第9話 笑わない伯爵令嬢(2)
「オーロラ嬢。遅刻ですよ」
「先生、申し訳ございません」
教室に入ると、オーロラはさっそく教師の指摘を受けた。
即座に謝罪し、オーロラは頭を下げた。
「まあ、あなたが忙しいのは存じていますが、今後気をつけるように」
「はい、先生」
オーロラは教室の一番後ろの席に向かう。
王宮での王子妃教育のため、途中退室の多いオーロラは、教師からその席を指定されていたのだ。
一方、同い年のアレックスもまた、同じクラスだった。
アレックスは教室の最前列に席を与えられている。
彼の隣に座るのは、グランヴィル筆頭公爵家令嬢のカリナ。
由緒正しい公爵家の令嬢であるカリナは、順当に行けば、アレックスの婚約者になったであろう令嬢だ。
カリナは学園に入学以来ずっと、アレックスの隣の席を教師から与えられてきた。
カリナはアレックスの姉のコレット王女とも幼なじみで親しくしている。
波打つ金髪にうす茶色の瞳。
学園の玄関でオーロラを無視したカリナはしかし、オーロラを見上げると、かすかに微笑んだ。
オーロラも軽く会釈をして通り過ぎる。
このクラスには、侯爵令嬢のセイディもいた。
セイディは前から二列目の席で、どこか心配げにオーロラを見つめていた。
「さあ、皆さん、授業を始めますよ」
教師が教卓を軽く叩き、授業が始まった。
***
午前中の授業が終わると、生徒達は立ち上がり、食堂へと移動を開始する。
しかし、オーロラにとっては、学園の授業はここで終わり。
荷物をまとめて、王宮での王子妃教育に向かわなければいけない。
移動する生徒達でざわめく教室の中、オーロラは本を抱えて立ち上がった。
アレックスに挨拶を、と近づくと、アレックスがちょうどカリナに話しかけているところだった。
「カリナ嬢、よかったら、この後一緒に、外へ食事に行きませんか? 街で人気のカフェを予約してあるのです」
「まあ、王子殿下。でも……午後の授業は?」
「一時間ほど遅れるかもしれませんが、それくらいなら大丈夫でしょう。滅多に予約が取れない人気店です。ぜひ、ご一緒しましょう」
そう言われて王子に手を差し出されれば、カリナも断ることはできない。
カリナは本をまとめて机に入れると、アレックスの手を取って立ち上がった。
「あ」
カリナがオーロラに気づいて振り返る。
アレックスもオーロラを見た。
「なんだ」
アレックスの顔から、笑顔が消えた。
「……おまえか、オーロラ。 何か言いたいことがあるのか? 私はカリナ嬢を連れて食事に行く。おまえが文句を言える筋合いではない」
オーロラは静かに言った。
「わたくしはただ。これから王宮に伺いますので、午後の授業は休みます。その前にご挨拶をと」
アレックスは大げさにため息をついた。
「そんなのはいつものことだろう。勝手に行けばいい」
生徒達はほとんどが食堂へと向かっており、教室の中は静かだった。
まだ残っているのは、アレックスとカリナ、オーロラ。
そして窓際の席で荷物をまとめているセイディだけだ。
「私に関わらないでくれ!」
アレックスの声が、妙に大きく響いた。
カリナの視線が心配そうにアレックスとオーロラの間を動く。
オーロラはカーテシーをした。
「承知いたしました。それでは、仰せのとおりに。次からはご挨拶は省略させていただきます」
そう言うと、オーロラはさっと教室を出た。
「オーロラ!!」
アレックスのいらだたしげな声が聞こえたが、オーロラはもう、足を止めることはなかった。
廊下を足早に通り過ぎようとすると、教室の前で立っていた金髪の少女達がささやき合う。
「オーロラ嬢ったら。王子殿下に誘われなかったからって、あの態度」
「婚約者とはいえ、さすがに不敬ではありませんこと?」
「それに比べて。カリナ様は王子殿下とよくお似合いだわ」
「見てごらんなさいよ。『笑わない伯爵令嬢』のあの顔。絶望的ね。『真実の愛』はどこにあるの!? っていう顔をしている」
オーロラの足が止まった。
(……『真実の愛』?)
