年4月に予定された《雨作戦》は、いわばこの戦争における公国軍の攻勢の試金石であった。小糸が祈ったのは、作戦の成功と、自らの命の安否だけである。戦場における「祈り」とは、軍人にとって最も無力な行為でありながら、同時に最も必要な心の支えであることも、歴史は記している。


 今回の攻撃目標であるオモニ要塞は、フライル帝国との国境より西に148キロ、帝国軍最後の砦と呼ばれる場所であった。先月3月24日、公国軍は膠着状態を打破したが、帝国兵は要塞に籠り、防衛の固さを誇示していた。歴史は繰り返すと言われるが、公国軍は50年前にも同要塞を攻めたことがある。だが、攻城中に停戦が成立し、戦いは不完全燃焼で終わった。そのときの指揮官、ゴマリ・ベガ上級大将は、「侵入不可なり。攻略難し」と記録に残している。ベガ大将は戦争英雄と称された人物であり、彼の言葉が意味する要塞の難攻度は計り知れなかった。


 しかし、軍人は知っている。落ちない城など存在しないことを。そして、公国には「出る身体の脛弱し」という諺がある。どれほど強靭な体格でも、弱点は変わらぬという意味である。要塞もまた、人間の知恵と技術があれば必ず攻略可能である。小糸はその考えに沿い、戦略の検討に身を投じた。


 作戦決行の二週間前、王の計らいで小糸は大尉に昇進した。指揮権を行使しやすくするためであったが、正直なところ、小糸は自らの魔法能力の高さから、少佐級でもよいと密かに考えていたという。移動の汽車の中で、中将は小糸に耳打ちした。


 「メイ大尉、もしゴヴァ隊が敗走や壊滅の危機に陥るようなことがあれば、時を戻してくれたまえ。知っての通り、あの新設部隊には私の力を惜しみなく注いでいるのだ。成功すれば攻城戦史に新たな英雄を刻むことができる。君もまた、英雄の一人になれるであろう…HAHAHAHAAHAHAHA!!!」


 中将の言葉には理屈と狂気が入り混じっていた。小糸はその狡猾な計算と大胆さを理解していた。攻城戦は常に攻める側に不利であり、奇策や新兵器は往々にして期待通りに動かない。歴史書に記される通り、奇襲成功率はせいぜい10%程度であり、孔子の言葉を借りれば、勝敗は戦う前から決まっているとさえ言える。小糸の魔法は強力だが、使用回数は限られており、今回は2回以下に抑えるのが望ましかった。


 作戦本部は要塞より東に12キロ、簡易的な地下施設に設置された。小糸は軍議を終え、テント前で煙草に火をつけた。中将は、軍人にとって煙草とウィスキーこそ娯楽の象徴であることを教えてくれた。テレビもスマホもないこの世界では、娯楽は20世紀前半のものに限られる。バルガというカードゲームも盛んで、ルールや遊び方も人類史とほぼ変わらない。


 「大尉、今お時間よろしいでしょうか?」


 ガトー少尉が声をかけてきた。小糸が頷くと、彼女は言葉を続ける。


 「正直に申し上げますが、大尉は今回の作戦をどのようにお考えでしょうか。生まれも教養もない私には、とても理解が追いつきません。」


 小糸はその疑問が真っ当であることを理解した。今回の《雨作戦》は、作戦と呼ぶより、兵力の生存を犠牲にして情報を得る試みでしかなかった。全火力による砲撃、歩兵・騎兵・機甲部隊による三段突撃、新兵器投入。これらは、単なる兵士の消耗であり、勝利の確率を保証するものではなかった。小糸の役割は、攻撃中に敵の兵力、兵器、新兵器の運用状況を観測し、敗因を把握した上で時を戻すことにあった。


 「前線は崩壊し、被害は壊滅的だろう。しかし、この作戦は『今後』必ず役に立つ。命令に従ってくれ。」


 「仕官として戦略的被害は許容範囲ですが、この作戦はあまりにも…」


 治療兵として務めた彼女には、その無慈悲さが身に染みる。部下の眼差しは厳しい。知らぬ者には、命を差し出せと言われているように映るのだ。小糸は、その視線の重みを感じながら、煙草の煙をゆっくりと吐き出した。戦場とは、常に人間の感情と理性が交錯する場所である。


 正直に言えば、28師団の士官や隊長たちが小糸の魔法を知らぬまま作戦説明を受けると、その視線は凄まじく冷たいものであった。前線において、部下に死を命じるということは、理屈の上では軍務の一環であっても、人間の感情に直結する。その冷徹さを前に、多くの若い士官は眉をひそめ、隊長たちは硬直した表情を浮かべていた。だが、この異議や反発が作戦本部に向けられず、事前の混乱が最小限に留まっているのは、中将の威厳と実績によるところが大きいといわれる。


 中将ベニ・コロイスは、5年前、当時大佐として西北部ガロリ地方に駐留していた折、ボコ族30万の軍事蜂起を、僅か駐屯兵6千の指揮で14日間に鎮圧した。この戦いにおいて敵は再起不能に叩き潰され、中将は「肉挽機」の二つ名を国民と軍人の双方から与えられたという記録が残っている。戦争において、指揮官の名声や歴史的実績は兵士の心を支配し、前線における秩序と士気の確保に直結する。小糸もまた、彼の権威によって士官たちの異議を封じることができる現実を、冷静に認識していた。もしも中将でなければ、戦う前から前線は崩壊していたに違いない。


 ガトー少尉は不満げな表情を浮かべ、足早にその場を去った。小糸は理解していた。一応、自らが護衛や作戦補佐として任務を与えられてはいるが、前線における“お坊ちゃん”は、どの軍隊でも嫌われるものなのだ。特に戦火の中では、育ちや立場による好意は戦力としての評価に全く影響しない。


 偵察兵が要塞内部を隅々まで調査できるなら、これほど危険な作戦は不要だったはずである。しかし、オモニ要塞はそれほどまでに堅固であり、正確な敵情を把握することは困難を極める。戦略において最も恐ろしいのは、敵の実力が不明瞭なことだ。兵力も配置も防御構造も知らぬままでは、作戦の立てようがない。小糸は自らに言い聞かせた。この最初の攻撃は、敵の兵力を完全に観測するための「偉大なる死」であると。己が死なぬ限り、戦局は掌中にあるはずであった。


 その後、小糸は中将と共に敵要塞の視察に赴いた。視察を終え、地下作戦本部に戻った際、疲労のあまり軽くうなだれる小糸に、中将はふと声をかけた。


 「もし俺が死んでも、作戦がうまくいっているなら、それ以上に時を戻す必要はないよ。死んで英雄になるのも悪くはないが、なによりも大切なのは、計画の成功だ。そう思っておくと心が少し軽くなるだろうからさ。」


 新大陸歴514年4月14日。夜明けの光がオモニ平原を照らし、冷たくも澄んだ空気が戦場を包むと、攻撃の火ぶたは静かに、しかし確実に切られた。遠くの要塞砲の反響が空気を震わせ、緊張の中で兵士たちの鼓動が戦場全体に広がる。歴史の目撃者たる小糸は、祈りと覚悟を胸に、最初の突撃の瞬間を待ったのである。

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