勝者と敗者
第一次ノヴァ奪還戦の敗北を受け、第6師団はゴザラの丘を下り、リマンヶ原に防御陣を構築した。これは単なる後退ではなく、戦局の再編であったと、後の戦史は記している。
リマンヶ原に広がったのは、塹壕であった。
地面を穿ち、泥を積み、鉄条網を張る。人は再び地中へ潜り、敵と対峙する。近代戦において、塹壕戦とは避け難き帰結である。機関銃と砲兵が支配する時代において、地上に立つことは死を意味する。ゆえに人は、文明を捨てて土に還る。
「……ったく、街でドンパチやってたと思えば、今度は穴倉かよ」
若い兵士がぼやく。
「また穴掘りかよ。敵より土と戦ってる気分だぜ」
隣の兵士が乾いた笑いを漏らしぼやく。
「いいや、土は撃ってこねえ分、まだマシだ」
隣の古参兵が、濁った声で応じる。
「贅沢言うな。穴があるだけマシだ。外に出りゃ、すぐに蜂の巣だ」
塹壕には、戦場特有の静けさがあった。砲声は遠く、しかし確実に響き、いつでも死が訪れることを知らせている。その中で兵士たちは、ただ待つ。
待つこと、それは攻撃以上に精神を摩耗させる行為である。
ロト中将は、この地で足を止めた。
彼は突撃を好む将であったが、このときばかりは違った。戦とは、押すべき時と退くべき時を見誤った者から滅びる。彼はそれを知っていた。
「28師団が来るまで動かん」
参謀に対し、そう言い切ったと伝えられる。
「今は噛みつく時じゃねぇ。牙を研ぐ時だ」
その言葉は粗野であったが、本質を突いていたに違いない。
「第28師団の到着はまだか」
ロトは低く問うた。
参謀が答える。
「3日以内には合流可能との報告です。ですが……」
「だが、何だ」
「民国軍の士気が予想以上に高い。三人衆の演説が効いているようです」
ロトは鼻で笑った。
「演説で戦争に勝てるなら、砲兵はいらん」
しかし、その内心は別であったに違いない。士気とは数値化できぬ戦力であり、時に砲弾以上の威力を持つ。歴史を振り返れば、崩壊は常に心から始まる。
そうした事例はいくらでもある。
ノヴァを守る民国側も消耗していたが、しかし、勝利がもたらすものは単なる損耗の帳消しではない。
そう士気である。
勝利は、兵に「次も勝てる」という幻想を与える。それは時に現実以上の力を発揮する。
名誉大佐三人衆による戦後演説は、その象徴であった。
「諸君、我らは巨獣を退けた!」
トモミチ・イワナリの声が広場に響く。
「次も同じだ。奴らは血を流す。我らは勝つ!」
ソウイ・ミヨシが腕を振り上げる。
ナガヤス・ミヨシは静かに言った。
「恐れるな。恐れるということは、すでに負けているということだ」
イワナリよく通る声で続ける。
「帝国の鉄の塊を、この手で止めたのだ!」
兵士たちの歓声が上がる。
ソウイが続ける。
「逃げるな、屈するな!敵は恐れるに足らぬ!恐れるべきは、自らの弱さのみだ!」
ナガヤスは静かに、しかし堂々と話す。
「勝利とは、諦めなかった者にのみ訪れる。諸君は、それを証明した」
この演説は、単なる鼓舞を超えた。
その言葉は、兵士の胸に深く刻まれた。
さらに民国政府は、この勝利を即座に国内へ報じた。新聞は勝利を誇張し、街では祝賀の旗が掲げられる。
この点において、民国は巧妙であった。
そもそも近代戦においては、戦闘は銃弾と砲弾のみで決するものではない。国家総力戦の時代にあっては、民衆の意志。すなわち世論が戦争の継続を支えるのである。民国はそれを理解していた。
これは近代戦における常道であった。戦争は前線だけで戦われるものではない。後方の世論こそが、国家の持久力を支えるのである。