オーロラの視線が、教室の前に立っている二人の少女に留まった。
一人は金髪に青い瞳をした、大柄な令嬢。
もう一人は同じく金髪にグレーの瞳をした、青白い顔色の令嬢だ。
(大柄な方はカリフ侯爵家のイベット嬢ね。グレーの瞳の方は、クルーガー公爵家のソニア嬢)
「な、何よ!? 何か文句でもあるというの?」
まさかオーロラが足を止めると思わなかったのか、イベットが焦ったように声を上げた。
「王子殿下に気に入られたから、婚約者になったとでも思っているの?」
ソニアもイベットの加勢に入る。
「わ、『笑わない伯爵令嬢』が婚約者の地位にあること自体が、おかしなことなのよ」
「そうよ! もともと、筆頭公爵家のカリナ様こそ、アレックス殿下にふさわしいお方だったわ!」
二人の令嬢達は声高に言い募りながらも、そろそろと廊下を移動していく。
正面きってオーロラと対峙しようとは思わないらしい。
少女達の声がだんだん遠ざかると、オーロラはほっとした。
(あなた達に『真実の愛』の何がわかるというの? わたくしと愛のない結婚をしたら、その男性は呪い殺されるというのに? 『真実の愛』だけが、呪いを破ってくれるのよ? そんなわたくしが『真実の愛』を求めても、まったくおかしくないでしょう?)
———そう反論できたら、どんなにいいだろう。
しかし、オーロラは頭を振ると、食堂へと向かう人波から離れ、一人逆方向へと向かう。
正面玄関には、すでに王宮へ行く馬車がオーロラを待っていた。
「フォレスティ伯爵令嬢、お待ちしておりました」
護衛騎士が到着していた。
丁寧な物腰で迎えられ、オーロラは馬車に乗り込む。
王宮からの迎えの馬車は、馬に乗った護衛騎士二人を従えて、まっすぐ王宮へと走り出した。
オーロラは座席に深く腰かけると、窓を避けるように、壁に頭を持たせかけた。
「大丈夫、大丈夫。わたくしは気にしてなんか、いない」
オーロラはそっとつぶやく。
「『笑わない伯爵令嬢』か……。本当は、『呪われた伯爵令嬢』だって知ったら、あの子達は何て言うだろう———」
慣れているはずなのに。
こんなこと、気にする必要はないのに。
なぜか、オーロラの目から涙がこぼれ落ちた。
「わかっているわ。アレックス殿下がわたくしの『真実の愛』でないことくらい。だからこそ、こんなに苦労しているんじゃない……! アレックス殿下を殺してしまわないように!」
誰も、オーロラの本当の秘密を知らないのだ。
この秘密を知っているのは、オーロラとミレイユ王妃だけ。
そして王妃は、オーロラがこの秘密を誰にもしゃべらないことを知っている。
オーロラを助けてくれる人は誰もいないのだ。
優しい父も、本当のことを知らない。
『アストリッド・フォレスティの娘、オーロラ・フォレスティよ。おまえに「真実の愛」の呪いを与える。おまえが「真実の愛」以外で結ばれた時、呪われるがいい。呪いよ、その時は———相手の男を殺せ』
繰り返し、繰り返し、オーロラの頭の中に響くのは、母アストリッドから聞いた、ミレイユ王妃の呪いの言葉。
「わたくしはアレックス殿下に婚約を解消してもらわなければいけない。だから、この状況は好ましいんだわ。殿下がカリナ嬢を好きになって、わたくしを邪魔だと思ってくれれば、きっと」
窓の外に王宮の建物が大きく見えてきた。
もうすぐ馬車は王宮に到着する。
「だから、わたくしはただ我慢していればいいの。そうすれば、きっと殿下が不満を爆発させて、婚約を解消するはず」
オーロラは小さなハンカチを出して、そっと目もとを押さえた。
「王妃殿下は、呪いを知っているのに、どうしてアレックス殿下と婚約させたのかしら。自分の息子なのに、なぜ———」
何度考えても、オーロラにはわからなかった。
いや、思いついた答えはある。
しかしそれは、あまりにも恐ろしい答えだった。
オーロラは頭を軽く振って、その考えから離れようとした。
ふと、オーロラの頭に、黒髪に明るい茶色の瞳をした少女の顔が浮かんだ。
セイディ・シリュー侯爵令嬢。
なぜ、あの子の顔が浮かぶのだろう。
「もし、友達がいたら、一緒にどうしようかって相談したりしたのかしら……」
オーロラはつぶやいた。
「一緒に泣いたり、笑ったり……? そんなことができる子が、うらやましいな」
馬車は止まり、騎士の手で、馬車のドアが開かれる。
オーロラは姿勢を正し、表情を整えると、息を吸って、馬車から降りた。
『笑わない伯爵令嬢』。
その苦しみと痛みを、知っている人は誰もいない。