第63話 王女と子爵令嬢(2)
「ミレイユ嬢、あなたは本当に素晴らしい。あなたほど美しい人は、夜会会場のどこにもいないよ。私の目に狂いはなかった」
「もったいないお言葉でございます、殿下」
「……二人きりの時は、殿下はやめてください、とお願いしましたよね?」
「はい……ヘンリー様」
ヘンリーはミレイユをエスコートをする腕に力を込めた。
王宮の中庭に迷い込んだミレイユと運命の出会いを果たし、ヘンリーはこの上なく幸せだった。
一方、ミレイユにとっては、ヘンリーに近づいてみれば、王家の人々も普通の人間と大して違いがないことに気づき、がっかりするような気持ちになった。
オルリオン王国の頂点である国王一家も、けして一枚岩ではなく、厳しすぎる両親、優秀すぎる姉、優秀だが自由奔放な兄、凡庸で気の弱いヘンリー、とどこにでもいそうな一家でしかない。
おまけに、王家は今、王太子になるはずだったヘンリーの兄王子、ルイベルトが女騎士と突然出奔してしまい、公にはその事実は伏せられているものの、上を下への大騒動の渦中にあった。
そんな中、ヘンリーに取り入るのは簡単なことだった。
(ルイベルト王子が出奔したのはありがたいわね。そうすれば次の王太子はヘンリー王子のはず。もっとも、姉王女アデルが邪魔だわ。あの王女は本当に頭がいい)
ミレイユは完璧な装いをして来客を迎えているアデルをちらりと眺めた。
子爵令嬢にすぎないミレイユに対しても、にこやかにそつのない挨拶をするアデル。
しかし、その心の中は読むことができず、ミレイユを本当に信用しているわけではないのは、明らかだった。
もっとも、アデルは弟であるヘンリーのことも、心から信用しているわけではないだろう。
そして、運命が動き始める。
***
オルリオン王国の一年で最大の行事である、建国祭の夜会に現れた、隣国ノール王国の王女。
アストリッド王女は、想像以上に美しい女性だった。
雪を思わせる、色白の、きめの細かな肌。
完璧な女神像を思わせる美貌。
まるで銀の糸のような髪は長く、月の光のように輝く銀の髪飾りを付けている。
ほっそりとして背が高く、青を基調としたドレスがよく似合っていた。
そんな美しい王女が、絵に描いたような金髪の美しい護衛騎士を伴って夜会に登場したのである。
さらに。
「アストリッド!」
「アデル!」
銀髪のアストリッドと金髪のアデル。
二人の美しい王女は、人々の目の前で、親しげに声をかけあい、笑顔でしっかりと抱き合ったのだ。
まるで仲の良い姉妹のように。
誰もがその光景に目を奪われ、夜会の主役がこの二人にあることは明白だった。
そして。
ミレイユは隣に立っているヘンリーを見て、凍りついた。
ヘンリーの表情。
ヘンリーは銀髪の精霊のようなアストリッド王女を、まるで魂を奪われたかのように、女神を崇めるかのように見つめていたのだった。
夢を見ているかのような、うっとりとした視線。
ヘンリーはアストリッド王女の姿を追い続けた。
その時、ミレイユは自分の計画が崩れたことを、悟った。
***
ミレイユの初めての建国記念祭夜会は、ミレイユが思い描いたようには進まず、夢は夢のままで、終わった。
しかし、ヘンリーからの連絡が途絶えて、半年後のこと。
突然、ミレイユの元に、ヘンリーからの手紙が届いた。
『あなたに会いたい』と。
突然のことに戸惑い、その一方で期待に胸を弾ませながら王宮に向かったミレイユは、なぜかヘンリーの私室に案内された。
人払いがされた室内で、所在なげに立つミレイユに、ヘンリーは言った。
「ミレイユ嬢、私の妻になってくれますか?」
ミレイユは大きく目を見開いた。
これは夢ではないだろうか?
