第1話 奪われし日、与えられし光
フィオナの記憶の最初にあるのは、風に揺れる黄金の海と、土の匂いだった。
王都から遠く離れた辺境の農村、ウェスターリー村。それが彼女の故郷だった。緩やかな丘陵がどこまでも続き、春には芽吹いたばかりの若草が風にそよぎ、夏には空の青を映す小川のせせらぎが響き、秋にはすべての丘が収穫を待つ麦で黄金色に染まる。フィオナの世界は、その穏やかな光と、満ち足りた匂いで満たされていた。
朝、目を覚ますと、厨房から母がパンを焼く香ばしい匂いが漂ってくる。少し硬いが噛むほどに味の出る黒パンと、庭で採れた野菜のスープ。食卓につけば、大きな手の父が、フィオナの頭を無言で優しく撫でるのが常だった。日中は、畑仕事を手伝い、土にまみれて遊んだ。夕暮れ時、丘の上に立つと、家々の煙突から昇る煙が夕日に溶けていくのが見えた。それが、フィオナにとっての永遠に続くはずだった日常の風景。愛されているという、疑いようのない実感。その温もりだけが、彼女の世界のすべてだった。
そのすべてが、たった一夜で灰燼に帰した。
始まりは、家畜の異常な鳴き声と、遠い地響きだった。夜の静寂を切り裂いて、聞いたこともない咆哮が響き渡る。父が顔色を変えて斧を掴み、母はフィオナを抱きしめて納屋の干し草の影に隠した。
「いいかい、フィオナ……何があっても、声を出してはだめだよ……!」
母の声は震えていた。木の壁の隙間から見えたのは、地獄だった。緑色の分厚い皮膚、豚のような鼻、そして濁った眼に獣の飢えをたたえた異形の群れ――オーク。彼らの手にする棍棒が、見慣れた隣人の家を打ち壊し、畑を踏み荒らし、そして、人の命を虫けらのように奪っていく。悲鳴と、建物の崩れる轟音、そして肉を裂く鈍い音。煙の匂いが、干し草の香りを塗りつぶしていく。
やがて、納屋の扉が蹴破られた。父は雄叫びを上げて立ち向かったが、その体は棍棒の一撃で、まるで人形のように軽々と吹き飛ばされた。母はフィオナを庇うように覆いかぶさり、その背中が震えるのを感じたのが最後だった。最後に握った母の手の温もりが、急速に失われていく。
フィオナは声も出せず、ただ、干し草の隙間から自分に迫るオークの濁った目を見つめていた。その手が伸びてきた、その瞬間、
銀色の一閃。
オークの太い腕が宙を舞い、緑色の血をまき散らしながら絶叫が上がる。何が起きたのか、フィオナには理解できなかった。そこに立っていたのは、静かに輝く銀の鎧。オークの醜悪さとはあまりにも対照的な、静謐で、神々しいまでの姿だった。
まるで舞うように剣を振るう。その動きに一切の無駄はなく、一振りごとにオークが絶叫を上げて倒れていく。それは恐怖の光景であるはずなのに、あまりの美しさに、フィオナは目の前の奇跡を瞬きもせず見つめていた。
やがて、静寂が戻った。その者は、ゆっくりとフィオナに近づき、血に汚れた兜を外す。現れたのは、汗と土にまみれた、凛とした顔立ちの女性だった。その瞳には、戦いの後の激しさはなく、ただ深く、静かな悲しみと、そしてフィオナに向けられた憐れみの色が浮かんでいた。
「……もう大丈夫よ。よく、頑張ったね」
その声を聞いて、張り詰めていた糸が切れ、フィオナは意識を失った。
フィオナは、王都へ戻るというその女性に連れられ、多くの時間を馬上で過ごした。両親を目の前で殺されたショックで心を閉ざし、言葉を失っていたフィオナ。その女性は、無理に話しかけることはせず、ただ静かに寄り添った。冷えた身体を分厚い毛布で包み、硬い乾パンを自らのスープでふやかして、一口ずつ匙で口元へ運ぶ。その手は、剣を握るタコで硬かったが、フィオナに触れる指先は驚くほど優しかった。
焚き火の爆ぜる音と、彼女の着込んだ鎧が放つ革と油の匂い。そして時折、フィオナの髪をそっと撫でる温かい感触だけが、凍てついた彼女の世界に届く唯一の温もりだった。
五日ほどの旅路を経て王都が近づいてくると、城壁の上にたなびいている国旗が見えてきた。月桂樹の葉をモチーフとした、王家の紋章。フィオナは気づいた。共に馬に乗る女性が着込んでいる銀色の鎧にも、同じ紋章が刻まれていたのだ。
王都に着いた二人は、ある場所へ向かった。その女性が所属する騎士団の紹介で、フィオナはそこで暮らすことになったのだという。賑やかな市街地の一角にある、古びた孤児院だった。 別れの時、彼女はフィオナの前に膝をつき、視線を合わせた。
「強く、生きなさい。あなたの命は、繋がれたのだから」
そう言って、一度だけフィオナの頭を撫でると、何も言わずに背を向けて去っていった。その銀色の後ろ姿が雑踏に消えるのを、フィオナはただ黙って見送ることしかできなかった。
孤児院での日々は、裕福ではなかったが、暖かかった。皺の多い優しい寮母と、同じように拠り所のない子供たち。最初は誰とも口を利かなかったフィオナも、他愛ない喧嘩や、食事の時間の賑やかさ、壁越しに聞こえる寝息の中で、少しずつ凍てついた心に血が通っていくのを感じた。
その孤児院の屋根裏部屋の窓からは、丘の上がよく見えた。そこには、白亜の壁と尖塔を持つ、城のような建物が建っていた。朝日に輝き、夕日にシルエットを浮かび上がらせるその場所が、彼女を救った女騎士が所属する「銀桂騎士団」の養成所だと知ったのは、少し経ってからだ。
フィオナは毎日、その建物を眺めた。それは、絶望の淵から自分を救い出してくれた、あの騎士の象徴だった。銀色に輝く、気高く、強く、そして優しい光。
いつしか、フィオナの心にひとつの想いが芽生えていた。かつて全てを失い、ただ守られるだけの存在だった自分。
守られる者から、守る者になりたい。
あの騎士のように、絶望の中で、一筋の光となれるような。無力な者の前に立ち、その盾となれるような、そんな人になりたい。
丘の上の養成所は、もはや手の届かない憧れの場所ではなかった。それは、彼女がこれから進むべき道を示す、道標そのものだった。 フィオナは、唇を固く結び、丘の上をまっすぐに見据えた。 私は、あの場所へ行く。 彼女の魂が、静かに、しかし確かな意志を持って、そう告げていた。
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