空へ
戦争というものは、しばしば辺境から始まる。
国家の首都で戦争が始まることは稀である。そこでは外交官が言葉を交わし、政治家が演説を行い、新聞が論説を書く。しかし本当の戦争は地図の端、
人々の記憶にも残らぬような土地で火を噴く。
鐘檎慈戦争もまた、その例外ではなかった。
戦端は、ベルト公国最東端の都市ムザクバードで開かれた。ムザクバードは古くから国境都市として知られていた。
東方にはジレ多民族国の草原が広がり、さらにその先には無数の部族の移動路が交錯している。交易都市として栄えた時代もあったが、近代戦争の時代に入ると、この都市は「盾」としての役割を与えられた。
つまり、敵軍が最初にぶつかる壁である。
この時期、小糸の所属する28師団にはまだ出動命令は出ていなかった。
公国軍の参謀本部は、まず国境守備隊によって敵の進撃を遅らせ、その間に主力軍を展開するという古典的な防衛戦略を採用していた。
この戦略は近代戦争において決して珍しいものではない。
第一次大戦型の軍事思想では、戦争の初期段階は「動員競争」であるといわれる。先に大軍を戦場に送り込んだ側が優位に立つ。ゆえに、国境守備隊の役割は敵を止めることではなく、時間を稼ぐことにある。
ムザクバードの守備は、ドドド・マック少将に任されていた。兵力は約9,000。
この数は、国境都市としては決して少なくない。
しかも公国軍は、この都市にいくつかの新兵器を配備していた。
その代表が雷空機である。
雷空機とは、近年開発されたばかりで、この世界において航空戦力はまだ黎明期にあった。
だが、一部の軍人たちはすでに理解していた。
空を制する者は戦場を制する。
それは後に近代戦争の常識となる思想であるが、この時代ではまだ仮説に近かった。
ドドド・マック少将は、その仮説を信じる将軍の一人であった。
ある夜、彼は参謀たちにこう語ったといわれる。
「地上の戦争は、いずれ空に支配される」
若い参謀の一人が尋ねた。
「ですが閣下、航空機はまだ数も少なく、故障も多い。主力兵器とは言えないのでは?」
少将は窓の外の夜空を見ながら答えた。
「蒸気機関車も最初は笑われた」
そして静かに言う。
「だが文明とは、笑われるものがやがて常識になるものだ」
その言葉は、ある意味で正しかった。
しかし敵もまた、新しい時代の到来を理解していた。
ジレ多民族国のフルロク族は、自らの航空戦力を戦場に投入したのである。
それは「爆炎機」と呼ばれる航空機であった。
爆炎機は機体が大きく、爆弾搭載量が多い。
ホムライ大陸の火魔法技術の影響を受けているともいわれており、その性能は公国の雷空機に匹敵するものであった。
こうしてムザクバード上空では、歴史的な戦いが始まる。この世界初の航空戦である。
最初にそれを目撃したのは、都市郊外の塹壕にいた歩兵たちだった。
「おい……あれはなんだ?」
一人の兵士が空を指さす。
遠くの空に黒い点が見える。
やがてそれが二つ、三つ、十と増えていく。
空を飛ぶ鉄の機械。
そして、空中で火が咲いた。
機銃の閃光が走り、爆弾が落ちる。
航空機同士が互いに撃ち合い、雲の中に消えていく。
「空で戦ってる……」
兵士の誰かが、呆然と呟いた。
それは、人類が初めて目にする光景であった。
だが空の戦いだけでは終わらない。
地上では、さらに大規模な攻勢が始まっていた。
ジレ多民族国を中心とする同盟軍は、実に4万の兵力を投入していたのである。
守備隊9,000に対し、攻撃側4万。
戦争において、攻撃側は通常3倍の兵力が必要とされる。これは軍事学の基本原則である。
今回の場合、その条件は完全に満たされていた。
戦闘は激烈を極めた。
砲兵隊は昼夜を問わず砲撃を続け、歩兵部隊は塹壕を奪い合い、航空機は都市の上空で旋回しながら爆弾を落とした。
ムザクバードの街並みは、次第に瓦礫へと変わっていった。それでも守備隊は粘った。
14日間。わずか9,000の兵が、4万の軍勢を相手に戦い続けたのである。
参謀の一人が言った。
「閣下、もう限界です」
ドドド・マック少将は地図を見つめたまま答えた。
「わかっている」
そして静かに命令を下した。
「全軍、ハマ丘陵へ撤退」
軍隊にとって撤退とは敗北ではない。
戦争において最も難しい作戦の一つである。
守備隊は秩序を保ったまま都市を離れ、丘陵地帯へ後退した。
こうして14日間のムザクバード攻防戦は終わった。
だが歴史的に見れば、この戦いにはもう一つの意味があった。
それは、人類が初めて空で戦争を行った戦場であったということである。
この日、戦争は地上から空へと広がった。
そしてその変化は、やがて戦争の形そのものを変えていくことになる。
もっとも、この時点でそれを理解していた者は、ほとんどいなかったのである。




