胎動
高校生の頃に書いていた小説を供養のために載せております。
硝煙の匂いが世界を覆う時代というものがある。
後世の歴史家はそれを「戦争の時代」と簡単に呼ぶが、当時を生きた人間にとっては、ただの「日常」であったに違いない。
文明が機械の力によって急速に武装し、国家が兵器をもって互いに睨み合う時代。
そして、かつて神秘と呼ばれた魔法が、徐々に軍事の主役から退きつつある時代。
それが、この物語の舞台となる世界である。
だが、その巨大な歴史の歯車が回りはじめる瞬間は、案外、取るに足らぬ朝から始まるものだ。
この日、小糸の人生もまた、そのような朝から動き始めた。
小糸がその朝を嫌っていた理由は、「酷く朝が嫌に思えた日だった」とだけという。
並木道を歩いていた。
何の木かは知らない。小糸自身も知らなかった。若者というものは往々にして、毎日見ている風景の名前を知らぬものである。
市バスが17分に一度走る道路。
車の往来は多い。
都市近郊の高校へ通う生徒にとって、それは特別でも何でもない、ただの通学路だった。
3千円で買ったイヤホンを耳に入れ、歩く。
高校まで15分。
その15分という時間は、小糸にとって特別なものではなかった。
楽しいわけでもない。苦しいわけでもない。
ただ過ぎていく。
この年頃の少年にありがちなことだが、小糸はまだ「人生」を強く意識する段階には達していなかった。
自分が何者なのか。将来何をするのか。
そのような問いは、まだ霧の中にあった。
ただ一つだけ言えることがある。
彼はこの平凡な日常を嫌ってはいなかった。
むしろ、
「このままでいい」
そう思っていたに違いない。
人間という生き物は奇妙なもので、幸福を失うことを恐れるあまり、幸福そのものを深く考えないことがある。
小糸の人生は、まさにそのような状態であった。
だが歴史というものは、しばしばそのような平凡な人間を、突然、巨大な舞台へ引きずり出す。
この日が、そうであった。
その時、小糸は友人のカイトと歩いていた。
「明日から始まるらしいぞ」
カイトが言った。
ソーシャルゲーム
「ヴァンティル・ドン・ヨハンナ」。
略してヴァンティナ。
若者の世界では、そのような娯楽が小さな戦争のように語られる。
どのキャラクターが強いか。
どのガチャが当たりか。
それは国家戦略とは程遠いが、若者にとっては立派な戦略議論であった。
「絶対、最初の限定キャラは強いって」
「いやいや、どうせ後で上位互換出るだろ」
そんな話をしながら歩いていた。
ただ、それだけであった。
歴史とは往々にして、こうした取るに足らぬ会話の最中に方向を変える。
突然、世界が黒くなった。
それは闇というより、黒そのものだった。
視界が奪われる。思考が止まる。
脳という器官は、理解できない事態に直面すると、まず機能を停止するらしい。
小糸の意識も、その例外ではなかった。
そして次の瞬間、世界が開いた。
目の前には、カイトがいた。
だが、それ以外の景色は、まったく見覚えがない。
それは地球のどこにも存在しないような風景だった。
少なくとも、小糸の知識には存在しない。
声が出ない。
人間は、恐怖の極致に達すると沈黙する。
目の前には数人の人間が立っていた。
長いローブ。杖。
まるでゲームの魔法使いのような格好である。
彼らは知らない言語で何かを話していた。
魔法使いの背後には、一人の女性が立っている。
金色の髪。
整った顔立ち。
ゲームで言えば、王女か姫の役を与えられそうな女性だった。
そして、
その両側と背後には、兵士がいた。
6人ほど。
彼らはライフルを持っていた。
小糸はその武器を知っていた。
戦争ゲームで何度も見ている。
だが、実物を見るのは初めてだった。
兵士の目は、完全に警戒していた。
戦場で敵を見た兵士の目である。
小糸の口から出た言葉は、ただ一つだった。
「え?」
それだけだった。
それ以外の言葉を発する余裕は、彼の脳には存在しなかった。