ヘンリーはあのノール王国の王女と恋に落ちたのではなかったか。
そんな信じられない想いに満たされていると、ヘンリーは苦い微笑みを浮かべて言ったのだった。
「ごめん、嘘っぽいよね。でも、私の妻になってほしい、というのは本当だ。ノール王国のアストリッド王女は、婚約した」
「…………え?」
ミレイユはどういうことだろう、と首をかしげた。
「婚約したんだよ。金髪の護衛騎士と」
「金髪の護衛騎士?」
ヘンリーはため息をついた。
「君も見ただろう。王女が夜会に来た時に、金髪の護衛騎士と一緒にいたのを。あれは我が国が王女に付けた王宮騎士団の騎士だ。王女はあの金髪の美男がお気に召したそうだよ。婚約した」
「あ……!」
ミレイユはようやく事態が呑み込めた。
ヘンリーは投げやりな調子で、言葉を続けた。
「あの護衛騎士はどこかの田舎の伯爵家次男坊だそうだ。本人は騎士伯を持っているが、王女と婚約したことで、父上は伯爵位を用意するらしい。何しろ王女様を我が国にお迎えするのだからな」
え? あの美しい王女が、護衛騎士なんかと?
そんなことが起きるなんて———。
ということは、つまり、ヘンリーはアストリッドとは結婚しない?
ミレイユは驚いていたせいで、ヘンリーがミレイユに近づき、彼女の腰に手を伸ばしたのに気がつかなかった。
「そんなわけで、ミレイユ、君を私の妻にすることにしたんだ」
ヘンリーはそう言いながら、ミレイユを抱き込み、軽々と豪奢なベッドへと連れていく。
「え? ヘンリー様、待ってください」
ヘンリーはミレイユを選んだ。
嬉しいはずなのに、ミレイユの心は、ざわつく。
なぜなら、その理由が、アストリッドがヘンリーからの求婚を断ったからなのだ!
アストリッドは、王女から見れば格下もいいところの伯爵令息と結婚するという。
(ヘンリー様に結婚を申し込まれて、それは嬉しいわ。でも、なぜ、結婚式もまだなのに、こんなこと———!)
しかし、あっという間にミレイユはヘンリーによって巧みにベッドの中に連れ込まれてしまった。
「ミレイユ、いいだろう? 結婚するんだから。君は王女じゃなく、子爵令嬢だしな。一国の王女とは矜持が違う。結婚前に抱いたって構わないだろう?」
ヘンリーはミレイユのドレスを脱がせながら言った。
「それに———これは秘密だが、私が近い将来、王太子になるかもしれないよ。王太子ということは———次の国王は、この私だ」
部屋の明かりを消す前に、ヘンリーはつぶやいた。
「アストリッドがよかったんだが、こうなってはもう仕方がない」
***
ミレイユはがたがたのベッドの上に座り、ぼんやりと汚い壁を見つめていた。
洗面所からの水音は、まだ続いている。
(そうして国王陛下、アデル王女の反対を押してヘンリー様と結婚したんだったわ。でも、わたくしは王子妃となっても、宮廷貴族達に認められることはなかった)
ミレイユは深い物思いの中で過去の記憶に浸った。
(一国の王女から、騎士の妻へ。ノール王国の王位継承権を返上し、王女の称号も失ったアストリッドだったけれど、人々は伯爵夫人となったアストリッドに変わらず最上級の礼儀を尽くす)
(王子妃であるわたくしに軽蔑の目を投げかける同じ貴族が、アストリッドには敬意を表す)
(子爵令嬢から王子妃になったわたくしは卑しい女で、王女から伯爵夫人となったアストリッドは『真実の愛』と讃えられる)
ミレイユは小さな窓がカタカタと揺れる音に耳を傾けた。
心の奥に、どろどろとしてよどんでいた想い達が、沼底からあぶくが上がってくるように、次から次へと浮かび上がってくる。
(不公平だわ。わたくしを認めさせたい)
ミレイユは静かに行動を開始した。
ミレイユは、女騎士と出奔中のルイベルト王子に、ヘンリーと出会う前に乱暴されたと国王陛下に訴えたのだ。
当時は、それがルイベルトだと知らなかった、と言って。
ヘンリーも激怒し、父王にルイベルトの廃嫡を求めた。
