第3話 雛鳥達の奮闘(1)
騎士候補生となり、養成所で過ごす一年目。その日々は、息つく暇もないほどに規律と鍛錬で塗り固められていた。
夜明け前の静寂は、無慈悲な鐘の音によって毎朝引き裂かれる。その鋭い響きが、フィオナを浅い眠りから現実へと引き戻すのだ。
「ん……もう朝……?」
隣のベッドから、寝ぼけ眼をこすりながら身を起こすのは、奇遇にも入所試験の面接で同じ組だったリナだった。彼女はフィオナのルームメイトとなった。
「おはよ、フィオナ。今日も一日、頑張ろ……」
その屈託のない笑顔に、フィオナはどれだけ救われたことだろう。
二人は寝台から飛び降りて稽古着に着替える。磨かれた木の床が、素足にひんやりと冷たい。部屋に漂うのは、石鹸のかすかな香りと、リナが故郷から持ってきたというハーブの束が放つ微かな清涼感。それを嗅ぐと、フィオナはほんの少しだけ心が安らいだ。
支度を終えた候補生たちは、朝食の前に広場へ集められ、基礎体力の養成に明け暮れる。日が昇る前の薄闇の中、数百人の少女たちが一糸乱れぬ動きで駆け、木剣による素振りを何千回と繰り返す。地味で、苦しいだけの時間。吐く息は白く、心臓は張り裂けそうで、手足の筋肉は悲鳴を上げる。だが、ここで自分を律することができなければ、騎士にはなれない。
「そこの1年生!それで限界か!!そんな様では、実戦に出れば真っ先にオークの餌食だ!」
教官の怒号が飛ぶ。フィオナは歯を食いしばり、仲間たちの荒い呼吸と、教官の鋭い号令だけを意識して体を動かし続けた。
訓練が終わると、寄宿舎に戻って制服に着替え、食堂へと向かう。厨房から漂う焼きたての黒パンの香りと、大鍋で煮込まれる麦粥の湯気が、空っぽの胃を刺激した。質実剛健で味気ない食事が大半だったが、体を動かした後のそれは何よりのご馳走だった。
午前中は大講堂での座学。古い羊皮紙とインクの匂いが満ちる中で、この騎士団が体系立ててきた「魔力」を運用する戦闘理論を頭に叩き込む。
その基本は、限りあるマナを3つの用途に絞り込み、活用することだった。魔力による身体強化「マナ・エンハンス」、武具の強度増強「マナ・エンチャント」。そして、敵味方の位置を、その魔力を感知することで把握する「マナ・サーチ」。
この3つを駆使し、汎用性の高い長剣と丸盾で近接戦闘を仕掛ける。それが、オーク、ゴブリンといった人外との戦いの中でこの騎士団が編み出した、最も合理的な結論だった。
昼食を挟み、午後は魔力操作の基礎訓練。自らの内にある微かなマナに意識を集中させ、それを体外に表出させる。その訓練は、フィオナに肉体の疲労とは質の違う精神の消耗を強いた。一方、リナは早くもその身に宿る魔力操作の資質を開花させていた。目を閉じて意識を集中させると、彼女の体は溢れ出るマナの粒子で、鈍く銀色に発光した。それは、かつてフィオナが銀桂の騎士に救われた際に見た銀色の光と同じであった。
一日の終わりには、再び稽古着を身に纏い、武芸館での対人稽古が待っていた。汗と土埃、そして少女たちの熱気が充満する館内に、木剣の打ち合う乾いた音と、腹の底から絞り出す気合いが絶え間なく反響する。 フィオナは、ここで何度も、自分の才能の無さを思い知らされた。
「――そこだッ!」
セリスの木剣が、嵐のような速さで迫る。フィオナはそれを必死に受け止めるが、一撃の重さに腕が痺れ、体勢が崩れる。セリスの動きには一切の無駄がない。天賦の才と、幼い頃からの鍛錬に裏打ちされた、完成された剣。フィオナが十の努力でようやく一歩進むところを、彼女は軽々と駆け上がっていく。
それでも、フィオナは倒されても、打ちのめされても、何度も立ち上がった。勝てはしない。だが、食らいつくことはできる。受けきれず、弾かれ、それでも諦めずに剣を構え直す。その驚異的な粘りは、やがて絶対的な強者であるはずのセリスの額に、疲労の汗を浮かばせるのだった。
座学の討論では、エリアナの鋭さに何度も舌を巻いた。与えられた戦術的課題に対し、彼女は冷徹なまでの論理で最適解を導き出す。その理路整然とした意見の前では、誰もが反論の言葉を失った。しかし、フィオナはエリアナの言葉に耳を澄ますうち、ふと気づくことがあった。彼女の論理には、時として「現場の騎士の疲労」や「民衆の恐怖心」といった、数字では測れない要素が抜け落ちているのではないか。 ある日の討論で、フィオナは勇気を振り絞って手を挙げた。
「……エリアナの言う通りにするのが、最も効率的だと思います。でも、その作戦だと、騎士たちは三日も眠れなくなってしまいます。もしかしたら、村人に一日だけ協力を頼んで、その間に部隊を休ませた方が、最終的な成功率は上がるんじゃないでしょうか……」
気圧されながらも紡いだ言葉に、エリアナは一瞬、鋭い視線をフィオナに向けた。だが、やがて小さく頷き、
「……その視点はなかった。検討の価値がある。」
と呟いた。フィオナの努力が、確かに実を結び始めている証だった。
稽古で付いた汗と泥は、共同浴場で洗い流す。湯気が立ち込める中では、厳しい訓練の緊張も少しだけ和らぎ、皆が年相応の少女に戻った。リナと湯をかけ合ったり、同期の背中にある痣を見つけては、お互いの健闘を称え合ったりした。
夕食後のわずかな自由時間を経て、消灯の鐘が鳴る。リナが隣ですうすうと寝息を立て始めると、フィオナはこっそりとマットレスの下から、小さな包みを取り出した。それは、唯一持ち込むことを許された、母の形見。故郷の川で母と遊んだ際に拾った、手のひらに馴染む、丸い石だった。
それを固く握りしめる。石の滑らかな感触が、母の優しさを思い出させた。父の力強さを、故郷の匂いを、そして、それを奪った炎と、自分を救った光を。
(……私は、負けない。)
決意を新たに、フィオナは目を閉じる。明日もまた、過酷な一日が始まる。それでも、この場所で、一歩ずつでも前に進むのだ。母の形見を握りしめたまま、彼女は深い眠りへと落ちていった。
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