第9話 雛鳥達の初陣(3)
思考するより先に、エリアナが叫んだ。
「負傷者の手当を!フィオナ、最優先だ!」
だが、その声が耳に届く前に、フィオナの体は既に動いていた。血を流す男性の元へ駆け寄り、その傷口を確かめる。
「追うぞ!」
セリスが野次馬の指さす方へ駆け出そうとするのを、エリアナが腕を掴んで制止した。
「待て!」
エリアナは周囲を観察し、頭脳を高速回転させる。――逃走方向は貧民街、狭い路地裏が無数に走り、闇雲な追跡は不可能。だが、すぐ近くに物見台。リナの魔力感知を併用すれば、あるいは……!
思考は、即座に命令へと変換される。
「セリス、しばし待機!犯人の逃走経路の特定を優先! リナ!私と一緒にあの物見台へ!身体強化全開、急げ!」
「了解!」
エリアナ、リナは猫のような俊敏さで、瞬く間に物見台に登る。
「リナ、魔力感知で犯人の行方を追ってくれ。出来るか?」
「やってみる!」
リナは目を閉じ、精神を集中させる。犯人が逃げた方向へ、広域の魔力感知の網を広げた。犯人が走り抜けた道筋では、戸惑い、恐怖した通行人たちのマナが僅かに揺らいでいる。その残滓を、リナは糸を手繰るように追跡していく。
「……見えた! 犯人は、大通りのパン屋の横の路地裏に入った!それから、二つ目の角を右に!……待って、反対側からも誰かが来る!」
その報告を聞きながら、エリアナは脳内に叩き込んだ王都の地図を展開する。リナの言葉と、自らが生まれ育った貧民街の土地勘が、一本の線を結んだ。
「セリス!」
エリアナは物見台から叫ぶ。
「犯人は貧民街の西地区へ向かった!赤い煉瓦作りの大きな建物に、地下へ続く階段がある!その下にゴロツキどもの溜まり場がある!恐らくそこが犯人たちの行き先だ!そこへ向かってくれ!急げ!」
その声を聞き終える前に、セリスは猟犬のような俊敏さで駆け出していた。エリアナとリナもまた、すぐさま物見台から飛び降り、その後を追う。
一方、フィオナは負傷した主人に集中していた。
――右の二の腕に深い裂傷。出血が酷い。きっと太い血管が傷ついている。早く止血しないと、命に関わる! 腕をきつく縛れるものは……そうだ!
「――失礼します!」
フィオナは、自らの長剣を腰に繋ぎ止めていた革ベルトを瞬時に引き抜き、男性の二の腕の、肩に近い付け根を、力一杯に縛り上げた。血管が圧迫され、どくどくと溢れていた出血が、次第に勢いを失っていく。 次に、傷口を検める。切れ味の悪い汚れた刃物で抉られたのだろう、不規則に裂けた肉が覗き、土埃で汚れている。このままでは感染症を起こす。 フィオナは、そばで泣き崩れていた主人の奥方と思われる婦人に叫んだ。
「奥様!ご主人の傷を消毒します!綺麗な水と、清潔な布を数枚!それと、何か消毒できるもの……強い火酒などはありませんか!」
「は、はい!すぐに!」
婦人がすぐに水瓶と手拭い、そして主人が晩酌に嗜んでいたであろう火酒の瓶を持ってきた。フィオナは手早く水で傷口の汚れを洗い流し、手拭いで拭き清める。そして、火酒の瓶を手に取った。
「少し、染みます……!失礼します!」
躊躇なく、火酒を傷口に振りかける。アルコールが裂けた肉に浸透し、焼け付くような激痛に主人が呻き声を上げた。傷口の状態を確認し、新しい手拭いで強く圧迫するように巻き終える。
「……今、出来る限りのことはしました。後は、お医者様に診て頂かないと。血を多く失っているので、出来るだけ安静に。できればお医者様にここへ来ていただいて……難しければ、私たちが担架で病院へ運びます。」
そこまで一息に告げると、フィオナの張り詰めていた緊張の糸が、ほんの少しだけ緩んだ。
セリス、エリアナ、リナの三人は、マナによる身体強化を全開にし、銀色の幻影を残しながら貧民街を駆け抜けていた。そして、エリアナの予測通り、赤い煉瓦の建物の地下へと続く階段の前で、犯人一味を発見する。
他の二人より数十秒早く現場に到達したセリスが、獲物を前にした獣のように低い声で言い放った。
「そこまでだ。大人しくしろ」
男たちの手には、血に濡れた錆びたカットラス。物的証拠も確認した。
