第62話 王女と子爵令嬢(1)
ようやく辺境伯領に戻る日が来た。
デルマス辺境伯家の家紋が記された馬車の座席に座り、揺られながら、アデルは小さくなっていく王宮を見つめていた。
王都は都市化が進み、建物が立ち並んでいるため、王宮もすぐ見えなくなってしまう。
走りやすい舗装された道を、馬車は小気味よいほど軽々と走り、王都の外に広がる街道へと進む。
整然と隊列を組み、馬車を守る騎馬の騎士団に、王都の人々は何事かと目を丸くして道を譲った。
「国王陛下にまでお目にかかる王都行きは久しぶりだった。もうあと十年ほどはごめんだな。今度はちゃっちゃっと用件だけ果たして、国王陛下は避けて帰れるといいんだが」
珍しいことに、馬車の中には、アデルの向かいにルドルフが座っていた。
座席に斜めになって座り、人並外れて大きな体をアデルにぶつけないように苦労している。
ルドルフのやはり体の大きな愛馬は、騎士の一人が綱を自分の馬につけて一緒に走らせていた。
ルドルフは最初の宿場町に着くまでは、アデルと一緒に馬車に乗ると言い出したのだ。
おかげでアデルに同行していたモリソン夫人は他の侍女達と一緒の馬車に移ることになった。
ルドルフが馬車に乗ったら、もう他の人が入る余地はないからだ。
そうまでして乗っているルドルフだったが、ぼやきは止まらなかった。
王都滞在は一週間を超えた。
ノーランを始め、ヘルメス男爵家の人々への取り調べ。
ミレイユ王妃と子ども達、アレックス王子とコレット王女への取り調べ。
さらには証言を受けての検証作業など、不眠不休で捜査を行っても、辺境にとりあえずの結果を持ち帰るためにはそれだけの時間がかかった。
ルドルフは辺境騎士団を率いる辺境伯として、王宮騎士団長のシリュー侯爵と協力をして働くかたわら、ヘンリー国王との会議を重ねる王姉であるアデルの補佐もしつつ、王都を駆け回る毎日だった。
さすがのルドルフの声にも、疲労の色が濃かった。
「ああ、王宮は肩が凝ったなぁ。早く辺境に帰りたい。何せ王都はメシがまずくていかん。肉を食べても、味がないんだ。早く白かもめ亭の羊のローストが食いたい……」
「まあダーリン、わたくし、お礼を申し上げますわ」
アデルはにっこりと笑うと、体を伸ばして、ルドルフの頬にちゅっとキスをした。
「わたくしを心配して、好きでもない王都にまで来てくださる。さすがルドルフ様です。わたくしの目に狂いはありませんでしたわ」
そう言って、うっとりと甘い目で見つめられれば、ルドルフは顔を嬉しそうに赤くして、「おうよ」と胸を張った。
「大事なアデルを一人であんなキツネのような女のいるところにやれないからな」
「わかっておりますわ、ダーリン」
しかし次の瞬間、アデルはしょんぼりとした顔で言った。
「……でも、あの子のいないところで、話を決めてしまって。きっと恨むでしょうね……」
ルドルフは座席を移ると、そっとアデルを抱き寄せた。かなり狭かったが。
「俺達は考えられる限りのことを、あいつに教え込んだ。きっと、うまくやるだろうさ。それにオーロラがいる。彼女は本当に見どころがあるぞ。さすがおまえが見込んだだけある。当時、あんなに優秀な王子妃候補はいなかったと皆噂していたからな。きっとあいつを支えてくれるさ」
アデルは愛する夫の胸に頭を預けた。
「そうですわね。でも、王都は辺境伯領からは遠いですもの。寂しくなりますわ」
そうして、アデルはそっと目を閉じたのだった。
***
ぴちゃん……。
湿って、カビ臭い、王宮の地下牢のどこかで、水がしたたる音が響いた。
ミレイユはうつ伏せていた顔をはっとして上げると、おびえた顔で左右を見回した。
この地下牢に来てから、何日目だろうか。
すでに日にちの感覚も麻痺してしまったようだ。