アデルだけは冷静に、ルイベルトにも聞き取り調査をすべきと主張したが、王太子の座より女騎士を選んだルイベルトに激怒していた国王は、即座にルイベルトの廃嫡と、ヘンリーの立太子を決めた。
次はアデルだ。
アデルと辺境伯との縁組を国王に進言したのだ。
王太子妃となったミレイユの進言を、国王は受け入れた。
(うるさいアデルを辺境へ追いやったのはよかったわ。おかげで気分がとても軽くなった。でも、わたくしがアレックスを産んだ年に、アストリッドが女の子を産んだと聞いた)
それは後継ぎとなる男子を産んだ、ミレイユの幸せな気分を、吹き飛ばすのに十分だった。
(こうしてずっとアストリッドにわたくしの幸せの邪魔をされるのはもうたくさん)
ミレイユは決意した。
アストリッドを脅してやろう、と。
ミレイユはヘンリーとの結婚の際に、子爵家から持ち込んだ数少ない荷物を広げた。
そこにあったのは、母方の祖母から受け継いだ、古い日記。
ドゥセテラの貴族の末裔だった祖母が遺した古い日記には、今でも魔法が伝えられる彼の国の、古い呪術が記されていたのだった。
(呪いなんて、お伽噺の世界のものよ。魔法や呪術なんて、現実的にありえないわ。でも、呪いの言葉をかけてやったら、さすがのアストリッドも怖がるでしょうね……?)
外で突風が吹き、窓がガタン! と大きく揺れた。
(幸せそうなアストリッド。『真実の愛』を手に入れたあなたならば、こんな呪いを解くのも簡単でしょう?)
そしてミレイユは女児に呪いをかけた。
今までのことを謝りたい、と屋敷を訪ね、アストリッドの前で、女児に呪いをかける。
衝撃を受けるアストリッドに言ったのだ。
『おまえが呪いのことを誰かに話せば、この子どもは死ぬ。たとえ夫であろうと、話せば死ぬ』
ようやく見ることができた、アストリッドの動揺した姿を、不幸な姿と思い、初めて溜飲を下げたミレイユ。
しかし、それから何年かして、健康に見えたアストリッドが突然亡くなった時、ミレイユはふと思う。
呪いは、実在するのではないか———。
そして、予想外にアレックスがオーロラと出会った後、ミレイユの心にささやく声があった。
これは、オーロラを目の前で不幸にするチャンス。
オーロラをいたぶり、それを目の前で楽しむのだ。
ミレイユはオーロラを手元に置いて監視するために、息子アレックスの婚約者に推した。
(自分の息子も復讐の道具にするの!? 万が一にもアレックスに呪いが発動したらどうするの?)
ミレイユは自分の良心の声をあっさりと無視した。
(大丈夫よ。結婚前に、婚約破棄させればいい)
ミレイユは『真実の愛』などは信じていなかった。
アストリッド亡き今、アストリッドの娘であるオーロラは、あまりにも簡単な標的。
『真実の愛』の呪いは、オーロラを一生苦しめてくれるはずだ。
(……そうかしら?)
誰かが低い声でささやいた。
ミレイユは汚れた壁に、前髪を長くして顔を隠したオーロラの顔を見たように思った。
しかし、瞬きしているうちに、幼かったオーロラはぐんぐん成長し、一人の貴婦人の姿へと変わる。
背が高く、すらりと伸びた立ち姿。
母であるアストリッドの髪色とはトーンが違う、まるで父の金髪を混ぜ合わせたかのような、白金の長い髪がさらりと揺れた。
もはや、長い前髪で顔を隠してはいない。
アストリッドによく似た、完璧にまで整った顔だち。
印象的なアイスブルーの瞳が、強い光を帯びて、ミレイユを見つめていた。
(本当に、そう思う?)
視線を外すこともなく。
怯えることもなく。
オーロラは恐れることなく、まっすぐにミレイユを見つめる。
(呪いには代償がかかると、あれほど教えただろう、ミレイユ)
オーロラの声は、何年も前に亡くなった、ミレイユの祖母の声へと変わった。
(呪いとは、自分が差し出す代償で、望みを叶えようとすることだ。ミレイユ、おまえも支払いをする時が来たのだよ)
ミレイユは暗い牢屋の中で、悲鳴を上げた。