セリスを、新米騎士がたった一人と侮ったのだろう。四人のゴロツキどもは、下卑た笑みを浮かべ、一斉に襲いかかった。
ーーー数十秒後、エリアナとリナが現場に到着した時には、全てが終わっていた。 四人の男たちが、無様に折り重なって地面に伸びている。セリスは、剣を抜くことなく、その中心に静かに立っていた。
「フン。手加減するのに苦労した」
その横顔には、汗一つ浮かんでいなかった。
こうして、王都を騒がせた白昼の強盗事件は、四人の騎士候補生たちの手によって、鮮やかに解決された。 その活躍は瞬く間に市街に広まり、市民たちは口々に騎士団を、そして四人の少女たちを称えた。「私たちをお守りくださる、若き騎士様たちだ」と。
しかし、その賞賛とは裏腹に、四人は極度の緊張から著しく消耗していた。 養成所へと帰り着き、重い鎧を脱ぎ捨てると、鎧下の稽古着は滝のような汗でびしょ濡れになっていた。それは、日々の鍛錬で流す熱い汗ではない。命のやり取りをすぐ間近で感じたことからくる、じっとりとした冷や汗だった。食堂へ向かっても食事は喉を通らず、風呂で汗を流すことすら億劫に感じるほど、心身は鉛のように重かった。
その日の夜、四人は養成所の応接室に呼び出された。そこで、昼間の演習の引率教官から、今回の事件の顛末について正式な報告を受けた。
負傷した店の主人は、命に別状はなく、後遺症も残らない見込みであること。しかし、もしフィオナの迅速で適切な処置がなければ、出血多量により命はなかったかもしれない、と医師が語っていたこと。
捕らえた犯人一味は、貧民街を根城にする常習の盗賊団であり、今回の検挙によって、王都の治安はさらに改善される見込みであること。
報告を終えた教官は、いつもの厳しい表情をわずかに緩め、四人の労をねぎらった。
「フィオナ。貴様の迅速で的確な応急処置、特に医療品が十分にない中での機転が、市民の命を救った。見事だった」
「リナ。貴様の驚異的な魔力感知能力がなければ、犯人を路地裏で見失い、捕らえることはできなかっただろう」
「セリス。激情に駆られて無闇に剣を抜かず、犯人一味を無傷で制圧した判断は、賞賛に値する。盗賊団の全容解明に向けた、貴重な情報を得ることができた。」
そして最後に、教官はエリアナを真っ直ぐに見据えた。
「エリアナ。混沌とした現場の状況を即座に分析し、貴様ら四人で遂行可能な、最適な作戦を瞬時に立てた指揮能力。歴戦の騎士であっても、あの状況下で貴様の様な判断を下すのは難しい。……素晴らしい働きだった」
それは、教官からのこれ以上ない賛辞だった。
「明日の午前は、特別に休暇とする。ゆっくり休め」
その言葉を残し、教官は部屋を出ていった。
寄宿舎へと戻る道すがら、四人は無言だった。ただ、共有した緊張と、教官からの労いの言葉が、静かに彼女たちの心を温めていた。 部屋に戻ると、フィオナがおずおずと四人の前に、一つの真っ赤なリンゴを差し出した。
「これは……?」
エリアナが尋ねる。
「あの……お店の奥様が、私は命の恩人だと……。お礼に、と籠いっぱいのリンゴを渡そうとしてくださったんです。でも、私たちは清貧の誓いを立てた身ですし、そんな過分な施しはいただけない、と固辞したのですが……どうしても、と。これ一つだけなら、と無理やり……」
フィオナは、少し照れくさそうに言った。
「今日の労をねぎらって……四人で切り分けて、食べませんか?」
フィオナがナイフで丁寧に四等分したリンゴを、四人はそれぞれ手に取って、静かにかじった。 しゃり、という小気味良い音と共に、甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がる。その瑞々しい甘さは、一日中彼女たちを苛んでいた緊張と疲労を、すうっと溶かしていくようだった。
これは、ただの果物ではない。自分たちが守った市民からの、感謝の気持ちそのものだ。 弱き者を守る。その誓いの第一歩を、自分たちの力で確かに踏み出せた。 リンゴの味は、その実感と共に、四人の心に深く、深く刻み込まれた。