ミレイユがいるのは貴人牢で、平民のための牢屋よりは待遇がいいはずだった。
それでも、牢屋は牢屋で、檻のように張り巡らされた鉄棒で仕切られているし、ベッドはあるが、寝具は薄いマットレスに薄い毛布だけ。
枕はないので、ミレイユは置かれていた薄いタオルを折り畳んで枕代わりにしていた。
石がむき出しになった床の上には、申し訳のように、すり切れた古いじゅうたんが敷かれていた。
ぴちゃん……。
もう一度水音がしたが、その音は奥にある洗面所から響いている。
一日のうち、二時間ほど水が使えるのだが、配管が古く、水が途絶えてからもどこからか水漏れがしているようだった。
「ふ」
ミレイユは顔をゆがめた。
ぴちゃん、ぴちゃんと響く音が、ミレイユを苛立たせる。
「ここに洗面所があることを、むしろ感謝しなければいけないのだけど」
ミレイユはそう呟いて、長いドレスのすそをできるだけかき集め、ベッドの上に座り直した。
少しでも座り心地がいいように。
少しでも、汚いものに触れないように。
貴人牢では、囚人でも自分の服を着ることができた。
ミレイユ今も、謁見の間で着ていたエメラルドグリーンの華やかなドレスを着ている。
しかしその豪華なドレスが今ほどバカバカしく見えたことはなかった。
ドレスは重く、裾が長く、動きにくく、けして実用的ではない。
おまけに牢屋でこんなドレスを着ている自分は、まるで道化だ。
時間が過ぎるほどに、ドレスはどんどん汚れ、痛み、みすぼらしくなっていく。
もともと質素で、飾りのない服を着ていた方がよほどましに見えるだろう。
もっとも、ミレイユは牢番に頼んで、着替えを届けてもらうこともできるのではと思った。
ヘンリーはミレイユを牢屋へ送ったとはいえ、離縁はしていないのだ。
妻に多少の差し入れくらいはしてくれるだろう。
あるいは、オーロラの呪いを解けば、牢から出してくれるかもしれない。
「ふふ。呪いが解ければ苦労はしないのだけど」
ミレイユは苦々しく笑った。
(こんなみじめな場所にいると、子どもの頃を思い出すわ。わたくしは貧乏な子爵家の娘で、お茶会に出席できるドレスを買うために、借金をしなければならなかった)
ミレイユは目を閉じ、過去の記憶の海へと飛び込んでいく———。
***
『ミレイユ、こんな簡単なこともできないのか! いいか、我が家には金がないんだ! 人のよい貴族のお嬢さんに取り入って、古いドレスをもらって来い! おまえのドレスなぞに払う金はないんだからな! ゆくゆくは金持ちの男を捕まえて、我が家の借金を肩代わりさせるんだ。せいぜいその器量を磨けよ? まあまあの顔とその体に生んでやった両親に感謝しろ!』
ミレイユは両親を憎んだ。
そして、誓ったのだ。
言いつけどおり、金持ちの、そしてさらに身分も極上の男性を捕まえてみせると。
そして、実家を捨てるのだ。
銅貨一枚も与えずに———。
「建国祭の夜会ですか?」
ミレイユはお茶会の席で、初めて聞く話に、頭をかしげた。
「ええ。ミレイユ嬢も出席なさるでしょ? 皆、出席ですもの。それで、ドレスはもうお作りになったのかしら、と思って」
誰かがくすり、と笑い、他の令嬢達もくすくすと笑っていた。
そのお茶会に参加していたのは、公爵家、侯爵家、そして伯爵家の令嬢達。
上位貴族の令嬢ばかりが集まっていた。
ミレイユのような子爵令嬢、男爵令嬢は誰もいない。
ミレイユは積極的に上位貴族の令嬢達に声をかけて交流し、なんとか彼女達のお茶会に招待してもらったのだ。
礼儀を無視して身分の高い令嬢達に自ら話しかけ、いつも同じデイドレスを着てお茶会に参加するミレイユを、令嬢達は陰で笑っていた。
しかし、ミレイユはそんなことに構ってはいなかった。
少しでも身分が上の令嬢達と付き合って、なんとか少しでも身分が上の令息と知り合い、今の暮らしを抜け出すこと。
