象徴
28師団がゴイコ民国軍の側面に突入してから、およそ30分が経過していた。
戦場というものは、時として一瞬で形勢を変えるが、同時に驚くほどの速度で秩序を回復することもある。軍隊とは本来、そのために存在する組織である。
すなわち、混乱を制御するための制度である。
しかし、それには条件がある。
訓練、規律、そして指揮官の力量である。
ゴイコ民国軍は、その三つを備えていた。
28師団の奇襲により一時的に崩れた右翼は、次第に秩序を取り戻しつつあった。
煙と硝煙の漂う戦場のなかで、軍旗が再び掲げられる。伝令が走り、将校が叫び、兵士たちは再び隊列を整え始めた。
ある参謀の回想録にはこう記されている。
「敵は一度は崩れた。しかし、それは崩壊ではなく、ただの動揺であった」
理由は単純である。
兵力差であった。
ゴイコ民国は、ガジル線突破のために相当数の精鋭部隊を投入していた。彼らはただの歩兵ではない。長い訓練と戦場経験を持つ、いわばこの戦争の中核であった。
そのような部隊が、伏兵ごときで完全に瓦解することはない。
むしろ彼らは状況を冷静に判断していた。
「敵は伏兵だ!」
ゴイコ民国のある中隊長が叫ぶ。
「兵力は多くない!押し返せ!」
兵士たちが応じる。
「了解!」
伏兵という戦術には、必ず弱点がある。
それは兵力が限られているという点である。
隠密行動と奇襲を成立させるためには、どうしても規模が小さくなる。
これは戦術の宿命といってよい。
そして精鋭部隊である彼らには、それが理解できていた。
反撃が始まった。
砲兵が旋回し、機関銃が火を噴く。
28師団の前進は、徐々に押し返され始めた。
その報告を受けたとき、小糸は指揮所の地図を静かに見つめていた。
作戦机の上には、赤鉛筆と青鉛筆で描かれた戦線が複雑に入り組んでいる。
参謀が言った。
「敵右翼、秩序を回復しつつあります」
「予想より早いな」
小糸は静かに考えていた。
もう一度、時を戻すべきか。
時巻魔法は万能ではない。使用回数が元々少ないため政治的にも重大な決断を伴う。
しかし戦争とは、国家の存亡を賭けた賭博でもある。
もし敗北が確定するならば、やり直す価値はある。
小糸は計算していた。
兵力差。
敵の士気。
28師団の持久力。
そして結論は、決して楽観的なものではなかった。
そのとき、伝令が駆け込んできた。
「報告!」
息を切らしながら叫ぶ。
「北東ノヴァが陥落しました!」
作戦室の空気が一瞬止まった。
「いつだ」
コロイス大将が問う。
「約2時間前です!」
参謀が地図を指さす。
「ノヴァが落ちたなら……」
言葉の続きを、小糸が引き取った。
「機動部隊がこちらに来る」
伝令が頷く。
「その通りです。民国の機動部隊が援軍としてガジル線に向かっています」
これは危険であった。
いや、率直に言えば最悪の事態に近い。
ノヴァは交通の要衝であり、そこを拠点にすれば機動部隊は短時間で戦場に到達する。
もしその部隊が到着すれば、28師団の背後が突かれる。
伏兵が背後を取られるというのは、軍事的には致命的である。
それは、包囲されるという意味だからだ。
小糸は静かに言った。
「……撤退しかない」
参謀が頷いた。
「はい」
沈黙が流れた。
小糸は決断を下した。
再び、時を戻す。
この戦いはまだ終わっていない。
ならばやり直す。
それがこの戦争における、小糸の役割であった。
だが、その時である。
別の伝令が作戦室へ飛び込んできた。
「援軍です!」
参謀が振り向く。
「どこの部隊だ」
伝令は叫んだ。
「第1師団です!」
その名を聞いた瞬間、作戦室の空気が変わった。
第1師団。
それは公国軍において、伝説に近い存在であった。
指揮官はアドニス・フォン・グフタス元帥。
公王の叔父にあたる人物であり、同時に公爵でもある。つまり王族である。
そして軍人としても、彼は別格の存在であった。
第1師団は「雷華雪月」と呼ばれていた。
この奇妙な名は、四つの要素を意味する。
雷は迅速。
華は精鋭。
雪は規律。
月は威厳。
すなわち、公国軍の理想を体現する部隊である。
兵力は5万。
戦場へ到着したとき、その軍列は地平線を覆ったといわれる。
歴史家はよく指摘する。
戦争において兵力以上に重要なものがある。
それは「象徴」である。
この戦いは、公国の聖地防衛戦でもあった。
そこへ王族自らが率いる軍が到着した。
それが兵士たちに与える意味は計り知れない。
ある兵士は叫んだという。
「グフタス元帥だ!」
別の兵士が続く。
「第1師団だ!」
歓声が広がった。
戦意というものは、理屈では測れない。
だが国家という制度において、それはしばしば砲兵数以上の力を持つ。
王族が、最前線に現れた。
その事実は、兵士たちにとって何よりの証明であった。
聖地での戦いでさらに窮地の味方を助ける王族。
最高のプロパガンダである。
この戦いは、国家そのものの戦いである。
そう思わせるには十分であったのである。




