第6話 王妃の教え(1)
オーロラはたった一人で、王宮の廊下を歩いていた。
ミレイユ王妃がそう命じたからだ。
自立心を養うため。
侍女や、付き添いと一緒に王宮に来てはいけない、と。
父親であるフォレスティ伯爵は、そんな愛娘の姿を王宮での勤務中に見かけた。
フォレスティ伯爵が心配げに見守る中、オーロラは一人で、王子妃教育のために、ミレイユの執務室へと向かう。
「見て、あの子がアレックス王子殿下の婚約者ですって」
「知っているわ。オーロラ・フォレスティ伯爵令嬢でしょう?」
「信じられないわね、あんな冴えない子が……」
「みっともない……」
王宮の廊下で、華やかに着飾った令嬢達が、壁際に一列に並んで、オーロラを眺めている。
オーロラが彼女達の前を通り過ぎると、抑えたクスクス笑いが、聞こえて来るのだった。
(反応してはだめ。あの子達をもっと喜ばせるだけだから)
オーロラは心の中で自分自身に言い聞かせる。
オーロラはきゅっと口を結び、小さな顔から少女らしい表情が消える。
オーロラの足取りが早くなり、まるで廊下を飛ぶようにして通り過ぎると、令嬢達はもう遠慮するのを止めた。
弾けるような笑い声が、廊下に響いた。
「オーロラ。遅刻よ。時間に間に合わないなんて、恥ずかしいことです」
「申し訳ございません、王妃殿下」
王妃の執務室に入ると、オーロラはカーテシーをして、深々と頭を垂れた。
「顔を上げなさい、オーロラ」
「はい。王妃殿下」
ミレイユ王妃は、オーロラをじっくりと眺める。
今日、オーロラが着ているドレスは、オーロラの体よりも一回り大きなドレスだった。
色はえび茶色。
露出は極限まで抑え、襟もとはきつく詰まっており、袖は長袖。
飾りもまた極限まで抑え、少しのレースも、フリルもない。
それはまるで大きな布袋のように見えた。
このドレス、ミレイユ王妃からの贈り物である。
最近、オーロラの背が急に伸び始めたことを言い訳に、ミレイユが贈るドレスは、すべて大きく、不恰好なものばかりだった。
ミレイユのやり方は徹底していた。
アレックス王子の名前ではいっさいの贈り物をさせないくせに、ミレイユはしばしばオーロラに贈り物を送った。
そのすべてが、オーロラには似合わないものばかり。
しかし、贈られたオーロラは、王妃の前でそれを身につけなければならない。
この日も、えび茶色のドレスを着たオーロラを、ミレイユは残念そうな視線でじっくりと眺めて楽しんだ。
「……とても高価な、外国の布地を使ったドレスなのに、あなたが着ると、みっともなく見えるわ。本当に、残念なことね。オルリオンの宮廷は流行の発信地なのに」
ミレイユはオーロラに感想を述べる。
「申し訳ございません、王妃殿下」
オーロラは無表情にそう返した。
ミレイユの言葉に乗せられてはいけない。
ミレイユから贈られたドレスを着るのを止め、少女らしいドレスを着たら最後、ミレイユは大喜びでオーロラを責め立て始めることが、オーロラにはよくわかっていた。
(愚か、身の程知らず、考えが浅い、生まれが知れる……この人がそうした言葉を若い侍女達に投げつけるのを、わたくしは何度も見たわ)
王妃であるミレイユに仕える侍女達だ。
誰もが貴族の令嬢のはず。
(この人は自分より目立つ女性が許せないはず)
オーロラの顔は、ミレイユの指示で、いっさいの化粧をしていない。
「十二歳らしい装いにせよ」というのが、ミレイユの方針である。
後ろに髪をひきつめ、長い前髪を下ろして、目元を隠す髪型は、今までどおりだ。
ミレイユは、この髪型を気に入っている。
「年相応で、愛らしい」というのがミレイユの言葉である。
おかげで、オーロラが王宮に来る度に、王子の婚約者がおかしな格好をした令嬢である、と評判となり、人々の関心を集めるのだった。
「もういいわ。あなたの部屋に行きなさい。そこで授業を受けるのです」
「かしこまりました、王妃殿下」
オーロラは丁寧にカーテシーをして、王妃の元を辞す。
自分用に用意された小部屋に行き、そこでミレイユが用意した、明らかに十二歳の令嬢レベルを超えた、難解な学科の授業を受けるのである。
教授陣は超一流である。
そこで、王国の歴史、地理、経済、各国語、哲学、文学などを学ぶ。
アレックス王子が嫌がって投げ出した、高度な教育を、オーロラは無料で受けることができる。
オーロラは、ミレイユの前で、見るからに悲しく、残念そうな表情を作った。
オーロラが嫌がっているとみれば、ミレイユはこの授業を継続して受けさせてくれるからだ。
一方、将来の王子妃として必要な礼儀作法、貴族年鑑をもとに、各貴族家の歴史や現在の当主、その家族などについて学ぶ時間は一切ない。
オーロラがアレックス王子の婚約者として社交の場に出ることもなかった。
「オーロラ嬢! さあ、今日もどんどん進めていきましょうか。気になるところは遠慮なく質問してください」
小部屋のドアを開ければ、教授達が挨拶もお構いなしに授業を始める。
