聖線
ハマ丘陵。
その名は、ベルト公国の歴史を語る者であれば誰もが知っている地名である。
この丘陵地帯は単なる地形上の要衝ではない。公国の人々にとっては、いわば「国家の記憶」が刻まれた場所であった。
170年前、公国がまだ帝国の属領に過ぎなかった時代のことである。当時の反乱軍、すなわち後のベルト公国の祖先たちは、この地で帝国軍の主力と激突した。
それが、歴史に名高いハマ・グフロスタスの戦いである。
この戦いは単なる戦術的勝利ではなかった。
帝国軍はこの敗北によって東方支配を維持する力を失い、結果として公国の独立は現実のものとなった。歴史家の多くは、この戦いこそが公国建国の決定的契機であったと述べている。
つまりハマ丘陵とは、公国にとっての聖地であった。
公国軍の古い軍歌には、こういう一節がある。
「ハマの丘は祖国の誉高き楯、祖先の血がこの地を守れと沸る」
その歌詞が誇張ではないことは、この地に築かれた要塞線を見れば理解できる。
丘陵一帯には、長大な防衛施設が構築されていた。
それがガジル線である。
ガジル線は単なる塹壕線ではない。
鉄筋コンクリートの砲台、地下弾薬庫、対砲撃壕、連絡トンネル、対戦車障害物、そして複数層の鉄条網。近代要塞技術の粋を集めた巨大防衛線であった。
この防衛線の最大の目的はただ一つ。
公国首都グフロスタスを守ることである。
グフロスタスは、地理的には東部に位置していた。
通常、国家の首都は後方深くに置かれるものだが、公国は歴史的事情から東側に首都を持っていた。そのため東方からの侵攻に対しては極めて脆弱であるという弱点があった。
その弱点を補うために建設されたのがガジル線である。
軍事思想的に言えば、これは「国家の盾」であった。
戦争において盾とは、ただ敵を止めるためのものではない。
敵の勢いを削り、時間を稼ぎ、そして反撃の機会を生むためのものである。
この意味で、ガジル線は公国防衛戦略の中心であった。
そして今、その盾に守備隊が集結しつつあった。
ムザクバードから撤退したドドド・マック少将の部隊も、秩序を保ったままこの丘陵地帯へ到達していた。
14日間の防戦。それは単なる敗走ではない。
軍事的に言えば、これは典型的な「遅滞戦闘」であった。
守備隊9,000が4万の軍勢を14日間も引き止めたという事実は、作戦全体から見れば極めて大きい。
その間に、ガジル線の準備はほぼ整っていたのである。
砲兵隊は新しい射撃陣地に配置され、補給列車は弾薬を運び込み、工兵部隊は鉄条網をさらに強化していた。
参謀将校の一人が、地図を見ながら呟いた。
「……これだけの準備が整ったのなら、敵は簡単には突破できないでしょう」
しかし別の将校は不安そうに言った。
「だが敵の動きが妙だ」
「妙とは?」
「同盟軍はムザクバードだけではない。北東のノヴァ、南東のモザンビルにも攻勢を仕掛けている」
それは事実であった。
同盟軍は、三方向同時攻撃という大胆な作戦を採っていたのである。
これは一見すると強力な作戦に見える。
しかし軍事的には危険も伴う。
兵力が分散するからだ。
そのため参謀たちの間では、ある疑問が生まれていた。
敵の本当の狙いはどこなのか。
焦りを隠せない将校も少なくなかった。
だがその空気とは対照的に、二人の将軍だけは全く動じていなかった。
一人は、ムザクバードから撤退してきたドドド・マック少将。
もう一人は、このガジル線全体の防衛を任されている男、ヒデアキ・トウジョウ上級大将である。
トウジョウは、公国軍の中でも屈指の防衛戦の名手といわれていた。
年齢は60を越えている。
白髪交じりの髭をたくわえたその姿は、古い時代の将軍を思わせる威厳があった。
作戦司令部の地下壕。
そこには巨大な作戦地図が広げられていた。
参謀たちは慌ただしく報告を続けている。
「ノヴァ方面、敵航空隊確認!」
「モザンビル戦線、砲撃開始!」
だがトウドウ上級大将は、椅子に深く腰掛けたまま静かにパイプを燻らせていた。
その様子に、若い将校が思わず尋ねた。
「閣下……本当にここが主戦場になるのでしょうか」
トウジョウはゆっくり煙を吐いた。
「戦争とはですね」
彼は静かに言った。
「敵の焦りと味方の恐怖で出来ています。」
そして地図のハマ丘陵を指で叩く。
「敵はここへ来ます」
その声には確信があった。
マック少将も静かに頷いた。
「ムザクバードで14日も足止めした。敵は勢いを失っている」
「だが来る。必ず来る」
トウジョウは短く言った。
「ここは公都への門ですから」
司令部の空気が静まり返る。
外では、砲兵が新しい砲弾を運び込んでいた。
歩兵たちは塹壕の中で乾パンをかじりながら、次の戦いを待っている。
ハマ丘陵。170年前、祖先たちが独立を勝ち取った土地。
そして今、再び歴史がこの丘陵を戦場にしようとしていた。
やがて同盟軍の大攻勢が、この要塞線に襲いかかることになる。
しかしその時点で、それを恐れている将軍は一人もいなかった。
少なくともマック少将とトウジョウ上級大将の二人だけは、顔色ひとつ変えず敵の攻撃を待っていたのである。




