嵐の先の台風
戦争が終わったあとに訪れる静寂ほど、国家にとって危ういものはないと、後世の軍事史家はしばしば書いている。
人間という生き物は、戦争が終わるとすぐに平和が続くものだと錯覚する。しかし国家という巨大な組織にとって、平和とはしばしば次の戦争までの準備期間に過ぎない。
ベルト公国にとっても、その例外ではなかった。
帝国と王国を相手にした鐘譜護戦争が終結してから、半年。軍の中では再編と補給が進み、都市では復興が始まり、農村では兵士たちが畑へ戻りつつあった。
しかし外交の世界では、まったく別の時計が動いていた。
戦争終結から半年後、ベルト公国と隣接する二つの国家、ゴイコ民国とジレ多民族国との同盟期限がついに満了したのである。
そして、その瞬間を待っていたかのように情勢は動いた。ゴイコ民国とジレ多民族国は新たな軍事同盟を結び、同時にベルト公国へ宣戦布告を行った。
これが後に「鐘檎慈戦争」と呼ばれる戦争の始まりである。
この戦争の背景を理解するには、少し時代を遡る必要がある。そもそもゴイコ民国とジレ多民族国は、ベルト公国と友好関係にあったわけではない。
むしろ三国の関係は、長年にわたり緊張と衝突を繰り返す典型的な国境関係であった。
争点は三つ。
第一は、国境地帯に存在するドコ金山。
第二は同じく国境付近のアザム銀山。
そして第三が、ベイル教の聖地の一つとされるヴァンティアンプールである。
資源と宗教。
この二つが重なれば、争いが起こらないほうが不自然である。この世界でもそれは同じであった。
実際、民国と多民族国は同盟を結ぶ以前、これらの地域を巡ってベルト公国とたびたび小競り合いを起こしていた。国境警備隊同士の銃撃、偵察隊の衝突、時には砲撃戦すら起きていたといわれる。
しかし、8年前に事態は一変する。
世界各地で発生した宗教暴動、
いわゆる「銀喰僧徒の乱」である。
過激派ベイル教徒が各国で蜂起し、宗教施設や行政機関を襲撃したこの事件は、文明圏全体を揺るがした。
国家というものは外敵には強いが、内部からの混乱には弱い。
三国も例外ではなかった。
そのため当時の指導者たちは、一時的に対立を棚上げする決断を下す。期限付きの軍事同盟。
つまり、互いに争う余裕がないから協力する、という極めて現実的な政治判断であった。
その後、鐘譜護戦争が始まる。
ベルト公国にとって、これは存亡を賭けた戦争であった。
そのため政府は外交力を総動員し、ゴイコ民国とジレ多民族国との同盟期間を延長させることに成功する。
もっとも、その外交の実態は極めて単純であったといわれる。金である。
歴史の表舞台では「外交努力」と呼ばれるが、裏側では金が積まれていた。
これは古今東西、国家が使うもっとも確実な説得手段の一つである。
しかし。それもついに限界に達した。
同盟期限が切れると同時に、両国は態度を翻したのである。
この時、ベルト公国軍の参謀本部では激しい議論が行われていた。
地図が広げられ、国境線に赤い印がつけられる。
「予想より早い」
参謀の一人が低く言った。
「いや、むしろ遅いくらいだ」
別の参謀が答える。
「鐘譜護戦争で公国は消耗している。今が攻め時だと考えるのは当然だ」
戦争とは、弱った国家を狙って起こる。
それは自然の摂理に近い。
その頃、小糸もまたこの報告を受けていた。
軍司令部の一室で、彼は資料を静かに読んでいる。
まず目を引いたのは、ゴイコ民国の国力であった。
総人口1億。
この世界において、これは巨大国家と呼んで差し支えない規模である。
国家元首はアルベルト・キース総統。
年齢68。
そして、異世界転生者。
小糸はその文字を見て、わずかに眉を動かした。
この世界には、時折そういう人間が存在する。
自分も同じ別の世界から来た記憶を持つ者。
そして彼らの多くは、何らかの特殊な魔法を扱うといわれている。
アルベルト・キースの魔法は「雨雲」。
半径20kmの範囲に、一定期間雨を降らせることができるという。
一見すると戦争とは無関係な能力に見える。
しかし国家運営という視点で見れば、その意味は極めて大きい。
雨は農業を支配する。
農業を支配する者は、食料を支配する。
そして食料を支配する国家は、長期戦を制する。
この能力によって、ゴイコ民国は安定した農業生産を確保しているといわれていた。
小糸は資料を閉じ、静かに呟いた。
「厄介な相手だな」
そのとき、背後に立っていたガトー中尉が言う。
「もう一国は、さらに未知数です」
ジレ多民族国。
この国は統一国家というより、巨大な部族連合に近い政治体制を持っていた。
国内では4つの大部族が大きな権力を握っている。
フルロク族。
ガミラ族。
ミロー族。
スデ族。
それぞれの部族長が軍と政治の実権を持つ、いわば合議国家であった。
さらに奇妙な伝承がある。
部族長には特別な魔法を持つ者が就任するという。
そして5年前。この国はホムライ大陸の強国であるデュランダ議国と軍事同盟を結んでいる。
つまり、外部の技術が流入している可能性がある。
小糸はその報告を読み終え、窓の外を見た。
冬の空が広がっている。戦争から半年。
人々はようやく平和に慣れ始めていた。
しかし歴史というものは、残酷なほど規則的である。
平和が訪れれば、次の戦争が準備される。
それは文明という巨大な歯車の回転に似ている。
一度動き始めれば、誰にも止められない。
小糸は静かに言った。
「……また戦争か…」
それは、鐘檎慈戦争の開幕であった。




