族長
戦闘というものは、降伏が宣言されたからといって、ただちに静まるものではない。
このことは、あらゆる戦史が繰り返し語るところである。
軍隊とは巨大な組織であり、そこには数万、あるいは数十万という人間が存在する。
命令は上から下へ流れるが、その伝達には時間がかかる。
そして何より
人間の感情は、命令よりも遅く消える。
ゆえに戦場では、降伏ののちにも奇妙な光景がしばしば続く。
武器を静かに地面へ置く者。
なおも銃を握り、最後の抵抗を試みる者。
誇りを守るため、自ら死を選ぶ者。
さらには捕虜になることを恐れ、荒野へ逃げ出す者もいる。
戦争とは国家の制度である。
だが同時にそれは、人間の感情の集合でもある。
だからこそ、その終わり方は決して整然とはしていない。
むしろ、どこか混乱したまま、ゆっくりと消えていく。
ガジル線会戦の終盤も、まさにそうであったといわれる。
公国軍は、戦場処理を開始していた。
戦史においてこの作業はしばしば軽視されがちだが、実際には極めて重要な軍務である。
勝利のあとに秩序を回復できなければ、軍は統制を失う。
主軸となったのは第1師団であった。
降伏兵の武装解除。
捕虜の収容。
負傷者の救護。
さらに戦場に散乱した銃、弾薬、機関銃、砲弾の回収。
それらは一見すると地味な仕事である。
しかし軍隊という巨大な機械を維持するためには、欠かすことのできない作業であった。
第28師団も例外ではない。
この部隊は戦闘の中心にいた。
激戦の果てに勝利を掴んだが、その直後から戦場整理へ移行していた。
兵士たちは塹壕の間を歩く。
泥に沈んだ銃を拾い上げる者。
まだ息のある敵兵を確認する者。
弾薬箱を積み上げる者。
どこか静かな時間が流れていた。
ある兵士が塹壕の縁に腰を下ろし、呟いた。
「……終わったのか。」
隣で銃を分解していた兵士が答える。
「たぶんな。」
どこか疲れた声であった。
戦争とは、終わる瞬間がはっきりしない。
嵐が過ぎ去ったあとに残る、長い静寂のようなものである。
その時であった。
見張りの兵士が丘の向こうを指さした。
「……動きがある。」
双眼鏡を覗いた士官が眉をひそめる。
次の瞬間、見張りが叫んだ。
「敵騎兵!」
兵士たちは反射的に銃を構えた。
だが、規模は大きくない。
数は30騎ほど。
敗走する残存兵力であることは明らかであった。
しかし、その先頭に立つ男を見たとき、士官の一人が小さく声を漏らした。
「……あれは。」
先頭の騎兵。
その男こそ
ヌバンパであった。
ヌバンパは馬上で怒鳴った。
「コロイスを殺せ!」
その怒号は、敗北の煙が漂う戦場に響いた。
この時の彼の心理については、歴史家の間でも議論がある。
敗北への怒りか。
部族の誇りか。
あるいは単なる絶望であったのか。
おそらく、そのすべてであったに違いない。
しかし、ここで読者に伝えておかなければならないことがある。
物語の世界では、こうした場面で必ず劇的な邂逅が起こる。
敵将が現れる。
互いに言葉を交わす。
恨みを叫び、剣を交える。
だが、近代戦はそうではない。
司令官が前線に姿を見せることは、ほとんどない。
それは軍事常識である。
コロイスもまた、司令部にいた。
前線にはいない。
兵士たちはただ命令通り行動した。
士官が叫ぶ。
「撃て!」
銃声が連続する。
乾いた音が、戦場の静けさを破った。
騎兵は一人、また一人と落馬する。
馬が転び、土煙が舞い上がる。
ヌバンパの叫び声も、銃声の中に消えていった。
そこには英雄譚もなければ、宿命の対決もない。
ただ銃弾が飛び、騎兵が倒れ、戦闘が終わった。
それだけであった。
戦争の現実とは、しばしばこのように無機質である。
こうしてガジル線会戦は、完全に終結した。
後年まとめられた戦史資料によれば、死傷者は次の通りである。
公国軍
ガジル線守備兵 3500
第1師団 1000
第28師団 1500
ゴイコ民国軍
中央軍 9000
右翼軍 7000
多民族国軍
20000
数字だけを見れば、それは冷たい計算である。
だが忘れてはならない。
この数字の一つ一つが、人間であった。
若者であり、父であり、息子であり、友人であった者たちである。
国家は戦争を行う。
それは政治であり、戦略であり、国家意思である。
しかしその結果を受けるのは、常に人間である。
ガジル線会戦は、公国にとって大勝利であった。
戦略的にも、軍事的にも、その意義は大きい。
だがある歴史家は、この戦いをこう記している。
「勝利とは、ただ多くの死体の上に立つ言葉である。」
それが戦争の本質であったのかもしれない。




