怨戦
戦闘開始から6時間。
この時点で、戦場の様相は微妙に変化し始めていた。
戦争において6時間という時間は、短いようでいて決して短くない。
近代戦、とりわけ塹壕戦においては、数時間の戦闘が兵士の精神と肉体を極限まで摩耗させる。第一次世界大戦の戦史をひもとけば、攻勢の多くが数時間で勢いを失っていることがわかる。人間という生き物は、機械ではないからである。
この戦場でも、それが起きていた。
ヌバンパの魔法【俊頼】の効果が、次第に薄れ始めていたのである。
この魔法は兵士の身体能力を高める補助魔法であるが、永続的なものではない。時間継続することは不可能であった。
敵兵の動きは、徐々に鈍り始めた。
突撃の速度が落ちる。反応が遅れる。
それは数秒の差でしかない。だが戦場では、その数秒が命運を分ける。
そしてもう一つの変化があった。
トウジョウ上級大将の魔法【猛火】である。
これは兵士の戦意を高揚させる精神魔法であった。兵士たちの士気を異常なまでに引き上げる。
だがこれもまた永続するものではない。
時間とともに、その効果は薄れていく。
戦場に疲労が広がった。
塹壕の中で兵士たちは肩で息をしていた。
「水をくれ……」
若い兵士がつぶやく。
隣の古参兵が苦笑した。
「まだティータイムにもなってねえぞ」
彼らの背後では砲声が鳴り続けている。
しかし人間の体は、どれほどの理想や命令があろうとも、疲れるものなのである。
そんな時であった。援軍、第1師団である。
その光景を見た瞬間、防衛側の戦意は一気に跳ね上がった。
「第1師団だ!」
塹壕の兵士が叫ぶ。
「雷華雪月!アグニス元帥!」
歓声が広がる。
戦争において援軍という存在は、単なる兵力の増加以上の意味を持つ。
それは希望であり、国家の意志そのものである。
しかも率いるのは、アドニス・フォン・グフタス元帥。
王の叔父にして、公爵。そして公国軍最強の将軍。
王族自らが戦場に現れた。
この事実は、兵士たちに強烈な影響を与えた。
戦争とは、理屈だけで戦うものではない。
象徴、伝統、誇り、そうしたものが兵士の足を前へ動かす。
このとき、防衛軍の士気は明らかに回復した。
一方で、同盟軍側には新たな懸念が生まれていた。
それは28師団である。
いや、より正確に言えば。
28師団長、コロイス大将であった。
同盟軍左翼を担当していた多民族国軍の指揮官、ヌバンパは、その名を聞くだけで表情を曇らせたという。
彼にとってコロイスは、単なる敵将ではなかった。
仇敵であった。
その理由は、コロイス大将が鎮圧した、西北部ガロリ地方でのボコ族30万による反乱である。
これは単なる地方騒乱ではなかった。背後には多民族国の支援があったとされる。つまり、国際政治の影が濃く差した事件であった。
コロイスは徹底的な作戦を取った。
補給線を断ち、包囲し、掃討する。
戦術としては古典的である。
しかし彼の作戦はあまりに苛烈であった。
ボコ族の蜂起は壊滅した。
さらに事情を複雑にしていたのは、ボコ族長シザリオの存在であった。
彼はヌバンパの旧友であったといわれる。
若い頃、二人は同じ戦場を渡り歩いた仲であった。
そのシザリオが率いた蜂起を、コロイスは容赦なく粉砕した。
ヌバンパがコロイスを憎む理由は、それで十分であった。
しかしこの時点で、ヌバンパの戦略的判断はすでに変化していた。彼は理解していたのである。
ガジル線突破はもはや不可能である。
当初の計画は、12万の兵力による電撃戦であった。
ガジル線を突破し、そのまま公都へ進撃する。
近代戦における典型的な「決戦思想」である。
短期決戦で国家を屈服させる。
しかし戦争とは、往々にして計画通りには進まない。
内通者グエン中将の更迭。
守備兵力の増強。
第1師団の到着。
そして戦線の固定化。
すべてがヌバンパの計算を狂わせていた。
このまま戦えば、戦場は塹壕戦へと移行する。
すなわち消耗戦である。
兵士が少しずつ死に、砲弾が山のように消費され、国家の財政がゆっくりと崩れていく戦争。
ヌバンパはそれを嫌った。
彼は地図を見つめながら言った。
「……突破は無理だな」
副官が黙って頷く。
「では撤退ですか」
ヌバンパはしばらく考え、そして静かに笑った。
「いや」
その目は、地図の一点を見ていた。
そこには28師団の位置が記されている。
「撤退する前に」
ヌバンパは低く言った。
「コロイスを叩く」
それは戦略ではない。
ほとんど私怨に近い決断であった。
だが戦争というものは、ときに将軍の感情によって動く。
歴史とは、必ずしも合理的なものではない。
ヌバンパは命じた。
「主力を回せ」
「28師団を潰す」
こうして戦場の焦点のひとつは、ガジル線とまた小さな部隊、
28師団へと移っていくことになる。