そしてノヴァでの敗北から3日後。
第28師団が戦線に到着した。
その行軍は整然としており、疲労を感じさせぬものであったという。ガジル線会戦を制した部隊であり、その存在自体が戦局に重みを与える。
さらに北北東より、ハウンド・リック准将率いる第15歩兵旅団が合流した。
リック准将、通称「野犬」。
「おい、“野犬”が来たぞ」
「噛みつかれんのは敵だけにしてほしいもんだな……」
リック准将。その異名の由来は、彼の戦い方にあった。ベイル教の熱狂的信徒であり、聖地ヴァンティアンプールを巡る戦闘では幾度も血戦を繰り広げた。その狂気的とも言える突撃は、敵のみならず味方すらも戦慄させたという。
ある士官が小声で言う。
「あいつは神のために戦ってるんじゃねえ。戦うために神を使ってるんだ」
それは、信仰と暴力の境界が曖昧になった男への評であった。
その狂気的な忠誠心を嘲い、皮肉と畏怖が入り混じった呼び名は「野犬」。それは忠誠と狂気の表裏一体を象徴するものであった。
こうして、ノヴァ奪還のための戦力は整えられた。
作戦会議が開かれたのは、塹壕線後方の指揮所であった。ランプの灯りが揺れ、地図の上に影を落とす。
総司令官にはコロイス大将が就いた。「肉挽機」コロイス大将、「巨像」ロト中将、そして「野犬」リック准将、いずれも一癖も二癖もある将であった。
「ノヴァ奪還は時間との戦いだ」
コロイスが口を開いた。
「敵はまだ完全に防備を整えてはいない。だが、放置すれば要塞化される。ゆえに迅速かつ確実に叩くよ」
リックが笑う。
「確実、ねえ……いい響きだ。だが血はどれだけ流す?」
「必要なだけだね」
コロイスは即答した。
ロトは黙していた。彼は議論よりも実戦を好む男である。ただ、その目は地図の一点、ノヴァ市街を鋭く射抜いていた。
「で、どうする」
ロトが口を開いた。
「正面から叩くか、それとも噛み砕くか」
リックが笑った。
「どっちでもいいさ。殺せりゃなァ」
その声には、愉悦すら混じっていた。
コロイスは静かに言った。
「無駄な損耗は避けるべきだ。前回と同じ轍を踏むわけにはいかん」
その場に、小糸の姿があった。
第28師団の参謀として、会議に加わっていたのである。
小糸は地図を見つめ、しばし沈黙したのち、口を開いた。
「……一案があります」
視線が集まる。
「雷空機を使用し、空挺部隊を投入する。市街の背後に降下させ、内部から崩すべきかと」
一瞬の静寂。
それは、この世界において前例のない発想であった。
空から兵を投じる。それは理論上は可能でも、実行されたことのない概念であった。
リックが口角を吊り上げる。
「はっ、面白ぇ。空から降ってくる兵隊か。悪くねぇ」
だが、コロイスは首を振った。
「却下だね」
短く、明確であった。
「現時点で、そのような賭けに出る余裕はないよ。
失敗すれば戦力の損失は計り知れないしね」
ロトもまた頷いた。
「今は博打の時じゃねぇ。確実に削って、確実に取る」
小糸は反論しなかった。
その案が革新的であると同時に、時期尚早であることも理解していたからである。
戦争とは、常に「可能」と「実行」の間で揺れる。どれほど優れた案であっても、時機を誤ればただの空論に過ぎない。
こうして、空挺強襲案は退けられた。
だが、
後にこの発想が戦史においてどのような意味を持つかは、この時点では誰も知り得なかったに違いない。
会議は続く。
三人の将と、その参謀たち。
それぞれの思惑が交錯し、次なる戦いの形が徐々に定まっていく。
ノヴァ奪還戦。その第二幕は、すでに静かに幕を上げていたのである。