理解できない。ただ一つ確かなことがある。
これは現実だ。理由はない。
だが人間は、自分の目で見たものを、簡単には幻想だと思えない。
それが現実というものだ。
次の瞬間。衝撃が走った。右手と背中。
小糸は膝をついた。気づかなかった。
背後にも兵士がいたのだ。数人。
彼らは訓練された動きで小糸を拘束した。
カイトも同じように押さえつけられている。
「痛い!やめてくださいよ!」
カイトが叫んだ。小糸も思わず声を上げた。
だが兵士たちは、何かを言い返してくる。
もちろん理解できない。言語が違う。
俗にいう、水掛け論である。
約12秒。
短いようで長い時間だった。
その時、金髪の女性が何かを言った。
兵士たちが動く。小糸の手に手錠がかけられた。
さらに奥の兵士が1冊の本を持ってきた。
小糸の目の前で開く。
1ページ目。
国旗。見覚えがある。
ドイツか。デンマークか。
小糸は地理に詳しくない。
だが、彼は直感で理解した。国籍を聞いている。
小糸は首を横に振った。
ページがめくられる。次々と。
20ページほど過ぎたとき、
日の丸が現れた。
小糸は大きくうなずいた。
兵士たちがざわめく。
奥から一人の男が現れた。
整った服装。役人のような男。
そして、彼は言った。
「ナマエハ?」
その瞬間、小糸は感動した。
知っている言語だった。
「浅倉小糸」
小糸はすぐ答えた。後ろでカイトが言う。
「倉川海渡」
男は続けた。
「シュシインハ?」
数秒。意味が分からない。だがすぐ理解した。
出身。
小糸はなぜか英語で答えた。
「ジャパン。さいたま」
カイトも頷く。いくつかの質問が続いた。
その後、二人の頭に布が被せられそして連行された。
体感で三時間。
様々な場所を移動した。
検査を受けているらしい。
左手の甲が痛む。何かをされた。
検査ご別室に連れて行かれ柱に縛られた。
カイトは泣いていた。それも無理はない。
高校生にとって、この状況は戦場と同じだ。
極限のストレスである。
小糸の思考も、徐々に停止していた。
考えることは、
家に帰りたい。親に会いたい。空腹。
それだけだった。
だが小糸は、必死に頭を回した。
状況を整理する。
三つの可能性。
第一。
ドッキリ。だがそれはあり得ない。
ただの高校生にそんな企画をする理由がない。
第二。
外国の工作員による拉致。
言語が違う。装備も異様。
だがこれも違う。
あの暗闇が説明できない。
第三。
異世界転生。おとぎ話。
だが現状、それが最も説明がつく。
しかし問題がある。
国旗。日本語。
地球の文化資料が存在するのはおかしい。
都合が良すぎる。小糸は思った。
わからない。それだけだった。
それからまた半日ほど後、一人の男が現れた。
顎に髭。威厳のある顔。
小糸には、学年主任の元吉を少し偉くしたように見えた。
男は兵士に命令した。二人は再び連行された。
階段を上がる。部屋に入る。
そこには数人の男が座っていた。
軍服に勲章。軍人だ。
小糸とカイトは椅子に座らされた。
一人の男が前に出る。
長い髪を後ろで束ねた、整った顔のアジア系の男だった。
彼は日本語で言った。
ゆっくりと。
「これより質問を何点かする。再度同じ質問をするが、質問以外の回答は不可とする」
小糸は思った。
なんだ、日本語を話せる人間がいるじゃないか。
男が言う。
「名前と年齢は?」
「浅倉小糸。17歳」
「出身は?」
「日本。さいたま」
「西暦は?」
「2014年」
質問は続いた。そして、男は言った。
「なぜここにいるか理解しているか?」
小糸の血が上った。理解できるわけがない。
「理解しているわけがないだろう!」
小糸は叫んだ。
「気がついたらここにいて、縛られて、質問されてるんだ!」
部屋が静まり返った。数秒。
男は言った。
「それについては、」
少し申し訳なさそうに。
「大変申し訳ない」
そして続けた。
「これから説明させてもらうよ。」