彼らはそれが誰であれ、授業に熱心で自分なりに考えようとする生徒が大好きである。
生徒に意外な質問をされ、答えに迷うようことが起これば、「いいところに気付きましたね!!」と教授は大喜びでああでもない、こうでもない、と目をキラキラさせて最高の答えを出しにかかるのだ。
こうしてオーロラは、彼女の茶色い布袋のようなドレスや、おかしな髪型など気にもしない最高の教授陣とともに、最高の教育を得たのだった。
***
「お母様、本当ですの? あのおかしな白髪の令嬢が、アレックスの婚約者になったと言うのは」
ミレイユ王妃が午後のお茶を楽しみにサロンにやってくると、そこにいた娘のコレット王女が、とがった視線で母を迎えた。
コレットはミレイユとヘンリー国王の第一子。
アレックスの姉である、第一王女だ。
コレットは十六歳。
今年デビュタントを済ませてから、急激に大人っぽくなり、年頃の令嬢らしくなった。
コレットが身につけているのは、最新流行の『散歩着』というもの。
軽い素材を使った、着丈の短めのドレスで、名前のとおり午後に庭園を散歩するためのドレスだ。
ドレスに合わせて、帽子とパラソルまで揃えている。
しかしその色は、熟れたての苺のような赤で、赤みがかった髪のコレットには少々微妙と思われた。
「王立学園のお友達も皆笑っているわ。白髪の令嬢が王子の婚約者だなんておかしい、って」
コレットは目鼻だちも整い、けして見劣りするような少女ではない。
しかし。
オーロラの髪色に触れるコレットの言葉に、ミレイユは顔をくもらせる。
アレックス同様、コレットもまた、赤みがかったブロンドに、茶色い瞳をしている。
顔だちは美しいのだが、髪色と瞳の色同様、母であるミレイユにそっくりだった。
この髪色と瞳の色は、ミレイユにとって、ひそかなコンプレックスなのだ。
(なぜ国王陛下に似なかったのかしら。陛下を見てもわかるとおり、王家に受け継がれている髪色は、金髪。瞳の色は、青色よ。貴族達だって、上級貴族ほど、金髪の者が多いというのに)
オルリオン王国では、金髪は高貴な血の証。
貴族達にも金髪は多く、とりわけ混じりけのない金色の髪が最上とされている。
赤みがかったブロンドに茶色い瞳は、ミレイユの生家である、男爵家に受け継がれている色だった。
(一人くらいは、王家の色を受け継いでくれるかと思ったのに……)
可愛い子ども達に直接言うことはなかったが、ミレイユにとって、それは悔しい、とても悔しい事実だった。
貴族達や大臣達がミレイユの機嫌を損ねないように、髪の色についての話題をさりげなく避けるのも悔しい。
そしてその悔しさを増幅させるのが、たかが伯爵令嬢である、オーロラ・フォレスティの「色」。
隣国ノール王国の王族は、美形揃いで知られている。
その色は、銀色の髪に青系の瞳だ。
ノール王国の王女だった母、アストリッドの銀髪と、王国随一の美男と評判の高かった父の混じりけのない金髪は、金髪の中でも珍しい白金の髪となってオーロラに受け継がれた。
たかだか、騎士の娘なのに……。
アストリッドの娘のくせに、高貴な色を持つなんて。
そう思うと、ミレイユは、たった十二歳の少女であるオーロラに、激しい怒りを感じるのだった。
「コレット。あの娘のことなど、気にすることはないわ」
ミレイユは言った。
「今はアレックスの気が済むように、あの娘を婚約者にしているだけよ。オーロラは格下の伯爵令嬢。本来なら、王子の婚約者になるなんて、恐れ多いことだわ。あのさえない娘を見たでしょう? 将来の王太子にふさわしいと思う?」
「もちろん、ふさわしくありませんわ、お母様。アレックスもどうかしています。なぜ、あんなおかしな子を婚約者にしようなどと思ったのかしら。わたくしには理解できません」
そう答えるコレットの頭からは、オーロラの母が隣国の王女であったことなどとっくに抜けている。
オーロラはただの伯爵令嬢ではない、隣国ノール王国現国王の姪に当たるというのに。
ミレイユは微笑みながら、紅茶茶碗を優雅に持ち上げた。
「コレット。あなた、あの娘が嫌なら、追い出してもかまわないのよ? そうしたらアレックスも目が覚めるでしょう。あんな娘にだまされて、アレックスがかわいそうだわ。きっと、アレックスは不幸になってしまう。———どうして、国王陛下も、アレックスも、男達にはわからないのかしらね? ものの道理がわかるのは、コレット。あなただけよ」
ミレイユが頼もしげにコレットを見つめると、コレットは顔を赤くした。
「あなたは、本当にいいお姉さんだといつも思っていたわ。弟思いで、賢くて。あなたはただの王女には、もったいない子だって、わたくしには、わかっている———」
コレットは、ごくりと紅茶を飲み込んだ。
「お母様。どうぞわたくしに任せてくださいませ。あんな娘は、大切なアレックスに、ふさわしくありませんわ。わたくしがあの生意気な娘に、思い知らせてやります」