それがミレイユの悲願だった。
それには立派な貴族家の令息と結婚するしかない。
幸い、ミレイユは美しい顔だちと豊かな、女らしい体つきを持って生まれた。
金髪でも、赤みがかった色合い、さらに貴族らしい青い瞳ではないことは痛かったが、こればかりは仕方がない。
(なんとか出会いのきっかけをつかむの)
たとえ令嬢達に嘲笑われても、ミレイユはそれだけを目指して頑張っていた。
「……ドレスは、これから作るところですの。でも、大丈夫ですわ。かならず間に合わせます」
ミレイユはそつなく言った。
対する令嬢は扇を口もとに当て、ふふっと笑う。
同席している令嬢達もこの会話に興味を引かれたのか、次々と話に参加してくる。
「素敵なものをお作りになることね。何しろ、夜会にはヘンリー王子殿下が出席なさるから。まだ婚約者を決めていらっしゃらないから、皆、気合が入っているのよ」
「……気合いは入っているんですけど、アデル王女殿下も同席なさるでしょ? 殿下のお美しさときたら際立っていますし、姉君として、ヘンリー王子殿下に近寄る令嬢達には厳しいですわよ。まず、アデル様に気に入ってもらわないと、難しいのよねえ」
もう一人の令嬢もうなづいた。
「これは内緒ですけど、当日はノール王国からも王家の方が国賓としていらっしゃるそうですわ。もしかしたら……あの、お美しいと評判のアストリッド王女殿下がいらっしゃるかも———」
アストリッド王女、という名前を聞いて、悲鳴のような、大げさな失望の声が上がる。
「なんてこと! あの方がいらしては、わたくし達にチャンスなどないわ。ノール王国の王族の方は、皆、夢のように美しい銀髪をお持ちよ。しかも美形が多いということで有名な国ですもの……」
ミレイユは令嬢達の噂話に、注意深く耳を傾けていた。
(王女ですって? でも、わたくしだって、負けないわ。ヘンリー王子殿下にお会いするチャンスさえあれば、きっと、わたくしに目を止めてくださるはず)
その時、ミレイユはふとあること思い至った。
(バカ正直に夜会まで待つ必要はないわ。もしアストリッド王女が夜会に来るなら、その時に見染めてもらうことは難しい。何しろ、美しいと評判の方が、お金に糸目をつけずに用意した、華やかな装いをしてくるのは間違いないのですもの。まともに比べられたら勝てないわ。むしろ、夜会の前にヘンリー王子と出会って、気に入ってもらえれば)
ミレイユはうなづいた。
(そうよ。むしろ……飾り気のない、清楚な令嬢として出会い、王子の気を引くの。そして、子爵家の状況を匂わせて、同情を買うのよ)
ミレイユは誰もが華やかに装っている令嬢達を冷たい視線で眺めた。
(残念ね。あなた達が動く時には、手遅れになっているわよ。わたくしは夜会の前にヘンリー王子と出会う方法を考えよう)
そうして、優秀な姉王女アデル、兄王子ルイベルトと比べられて鬱屈していた王家末子のヘンリー王子は、王宮の中庭で、今まで会ったことのないような、清楚で純真な令嬢と出会う。
大粒の涙を浮かべた令嬢は、赤みがかった金髪を背中に垂らし、身を飾る宝石もいっさいなく、質素なドレスを身につけていた。
「……ヘンリー王子殿下? も、申し訳ございません……!! 大変な失礼を。どうぞ、父には言わないでくださいませ。ど、どんな罰を受けるか———」
ミレイユは赤みがかった髪を震わせ、泣きながら地面に突っ伏した。
驚きのあまり立ち尽くすヘンリー王子からは、広く開いたドレスのえりの先に、豊満に育った白い胸の膨らみが見えている。
ヘンリーは顔を赤らめた。
「か、顔を上げてください、美しい人。私は誰にも言いません。どうか心配しないで。それより、あなたの名前を教えてくれませんか———?」




